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(回答先: 麻原裁判判決公判でコメンテーターとして登場する「科学者」の実態[メディア辺境地帯]【2004年2月27日に起こること】 投稿者 なるほど 日時 2004 年 2 月 27 日 09:02:21)
カルトに対する批判は、行為そのものではなく、“マインドコントロール”で語られることが往々にしてある。
考え方や感じ方が制御されることを忌避する人々の心にビンビン訴えかけることが、批判したい対象をとんでもない怪物と思わせる早道だと思っているからであろう。
(上品に言い換えれば、表面的な批判ではなく根源的な批判をしないと、人々はカルトに惹きつけられてしまうという危惧を持っているからであろう)
しかし、“マインドコントロール”は、支配層やそれに“マインドコントロール”された多数派が良いと判断する“マインドコントロール”と悪いと判断する“マインドコントロール”があり、悪いと判断される“マインドコントロール”のみが“マインドコントロール”として取り沙汰されているにすぎないものである。
生れ落ちた人の精神が“無色透明”とは思っていないが、国家社会的な規約や抽象的な価値判断は、家族や隣人との関係そして「学校教育」を通じて基本が形成される。
長じては、「企業研修」(公務員や軍隊の研修・教練・教育を含む)や人々との関係性を通じて肉付けがされていく。
そして、日常的にTVや新聞などのメディアが発信する情報を通じて、事実認識や価値判断の方向付けが行われている。
私自身が“マインドコントロール”を受けていると思っているが、“マインドコントロール”論を語る人は、自身が“マインドコントロール”を受けているという自覚が出発点でなければならない。
「学校教育」&「企業研修」そして「メディア発信」こそが“マインドコントロール”であると書いたのは、家族や隣人そして知り合いとの関係性に較べて、それらは強制性が強く抗弁性が弱いからである。
「学校教育」&「企業研修」は、言われたことを否定したり逆らえば、懲罰を受けたり稼ぎの場を失ったり、望んでいる進路に進めないことになってしまう。
「それは違うんじゃないの」と思っても、その判断に拠ってテストを受けたり仕事に臨めば、“いい結果”が得られないどころかドツボにはまりかねない。
「それは違うんじゃないか」と思いながらそれをやることは精神的に疲れることである。人は精神的安寧を求める性向があるから、考えても詮無い「それは違うんじゃないか」ということを切り捨てようとする。
身近で起きた出来事は自分の五感をフルに動員して判断することができるが、世界各地で起きている出来事・政治的駆け引き・経済論理などは、自分の五感で確認することができなかったり、もったいぶった論理構成や小難しい用語で説明される理論について行けなくなったりする。
このよう条件から、「メディア発信」も、その発信主体が権威を持つものであれば(これ自体が“マインドコントロール”の結果)、そういうことが起きたんだとか、ちょっとおかしいと思うけどそんなものかもしれないとか受け入れがちである。
“マインドコントロール”や「バカの壁」は、イヤな相手を批判するときに重宝な言葉だが、それを持ち出したら“お終い”というものである(笑)
今日、一審の判決が下る「麻原裁判」も、「麻原は有罪で死刑だ」という“マインドコントロール”が終わった後で行われている“悲喜劇”である。
三審制で有罪が確定するまで、「推定無罪」だという近代法理論の基本さえ捨て去られているのだから、これを“マインドコントロール”と言わずしてなんと呼べばいいと言うのか。
★ 関連書き込み
「【再掲】 世界で最大かつ最強の“カルト組織”はアメリカ合衆国連邦軍」
( http://www.asyura.com/0304/war31/msg/384.html )