現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ35 > 644.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 日本とは何か 投稿者 愚民党 日時 2004 年 5 月 15 日 02:03:24)
愚民党さん。
とても的をついたレス、
大事な文献のご提示ありがとうござました。
私は最近投稿をはじめた、ぐうたらな阿修羅への一投稿者に過ぎませんが
阿修羅によせられている情報にはとても多くのことを学んできました。
愚民党さんの投稿にも関心を持っておりました。
また投稿されている方たちが示されている認識や思想にも、
とても多くの刺激を受けてきました。
最近では、テレビの時事的な報道番組や新聞等を見るときの視点が、随分違ってきていている自分を発見します。
今回も、愚民党さんが示されている文献の存在を知り、
是非読んでみようと思っています。
「国家としの日本とは何か」
「国家とは何か」
「天皇制をどうとらえたらいいのか」
など現在の私がいまぶつかっている問題にほぼ合致するような視点からの
文献のご教示とコメントの認識に、とても感謝しています。
網野氏の著作は少しずつ読み始めていたところなのですが、
ご指摘の本は知りませんでした。ありがとうございました。
村上龍の件について少し話しをさせて下さい。
『希望の国のエクソダス』は、いろいろな読み方ができると思いますが、
冒頭部分のパキスタンの日本人少年の事件に関わるエピソードと
後の大部分を占める80万人の不登校中学生の日本からのエクソダス
との関連を思うとき、
私としては、
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>
からの脱出がテーマになっているのだ
と思えたのでした。
村上龍は、
この小説執筆の直前に、
インターネットの世界にのめりこむ閉じこもり青年をテーマにした
『共生虫』を書いていますが、実は、これも
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>に対して
個人はいまどのように自由になれるのか、
あるいはどのように反抗(?)することが可能か、
がテーマになっているのではないかと思っていたのでした。
<閉じこもり>とは、まさしく、
牢獄と化したたかのような国家に対して、
意図的に自分自身を独房に閉じ込めて、世界との関係を遮断してしまうことで、
<国家>の介入・侵入をさせないという、
<日本国家>への関係のとり方の一つなのではないか、と思ってきました。
実は、前に読んだ『希望の国のエクソダス』を、いま思い起こし、
もう一度読んだりしたのはなぜかというと、
イラクの3邦人人質問題が、きっかけでした。
陰謀説から自作自演説まで、そして自己責任論など、
様々な観点から人質問題への言及がなされましたが、
私は、そういった観点とは違う問題の所在を感じてきました。
そういった観点から見なければならない側面があることも確かですが、
それは多分、事柄の本質、的をついていない、と。
特に、高遠さん、については、その感じを強めていました。
私は、本人達は明確に意識していたかどうか、
あるいは、
明確にそういう動機をもっていたかはわかりませんが、
というようりは、
無意識の内に、
自分でもよく自覚されないまま、
彼らは、
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>
の外に出ようとした、
あるいは、
外に出ることによってしか、成し遂げられないことを、
やろうとしていた、
と思われたのでした。
高遠さんが救おうとしていた、イラクのストリートチルドレンは
薬に犯されたチルドレンで、
彼らはNGOの救済対象になっていないという
北海道新聞の記事があったと思いますが、
つまり、イラク自身はもちろん、米国をはじめ国家による人道復興支援の対象とならない、すなわち国家という枠組みから見て、どこからも棄民されてしまっているような存在としてのストリートチルドレン(しかもそれは日本の太平洋戦争直後の戦災孤児や中国残留日本人孤児の問題に集団的記憶のレベルで繋がっている)に
関わろうとしていたのだ、と。
それが国家的な枠組みの中では、
不可能であるというのは、極めて明確だったはずです。
つまり、
高遠さんが関わろうとしていたストリートチルドレンを
救うためには、日本も含め<国家>の外にでるしかなかったのだ、
と私には思えたのでした。
その状況に、『エクソダス』のパキスタンの日本人少年の状況が重なったのでした。
だから、彼女(達)が、若し「イラクに残りたい」という意志を持ち、
その意志を貫徹し、つまり
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>
への収容を拒否し、
例え亡命(?)してでもイラクに残り
ストリートチルドレン救済に関わろうとしていたなら、
もっともっと事柄の本質は見えてきたでしょう。
そして、当の日本政府から自作自演説や自己責任論をぶちあげられるという、
その事態には、まさしく
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>
の外に
出ようとした者への、
あるいは出ようとすることへの、
脱獄囚への対応にも似た、
日本国家権力の焦りと抹殺しようとする意志を感じたのでした。
ちょうど人質事件の発生と同じタイミングで、NNNの深夜の報道番組が、
高遠達のようにアンマン経由でイラクにボラティアで入国する若者が多くいる
というニュースを流していましたが、
それなども、
閉じこもりによって対抗するのでなく、
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>
の外に出ようとする若者の意志が現れている現象として注目しました。
多分、現在では日本国政府の姿勢で封じ込められているでしょうが。
さて、愚民党さんの、ご指摘は、多分、
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>
という捉えかた自体が、
「近代主義」的なのだということなのだと思います。
そしてその「近代」なるものの正体、実態は、
一様で均質な閉じられた世界でなどなく、
多様にして多層、複雑な歴史時間が交錯する世界を押し殺し、
あたかも一様均質な世界であるかのごとく形成されているに過ぎないのだ、と。
その事への認識や理解を突き詰めていけば、
<牢獄と化したかのような均質で閉じられた共同体としての日本国家>
にただ拘束されているだけ、という認識は突破できる筈だ、と。
そのように愚民党さんの、意図を理解してよろしいのかどうか
わかりませんが、
もし、そのような意図に近いのだとすれば、
それは十分に納得できます。
もう少し、ご指摘の文献等に触れ、
愚民党さんの過去の投稿に触れ、
勉強しよと思いますのでよろしく、です。