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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040312-00000074-mai-soci
推古朝の最高権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)(?〜626年)の墓との説がある石舞台古墳=奈良県明日香村=に近い島庄(しまのしょう)遺跡で、7世紀前半の大型の掘っ立て柱建物跡が見つかったと、村教委が11日発表した。一帯は従来、馬子の邸宅があったと推定されており、その中心的な建物の可能性がある。当時の政治を主導した馬子の権勢の一端を知る重要な資料として、注目される。
日本書紀は「大臣(馬子)が飛鳥川のほとりに家を造り、庭の池の中に島を築いたので、人が嶋大臣といった」と記述。地名「島庄」から、付近に馬子の邸宅「嶋の家」があったと考えられてきた。72年には、一辺42メートルもある7世紀前半の「方形池」跡を発掘。嶋の家との関連が指摘されている。
石舞台古墳の西約200メートルにあり、方形池の南に位置する約500平方メートルを、遺跡の範囲確認のため今年1月から調査。三つの時期にわたる9棟分の建物跡が見つかった。
最古・最大の建物跡は、幅7.2メートル、長さは13メートル以上。方形池と同じく、南北の軸から西へ30度傾いた配置で、他に2棟が同じ向きに建っていた。このため池と3棟は、同一の「土地利用計画」に基づいた同時期の遺構とみられる。
一方、最も新しい建物のうち大きいものは幅4.5メートル、長さ12メートル以上。南北を向き、飛鳥地域の建物が正方位を取るようになる7世紀後半のものらしい。
嶋の家は、大化の改新(645年)で蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子が滅ぼされた後、天皇家に接収され「嶋(しまの)宮(みや)」となったと考えられている。その一部だとすれば、天武朝の皇太子・草壁(くさかべの)皇子(みこ)が住んだ時期にあたる。
現地説明会は13日午前10時〜午後3時。近鉄飛鳥駅、橿原神宮前駅から周遊バスで石舞台下車。【中本泰代】
■和田萃(あつむ)・京都教育大教授(日本古代史)の話 馬子の邸宅が王室領になっていくという日本書紀の記述を裏付ける発見。最大の建物は規模からみて、邸宅の中心ではないか。一族が集まって策略をめぐらせることもあったかもしれない。
■河上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所付属博物館長(考古学)の話 川のほとりという条件から、嶋の家の中心は、調査区西側の飛鳥川寄りにあったと考える。今回の建物は柱の太さからいっても中心的な施設ではなく、敷地の東端にあたるのではないか。
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■蘇我馬子 6世紀後半から7世紀前半にかけ、大和朝廷で実権を握った豪族。天皇家との深い血縁関係を背景に、子の蝦夷(えみし)、孫の入鹿(いるか)の3代にわたり、大化の改新(645年)まで政治を主導した。蘇我氏繁栄の基礎を築いた稲目(いなめ)の子で、生年は不明。(毎日新聞)
[3月11日21時57分更新]