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改憲論議によせて 護憲という名の、敗北を抱きしめすぎた一国平和主義 荒 岱介【BUND-WebSite】
http://www.bund.org/opinion/1135-4.htm
2004-2-15
◆自衛隊も天皇制も容認の共産党
◆革新のはずが守旧派になっている
◆国際貢献は大いに必要だ
◆日本を侵略国家にさせてはならない
自衛隊も天皇制も容認の共産党
2004年1月日本共産党は第23回党大会で、自衛隊と天皇制を容認することを決めた。新綱領では「君主制の廃止」の表現を削除し、「憲法上の制度であり、その存廃は将来、情勢が熟した時に国民の総意によって解決される」と改めた。「解散を要求する」としていた自衛隊については「(日米)安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意で憲法9条の完全実施(自衛隊解消)に向かって前進をはかる」と、まわりくどい言い方でその存在を容認した。
同時に「わが党は、当面、部分的にもせよ、憲法の改定を提起する方針をもちません」と、護憲の立場を強調。日本国憲法は天皇制も含めて今のままでいいのだと綱領化した。日本共産党は、党綱領を日本国憲法と自民党政治に合わせて変更したということである。だから、おのずと自衛隊も天皇制も認めましょうということになったのだ。何を革命したいのかわからない共産主義者の党だ。
しかも共産党は決して自民党を見習ってるわけでもない。自民党の改憲派の頭目、山崎拓は『憲法改正』の中で天皇制について次のように言及した。現憲法では、「本人の意思で退位が可能な英国王室などと比べると、きわめて非人道的」「基本的人権(職業選択の自由)を天皇にも認めるべきではないか」。これに対し共産党は長子世襲制の今のままで良いだ。これでは一体どちらが「革新派」なのかわからないではないか。
改憲=悪の図式にしばられ憲法を守ることを至上命題化してしまった結果、天皇に関する問題、環境や外国人の権利の問題など、本来なら「革新派」が主張すべきことを、今や何一つ主張しない共産党なのである。結局のところ人民への分け前が少ないという以外、自民党に対する綱領的批判はないことになる。
そもそも日本共産党は、現憲法成立当初は9条反対の立場をとっていた。1946年の憲法改正審議で共産党の野坂参三衆議院議員は「わが国の自衛権を放棄しては民族の独立を危うくする危険がある」と反対意見を言った。これに対し当時の吉田茂首相は「正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する」と、9条では自衛権も認められないと答弁した。ところが1950年の朝鮮戦争の勃発に至ると、「戦争は放棄したが自衛権は放棄していない」と、吉田首相の答弁は180度ひっくり返った。自衛隊合憲論が唱えられたのである。その時には共産党は「憲法違反の自衛隊は認められない」と主張してこれに反対した。要はその都度、双方の主張がかわってるのである。
それから数十年。村山内閣が成立したときの1994年、日本社会党は自衛隊合憲論へと転換を表明。その後共産党も自衛隊容認へと論調を変えた。そして現在の改憲論議である。今では自民党が自衛隊違憲論を展開するのに対し、今度は社共が自衛隊合憲論を唱えるという奇妙な構図となっている。双方とも党利党略だけがあって、内容はどうでもよいのだ。
それに対してというか、改憲=ネオ・ファシズムとして「改憲粉砕」を訴える人たちもいる。「平和憲法を守れ」とか「憲法9条を世界へ」という護憲派の主張とはまた違うものだ。
「新生民主党は、保守リベラルの旗を掲げながらも『改憲推進勢力』として進軍ラッパを吹き鳴らしている。このことは、彼らがいまや公然と笑顔のネオ・ファシズム的政党として登場したことを意味する」(革マル派機関紙『解放』1804号)。
民主党の改憲案については多々問題点はあるだろう。だが改憲イコールネオ・ファシズムという図式が、現在もなお革命的マルクス主義をかかげる人達の脳ミソにしみついてるのを見るのは、何とも不思議な光景だ。何故って、その同じ号で彼等は「帝国主義の打倒」を言い「米英日のハーケンクロイツ同盟」を糾弾している。しかし彼等が守れと言ってる日本国憲法は、そのハーケンクロイツ同盟の親玉米国GHQが、占領下日本に押しつけたものだろう。打倒すべき日本帝国主義の最高法規として、日本支配者は条文を受け入れ、講和条約を経て現在に続く日米同盟が生み出されていった。
