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(回答先: Re: 『エクソダス』では<牢獄のような一様で均質な閉じられた共同体としての日本国家>からの脱出が‥ 投稿者 東北原人 日時 2004 年 5 月 15 日 06:19:31)
東北原人さん、如往さんの返信に高度な問題意識と思索の深さを感じました。
ありがとうございます。
如往さんの地球というMatrixを主軸にする
現代世界の最終戦争、そこにおける非対称をめぐる現実戦争における
日本の
------
「降服」をモメントにするか、Matrixへの「呈上」に到達しなければ得られない境地なのか?
-------如往さんの問い
自分は応答することが、いま現在の力では、できません。
申し訳ありません。
ただ如往さんの「非対称」をめぐる問題意識は
現在世界戦争洞察の基軸であると実感しております。
思想の洞察とキーワードは「非対称」をめぐっての問いに突入したと感じております。
如往さんの感覚は現代思想が現代世界を問う、軸であると感じております。
自分はカオスであり馬鹿です。
深酒のなか東北原人さんの投稿に誘発されました。
村上龍は自分と同世代であり、注目してきた文学者でした。
「コンイロンカーベイビーズ」「愛と幻想のファッシズム」
村上龍文学を一点において集約した批評者は加藤周一であると思っております。
彼は「限りなく透明に近いブルー」とは
アメリカ合衆国と日本の関係項であると、一点において批評しました。
>近代主義の言葉では日本とは何かを探求できず失敗してしまう。
>日本とは何かを思索することは日本常民の課題である。
>日本には何層にも渡って、「もうひとつの日本」が生成している。
>その日本とは、村上龍「5分後の世界」である日本ではない。
>古代、中世、近世からの呼び声が現代とリンクしている葦の原、沼である
ここにおける、自分の根は
鶴見俊輔たち思想の科学が出版した「共同研究・転向」にあります。
軍人、革新官僚、文学者そして革命者の「転向」の動向が解析されて
おります。
>近代主義の言葉では日本とは何かを探求できず失敗してしまう。
わたしのカオスは、戦前における「近代主義」の行方にも
あります。
転向者は時の絶対天皇制度に屈服したとゆうより、牢獄で
「もうひとつの日本」を、日本とはいくつもの層によって生成していることを
発見したのではないでしょうか。
北一輝にしても「最終戦争論」を書いた協働主義の石原にしても
最後は「法華経」を語るのですが
彼らは日本と宇宙の接点をみたのかもしれません。
東北原人さんの
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>をめぐる
思索と言葉は、現在の日本国家自己運動の根幹を
表出したと感じました。
自分は1989年以降の日本制度とは
ドームに囲まれた雰囲気であると感じております。
つまり、日本とは資本主義=社会全体主義国家であり
東欧からソビエト連邦の崩壊は確実に日本と連動した、内面の崩壊90年代であったのですが
日本における90年代の特徴こそ
自己省察の力を喪失した10年間であったと実感しております。
90年代こそ個と内実が問われていたと思います。
内実としては柄谷行人「他者の発見」とは違う
「自己完結」閉じられた世界へと収束されてきたと実感しております。
その集約的国家言語こそが
「イラクに派兵された自衛隊は自己完結な組織ゆえ安全である」とする
小泉純一郎と公明党の自己表出言語です。
自分の場合、個の落下をえた言葉を希求しております。
自分ははてしない崩壊したルサンチマンではありますが
近代的自我の形成に失敗した、そのつど崩壊の危機をかかえながら生活していく
愚者の実態とカオス生成、それが自分です。
何故、自分の場合、反近代主義なのか?
日本革命から転向し、芸能の場所に転位したからです。
芸能におそらく普遍はありません。
しかし自分が実感する芸能史においては
「もうひとつの日本」が生成しているのです。
東北原人さん、如往さん。なにひとつお答えになれず、申し訳ありません。
自分はおふたりの言葉に、久しぶりに阿修羅サイトらしい
真摯な応答関係をこの手に握ることができました。
それは石川啄木「一握の砂」「時代閉塞の現状」に通低する言葉として・・・
ありがとうございました。
「日本とは何か」
自分の感覚で言えば、それは個の場所に生成する身体と意識の
応答実態にあり
個と個の応答によって現出する、層であると思います。
層がある集合的応答関係によって、いま現在に出現する場所こそ
日本かもしれません。
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>の層とは
表層にもならず深層にもならない
きわめて中途半端な代物であると判断しております。
個を通過した代物ではないからです。
舞台ではベニヤ板でつくった背景を書割と呼びます。
その物質は舞台照明を浴びると、実相という幻想を観客に投影します。
舞台照明を浴びた日本国家
つぎに来るのは「目潰し」
舞台から観客に向けて照明を浴びせます。これで舞台裏方の仕事は見えません。
日本の68年〜72年の運動は
明治維新100年をはさみ
アジアでの大日本帝国による拡張戦争を内省いたしました。
自己否定の落下まで。
しかしアメリカ合衆国と西ヨーロッパのベトナム反戦運動は
おのれたちの植民地収奪、原住民を抹殺し土地を奪い取った歴史を
自己省察するまで、個が自己否定するまで落下しませんでした。
ゆえにクリントンは大統領になり
フランス五月革命の闘士たちも、政権に入ることができたのです。
それが日本と西欧における自己を問う深化の違いであったと思います。
現在、自分は日本は自己否定まで落下していった、そこに希望があると思います。
ゆえに一遍上人が見なおされているのだと思います。
日本は過去を革命によって破壊した西欧と違って
過去の歴史と過去の人物と応答関係が可能となるのです。
そこに希望があると思います。
「自己否定」という問いは、消して無駄ではなかったのです。
68年〜72年、この時代は、消して無駄ではなかったと、強い心で言えます。
「自己否定」こそ親鸞上人に出会い、柳田国男に出会い
「もうひとつの日本」を発見する旅の結節となったのであると思います。
そしてそれは日本に自己完結することはない、「自己否定」でした。
他者を発見できる「自己否定」であたっと思います。
日本もまた他者であるからです。
ゆえに他者としての日本は
「日本とは何か」として問いつづけていく個が
層との回路を・・・
帝国と個人、そして人間としてのメディア。