現在地 HOME > 掲示板 > 議論17 > 1022.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: [試論でしかないですが]*共有可能な「利」である「理」を、共同/協働で追求する事について 投稿者 鈴を贈るねずみ 日時 2004 年 5 月 22 日 19:26:49)
上記投稿は、愚考さんのご投稿をきっかけにしています。愚考さん有り難うございます。
無理です。「利を争うことは理を争うことである」(福沢諭吉)。この言葉を死語にした国の民が集う場所ですから(本文なし)
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/439.html
投稿者 愚考 日時 2004 年 5 月 15 日
福沢諭吉が語ったこととは違った筋で捉えているかもしれませんが、きっかけとして考えさせられました。
日本人は、何故議論を成立させる事を重要と考えないのか、どうして議論の基礎を軽視しようとするのか…
別途ふと思い当たった事が、中国の躍進とその根源的理由のひとつです。
彼らは国策が転換して、個人の努力が個人の利益になるシステムが可能と判断した時点で猛然と
自己転換したと考えています。実利的なんですね。
(結果的に現況で社会の大きなひずみや環境的悪影響等をコントロール出来ていないと思いますが…)
このように吾身に切々と関わる問題として、「理」の追求が「利」の追求に向かうという実感が、
日本の個人の生成と連関した時、何か転換しないだろうか…
その可能性はあるでしょう。
「利」は何もお金に限りません、災厄の拒絶や健康で楽しい生活だって優れたお金以上の「利」ですから。
なお、この考えは如往さん、愚民党さん、東北原人さん、岩住達郎さん、あっしらさん、そして長壁さんたちの
ご投稿を読む中から時を共有して静かに湧いてきたものです。
あっしらさんは既に、先の投稿の
>* ……… (※この部分にオキテが入る)
の部分を切々と語って来られたと思っています。
ここで、時間的限定性、個別性の強い問題に絡めながら語るのではなく、あっしらさんによって
coherentに精錬された深き一般論として語られたものがあればと思います。
しかし、個別的にはずっと語られ来てもそれが理解されず、有効に機能してこなかったのは何故なのか。
もっと「場」を成立させる個々の協働性と、それによる「利」が切々と認識できる実感的(身体的)切り口
あるいは枠組みでの説得になっていなかったからだろうかと思っています。(最近は違いますが)
この国の人間の弱点に絡めながらでも何でも、現在の日本人が切々と「理」の「利」に結びつく事実を
切々と、あるいは希望をもって感応し身に感じられる切り口での論考があれば…
あっしらさん、言い過ぎであったらどうぞご容赦ください。