しかるに彼等は、ハーケンクロイツ同盟である日本帝国主義の日本国憲法は守られねばならない、それを変えようとするのはネオ・ファシズムだと糾弾しているのである。一体本当は何を守りたいのだと聞きたくなるような陳腐な主張だ。何とも矛盾した護憲論で、ほとんど方便としか思えない。
これらをみると、一口に護憲といっても内容は千差万別なのがわかる。自衛隊解体なのか、専守防衛までは認めるのか、PKOはどうなのか、天皇制についてどう考えるのか、そうした内容的検証はタブー視され、「護憲」という言葉だけが独り歩きしてしまっているのが護憲派なのだともいえる。
護憲派の大同団結とかいいながら、その中身は千差万別。しかもそれは検討しようともしない。とても民衆的な支持を得ることなどできないなと思ってしまう。
革新のはずが守旧派になっている
日本は国連加盟国だが、国連憲章の51条には「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」との項目がある。日本国憲法はGHQの占領政策の一環として起草されたので、9条では、あたかもここでいわれる自衛権さえも認めないような書き方がなされている。それで吉田茂などは、その都度のアメリカの安全保障政策に合わせてコロコロとその解釈をかえた。
筆者は日本に自衛権は当然あるが、それでも9条の平和主義は今後とも生かされていくべきだと思っている。だから山崎の改憲私案にあるような、三軍その他の所有と日米同盟をさす集団的自衛権の明記などには反対だ。そのうえで言うのだが、護憲派の代表的な主張に次のようなものがある。「憲法は時代を超えて守るべき価値を定めたものであって、それゆえ本質的に『時代遅れ』という表現は相当しない。……『法律』はこれとは全く逆である。現状に合わせ、現状の範囲内で生活をより豊かにするという意味で、現実を絶え間なく追いかける。……憲法の理想はあまりに高い。しかし、その理想を下げるのは、理想追求の本気の努力をしたあとでも遅くはない。日本人はこの50年間、本気でその努力をしてきたとはいえないのではなかろうか」(伊藤真)。これは「真の法律家、行政官を育成する」というのが売りの法科大学院むけの塾、伊藤塾の塾長の言葉だ。多くの護憲論者同様、改憲=理想を下げることと、あらかじめ決めつけてしまっているのがよくわかる。現実と理想をくらべ、本気の努力が足りなかったと言われればその通りとしか人は言えない。「本気の努力」をしたかどうかなどは、実は禅問答になる以外ないことだ。しかしそう考えられないのが理想の高い護憲派の人達なのである。
視点を変えて海外から見た場合、日本の現状はどのように映るのか。「今の日本の憲法は信用できない。戦力は持たないといいながら自衛隊を持っている」(『論座』2月号、「特集9条改憲論の研究」に出てくるドイツ人ジャーナリスト)が普通のようだ。ストックホルム国際平和研究所が発表した「2003年版年鑑」によると、日本の軍事費は約5兆円でアメリカに次ぐ世界第2位だ。いまや憲法9条という錦の御旗は、外国からは本音とタテマエの話としてしか理解されなくなっている。それが現実なのだが、護憲派を称する人々のように、自分は善人で人から愛されてる良い人だと勝手に思い込んでしまうと、他人の眼差しは何も見えなくなる。
要は護憲派の人々は、いったん憲法に手をつけてしまえば、パンドラの箱を開けてしまったかのように戦争への道を突き進んでしまうと考えているのだ。それで彼等は「理想の9条」の下で自衛隊のイラク派兵は強行されたことも、理想とちがうということで済ませたがる。憲法に曖昧さを残しているがゆえに「改釈」がまかり通り、解釈改憲の末にたどり着いたのがイラク派兵なのだが、そんなことはどうでもよいことになってしまう。
それとの関連で言うなら、現憲法の下での自衛隊の存在は容認しながら、9条に自衛権を明記しようという動きは絶対に許さないという、日本共産党の主張も何だかわからない。そんな言い草ならば、戦後人権運動や反戦運動の先達といえる鶴見俊輔が「護憲、護憲といっているが、それは40年以上も前に終わった占領時代を、今も当てにしていることでしょう。進歩派がそこによりかかっているのは、おかしい」「原理を納得するとそれに寄りかかれると思い込んでしまう」と言ってることのほうが、よっぽど説得力がある。
