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雑誌『世界』3月号で、辺見庸さんは「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか」と嘆かれているようですが、私は世界社会フォーラムの創立から関わってきた北沢洋子さん「世界は地のそこから揺れている」の方に共感します。そして、高田健さんの辺見庸批判「困難を乗り越える闘いに内在するか、それとも外部から嘲笑するか」の方が、現実と正面から向きあっていると思います。辺見庸さんのマスコミへの「怒り」はわかります。1968年頃の「国際反戦デー」などと比較した焦燥感も、わからないではありません。でも、同じ「デモ」ならぬ「パレード」から、別の何かを発見することもできるはずです。安丸良夫さん『現代日本思想論』(岩波書店)には、異様に長い「あとがき」がついています。近世から近代への民衆意識の基底を探ってきた歴史家が、「9.11以後の状況」を体感するために、いや自分の60年安保闘争体験と重ね合わせて、辺見庸さんと同じく、World Peace Nowの集会とデモに迷い込みます。そこで安丸さんが見出したものは、幕末「ええじゃないか」の民衆的伝統であり、縄文「母系巫女舞」の再来でした。だから、安丸さんは書きます。「60年の闘争のさいの安保条約阻止国民会議や全学連のような組織は存在しないから、大動員はできないが、その分、小さな集団や個人が活かされていて、戦争に反対するさまざまの思いや感性が活き活きと表現されていたというのが、私の感想である」と。しかしその後、コンパの席で、辺見さんのように焦燥に駆られた学生から、手厳しく批判されます。「命がけで戦う決意なしにデモに参加したぐらいで自分も反戦運動にかかわったかのように思ったりするのは自己満足ではないか」と。そこから、内省していいます。「私からすれば、ひとつひとつのデモなどが、私たちの批判や憤りのほんのささいな部分的表現でしかありえないのは、あまりにも当然のことなのである。私たちは社会的なものについての自分なりの見方や感受性を、日常的な生き方や生涯の仕事を通して、ゆっくりと媒介的につくりあげ表現していく。それは私たちの身体感覚や人格のようなものにまで具体化されて定着してゆき、そのようにして私たちは何者かになっていく。ゆっくりゆっくりさまざまなやり方で媒介的に……」――おそらく、網野善彦さんも、同じように応えたでしょう。
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