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(回答先: つまらんけど、まとめです 投稿者 現在無色 日時 2004 年 4 月 23 日 07:49:53)
ちょっと忙しくしておりましてレス入れたまま放置だった
アンチテーゼでございます。
皆様ご機嫌いかがでしょう。
このスレッドもかなり下がってしまっているので、きっと読まれないだろうなぁ
と思いつつ、また「纏まったのにまた発言かよ」と言われるだろうなぁ
とも思いつつのレスです。
現在無色さんの「日本語自体が「和」を作る構造の一部」というご発言に
触発されましてふと思いつきました。
人間の思考は本人の語彙に依存するのではないかということです。
例えば英語には「旨い」に対応する単語が無かった為につい最近まで「旨み」
という味の要素の存在が知られていなかったと聞いた事があります。
ソースはありませんが、例によって仕事中なのでご容赦ください(苦笑)
「切ない」も英語にはないと聞いた事がありますが定かではありません。
「旨み」が発見されてから和食が広がっていった様な気がするのは
気のせいでしょうか。
根拠が薄弱なのですけれども、言語や語彙が使い手の思考様式を左右
しているのでは無いかと思うのです。
外国語を学習するのとは違って母国語の場合、生活に合わせて単語を覚えます。
個人の価値観や人格を育む最大の要因は周囲の人間です。
そして周囲の人間も固有の価値観を持っているので(幅広い語彙を持っていても)
その価値観に合わせて語彙は選択されて発言されます。
「周囲にある言葉の蓄積=自分の価値観、思考」となると思います。
小さな子が良く使う言葉が、実は親がよく使う言葉だったりするのがそれです。
多くの友人、多くの家族、多くのご近所さんと、強い結びつきがあれば
それだけ多くの語彙を覚え、多くの価値観や考えに触れ、互いに同意すると
文化になっていくのだろうと思います。
しかしそれらとの繋がりが希薄になっている現代社会においては、文化は
細分化されているように思います。
限られた範囲の語彙(価値観)にしか触れなくなっていますね。
ここのところが、「和す」事ができなくなっている要因の一つではないでしょうか。
ちょっとした文化の対立でしょう。
また、現在無色さんの最初の書き込みの中にある
「和が乱れてしまうと、共に生活すら出来なくなってしまう日本人。
なぜ意見の違いが、激烈な感情の次元にまで達してしまうのか。」
ですが、これも文化の対立だと思います。
それに加え、前回の私めの書き込みにある「とりあえず敬語使えばいい」という
ことから謙ってみたもののNOと言われて逆ギレ。
という悪循環が加わってしまうのではないでしょうか。
このあたりは、四民平等になるまで普通に町人だったのに今になって「日本人=武士道」
という安直な発想で武士道を振りかざそうとする“実は自分を偉く見せたい日本人”の
心理と繋がっているような気がします。
(家系を根拠にして偉そうに振舞うのも滑稽ですね)
偉く見せたいのに謙った→NOと言われた→逆ギレ
と言う感じなのではないでしょうか。
レスほっぽらかした上に根拠薄弱で申し訳ないですが、雑談板と言うことで
どうかひとつご容赦ください。