今や支配者は改憲をもくろみ、戦争のできる国家をめざしている。その現実下では憲法の条文に戦争を阻止する力があるのではない。原理だけを後生大事にしようとしていても、運動の新たな発展は作れない。反戦派としての大胆な改憲の中身を提起し、自民党改憲案を阻止する具体的闘いが求められているのに、護憲とかいう人はそれが見えなくなっているのである。
考えてもみよう。多くの人がイラク派兵に反対して立ち上がっているのは、平和憲法を持っているからではない。アメリカのイラク戦争・占領が不正義であり、それに協力することが戦火を拡大させることにしかならないから反対している。自衛隊が合憲か違憲かの次元を超えた、心の底からの反戦の闘いなのだ。何でその現実から出発しようとしないのか。
日本の平和が守られればそれでいいんだという社共の一国平和主義は、もう歴史的な使命を終えたのである。今問われているのは国際連帯に基づく反戦運動だ。世界のどこかで支援を必要としている人がいるときに、日本は何もしなくていいと本当に言えるのか。座して見過ごすだけなのか。それでは戦争のない平和な世界を願う人々の共通する思いに対する背反ではないか。現実に真正面から向き合うこと抜きに、ともかく護憲を言い続ける人は、アナクロニズムに陥って自分が見えなくなっているのだ。ジョン・ダワーは、実はアメリカの対日戦略を評価していることがわからない、敗北の抱きしめすぎの人達だ。
国際貢献は大いに必要だ
WHOが2001年にまとめたところによれば、今や世界では年間80万人が暴力で命を落とし、1600万人が難民となっている。ブッシュの戦争で犠牲になったアフガンやイラクの人々のみならず、人間としての最低限の権利すら奪われ、殺されていく人々がたくさんいるのだ。この現実を前に、われわれにいったい何ができるのかを考えたい。
国際キリスト教大学教授の最上敏樹は『人道的介入』(岩波新書)の中で、フランスの哲学者ポール・リクールの「人の苦しみはそれを見た者に義務を負わせる」という倫理観を掲げて、この問題に正面から向き合うことを言っている。「無辜の人々がなぶり殺しにされているときに、私たちは何もしなくてもよいのか」と。最上は失敗に終わった人道的介入が少なくないことを指摘しつつ、国際社会の関心の低さから失敗した例としてルワンダの場合を検証している。
ルワンダでは94年から95年にかけての紛争で100万人が虐殺され、200万人が難民となった。にもかかわらず国際社会の動きは鈍かった。アメリカの国際政治研究者トーマス・ワイスは、「わずか354人の兵士だけで25000人のルワンダ人を虐殺から救うことができたのだから、もっと大規模かつ大胆な展開をしていたなら、いったいどれほど多くの生命が救われただろうか」と述べている。
派遣された兵士たちは武力を用いることなく、人間の盾となることによって住民を虐殺から守った。大規模な非武力行使型の兵員や文民警官を早期に派遣していたら、かなりの虐殺を防ぎえたのではないかと考えられている。最上は、「無辜の人々が数多く迫害され、殺される現実がある場合に、日本人だけがそれに無関係である」ことを好む日本人を批判している。日本のような平和主義国家も、人道的介入の問題を突き詰めて考えるべき時に来ていると言っているのだ。
その逆にというか、自民党の小泉や山崎のように国際貢献を声高に叫び、海外派兵を推進しようとする部分が考えてきたことは、湾岸戦争型の多国籍軍への参加であり、アメリカのおこなう戦争への追随である。これでは「これみよがしに兵力を派遣することが主目的で、非人道的な事態の被害者を救済することを本当には考えていない」と、最上は批判しているが、それはあたっているだろう。彼は正当にも平和主義勢力の側に対しても「こういう状況での平和貢献とは何であるかについて十分に突き詰めて考えてきたようには思われない」と疑問を投げかけてる。他国を侵略さえしなければ、戦争に巻き込まれなければそれでいいと済ませてしまう、日本の一国平和主義者達を批判しているのだ。
