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(回答先: 親ファシズム・反国際金融資本・反戦の詩人―「歴史の中のエズラ・パウンド」:野上秀雄氏 投稿者 小魚骨 日時 2004 年 5 月 13 日 19:10:09)
「歴史の中のエズラ・パウンド」第12章 嵐の30年代のなかに、ゲゼルの貨幣論に対して、「ケインズは、このシステムを、「反マルクス主義的社会主義」であり、基本的には健全であるとしたが、貨幣に代わる宝石、貴金属などの貯蔵によって、こうしたシステムをくぐり抜けることは可能であり、根本的な問題は解決されないとしている」と批判したという内容がある。
ケインズの該当論説に直接あたったわけではないので、あくまでもここに書かれている内容に即してというお断りの上でケインズのおかしさを指摘したい。
ケインズは、おそらく「価値の保存」という観点からフライング気味に引用した内容の説明をしたのであろうが、経済学者としてはまことに恥ずかしい批判をしていると言える。
ゲゼルの貨幣論は、現在の貨幣もそうだが、貨幣そのものが価値を持つ金本位制度の廃止を基礎にしている。
例えば1円=金1gといった金本位制ならば、紙幣のみが時間とともに減価していくのなら、減価しない金のかたちで保存して劣化を防ぐという手段は有効であるが、ゲゼルの貨幣論は本位制ではないだから金の価格(価値)が維持されるという保証はない。
500万円がお金のままでは年に12%減価するからといって宝石や貴金属を買っても、1年後にお金が必要になって売ったとき、20%も減価した400万円にしかならない可能性だってある。
(これは、80年代には1オンス=800ドル超の価格をつけた金が現在でも400ドル前後であることや金が波動的な価格変動をしていることを考えればわかる)
一方、ゲゼル貨幣論の目的は、宝石や貴金属になった500万円は他の人の手に渡って使われ続けるのだから社会全体の購買力を維持されており問題ない。
ゲゼル的貨幣制度における宝石や貴金属は、価値保存目的ではなく、装飾や実用品として“消費”される対象になる可能性が高いと言える。(お金に窮したときに手持ちの装飾品を換金するということはありえる)
貨幣はあらゆる財と交換できるものだが、宝石や貴金属は“猫に小判”や“豚に真珠”ではないが誰もがそれを欲する(手持ちの財と交換してくれる)わけではない。
(水を含む食糧がぎりぎりという社会状況になれば、ダイヤモンドよりも水・米・パンが選択され、貨幣さえそれほど選択されなくなるだろう)
経済学者であるならば、貯蓄にペナルティを課す貨幣制度と一括払いが困難な設備投資や不動産購入などとの関わりや、消費されない財の生産活動に従事することで得る貨幣までもが“一気”に消費に向かうことで起きる問題を指摘するのがまっとうな対応である。
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「歴史の中のエズラ・パウンド」第12章 嵐の30年代より:
「一九三五年頃から、パウンドは、ダグラスと共にゲゼルの経済理論に関心を持ち始めた。シルヴィオ・ゲゼル(一八五二〜一九三〇)は、ドイツで生まれ、南米で事業を行って財産を築いたあと、一九一九年にバイエルンにできたソヴェット共和国の蔵相になった経済の専門家であった。その後、ナチスに捕らえられて刑務所に拘留された時期もあった。
資本主義の枠内での変革を提唱している点では、ゲゼルの理論はダグラスの理論と同じであったが方法は異なっていた。一九〇九年に出版され、補追されて版を重ねた著書『経済の自然秩序』で、彼は、貨幣そのものが価値を持つ金本位制度のような貨幣制度を廃止すべきであると提案し、代わりに、貯蓄しておくと次第に価値を失う貨幣の導入を提唱した。具体的には、紙幣に空欄を設け、政府から購入したクーポンを、そこに定期的に貼り付けることによって、額面が維持されていくという貨幣制度である。クーポンは、貨幣の所持に対する課税の意味を持っている。パウンドは、ゲゼルの理論の簡潔さと明解さに強い印象を受け、ダグラスの理論よりも実行に移すのが容易であり、健全な課税制度であると考えた。(4)
ゲゼルは、このシステムを、彼が蔵相を務めていたバイエルン政府で実行しようとしたが、政府が崩壊したためにできなかった。ケインズは、このシステムを、「反マルクス主義的社会主義」であり、基本的には健全であるとしたが、貨幣に代わる宝石、貴金属などの貯蔵によって、こうしたシステムをくぐり抜けることは可能であり、根本的な問題は解決されないとしている。(5)
アメリカでは、貨幣数量論で知られる経済学者のアーヴィング・フィッシャーが、ゲゼルについて論じた。パウンドは、フィッシャーの著作を読み、ゲゼルのスタンプ・スクリプの考えを知った。一九三三年には、『ニュー・イングリッシ・ウィークリー』にフィッシャーの著書の書評を書き、一九三四年にはフィッシャーに宛てて手紙を書いた。
オーストリアのヴェルクルという町では、実際にゲゼルの理論が町政に取り入れられており、パウンドは、一九三〇年代の初めにそのことを知って『キャントウズ』の第四一篇(6)に書いた。また、一九三五年の夏、オルガ・ラッジと共にザルツブルグ音楽祭に行ったときには、ヴェルクル町長の家を訪ねた。町長は木を切りに出かけていて留守だったが、パウンドは夫人と話した。その時のことを、彼は、『ピザン・キャントウズ』(第七十四篇)(7)に書いている。」
http://www1.seaple.icc.ne.jp/nogami/epih21.htm