「人道的介入」といったって、国際社会の介入によってすべてうまく解決できるのかといえば、決してそんなことはない。失敗例の方が多いくらいかもしれない。だが、だからといって、何もしなくていいということにはならないのである。必要なことは、そうした現実に目を閉ざすことではなく、いかなる介入が最善の選択であるのかを考え試行錯誤しながら実践することしかない。
今や「永世中立」を掲げるスイスも、PKO派遣をめぐり革新・左派が派遣賛成の立場をとり、保守・右派が永世中立を守れと反対している。国際化が必要だとする意見も次第に強まっている。いつまでも一国平和主義を言ってるだけの日本の護憲派は、その点でも余りに国際感覚からズレている。
日本を侵略国家にさせてはならない
論点を整理しよう。以上述べてきたことは、だからといって小泉内閣のように一足飛びに自衛隊派遣というのは愚の骨頂だということを意味する。危険に身をさらす治安維持の部隊でさえ、軍隊よりは十分に訓練され、必要な装備を備えた文民警察のほうがすぐれていること位常識だ。もちろん状況によっては非武力行使型の軍隊が必要な場合もあり、カナダが試みている「平和構築」の方法も参考になる。いずれにせよ、アメリカの言いなりになり、すぐに日の丸をつけた自衛隊を派遣するという小泉の方法では何も解決できない。
憲法9条を抱く日本は、もっと実際の貢献につながるものを示していくことが必要なのだ。そこから言って筆者は、海外派兵を前提としない自衛隊は主権侵害行為から守るための最小限の防御力だけを残し、あとは災害救援のために訓練された非軍事組織に転換させれば良いと思っている。近い将来、国内で大地震などが起きる可能性は高まっているのだから、それは多くの人が望んでいることだ。必要に応じて、この災害救援組織を海外に派遣するのも良いことだ。専守防衛のための訓練しか受けていない自衛隊が行くより、よほど立派な貢献ができるだろう。
その場合、これとは別の国連待機部隊のようなものは必要になる。この部隊の海外派遣については、国連決議があっても先制攻撃には参加しないとか、解釈を許さないように明記しておくのも必要だ。そもそも改憲論が胡散臭さを残すのは、天皇の元首化や日米同盟を絶対化した集団的自衛権の行使に踏み切る可能性があるからなのだ。天皇制の廃止を明言し、日本がかつて戦争でやった行為を謝罪し、二度とそのようなことをしないと言うことを憲法に明記すべきで、そこではじめて国連待機部隊は意味を持つ。
ブッシュによるイラク攻撃に対しては、ベトナム戦争以来の反戦闘争が世界中でまき起こった。フランスやドイツなどは、国際法違反であり大義なき戦争であるからという理由で明確に反対の立場を貫いた。他方、日本は憲法で戦争が禁止されているから戦争に参加は出来ないが、イラク攻撃そのものに対しては支持を表明した。もうここまで来ると、憲法9条があるから戦争をしない国などと言ってる人達のおたんこなすぶりは明らかだ。
日本の護憲派はあまりに憲法に守られすぎ、傍観者になってしまった。昨春、日本でも大いに反戦運動が盛り上がった。しかしそれ以上の数十万、数百万人規模の反戦運動が欧米諸国で繰り広げられたことを忘れてはならない。平和憲法を守ろうといっていただけの社共は、この決定的瞬間に大きな反戦運動を組織することが出来ずに、自衛隊派兵が大問題となった前回の選挙で大敗を喫して、歴史の舞台から消え去った。
われわれが戦争に反対するのは、平和憲法を持っているからではなく、戦争そのものが非人道的で許せない行為だからだ。憲法9条があろうがなかろうが、戦争に反対する人は反戦闘争に起ち上がる。必死の抵抗を続けるのだ。平和憲法を守ることではなく、実際の戦争をどうくいとめていくのかが問題とされなければならないことだからだ。護憲派を自称する平和を愛する人々は、憲法を守れと主張しているだけでは何も言ったことにならないのを自覚してほしい。憲法9条が平和を守ってくれるのではない。戦争をさせないための力強い反戦運動の組織化、多くの人が納得できるような運動の組織化こそが、日本の平和を、ひいては世界の平和を守るのである。
あら・たいすけ 社会運動家。グラン・ワークショップ実行委。かつては新左翼の代表的イデオローグ。現在は教義にしばられた左翼思想の限界を訴え、環境保護運動などを行っている。著書に『行動するエチカ』『環境革命の世紀へ』『破天荒伝』『大逆のゲリラ』ほか。