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(回答先: 人はどこまでEgoの開示ができるのでしょうか。 投稿者 如往 日時 2004 年 3 月 05 日 02:56:42)
如往さま、
少しお待たせ致しました。
このレスを頂戴できたことは大変有り難かったです。
手早く書かれたと思うのですが、いつもと同じ内容の濃密さには感銘を受けました。
*
『Egoを拠り処にしながら、Egoを開示しつつId(Es)を解放することに、人間の営為の素晴らしさがあると思っています。』
全くもってその通りであるとあたくしも思います。
実を言うと、それが出来る男性が、いささか少ないような気がしています。
Egoを開示する、ということを意識して行なうに至らず、
そんなことについて考えることさえない。
むしろ、恐れをなして強固な殻を形成する。
そして(だからこそ?)・・・Id(Es)にも関心を払わない。
女性は、個人差こそあれ、もう少し自然にそれを行なう傾向はあるように見えます。
それが両性の身体的構造と性的快感の獲得のプロセスの相違に
少なくとも部分的には起因するのではないか、という疑問を持っています。
下の如往さまの文も、ここであたくしの述べることと関連しているのではと思います:
『元々人間には他者に快楽を与えようなどという発想はなく、極々利己的な情動に導かれて自身が快楽に達することによって、自己愛を貫徹・確認するのだと見ているのです』
男性が快楽に達するプロセスは、女性のそれと比較すると単純明快に見えますね。
メンタルなコミュニケーションをシャット・アウトした、質的に一方通行な性行動であっても、
一通りの快楽は得られるわけでしょう。
それに反して女性側は、もっとずっと注意を傾注されることなしに
深い悦びには至りにくい傾向があると思います。
あたくしは更に一層我が儘なので、開示、解放と受容の相互に行われない関係であれば
それを拒否する、というところにまで至っているきらいがあると思います。
それが『全てが満たされた関係か、さもなくばむしろ孤独を選ぶ』とでもいうような
オール・オア・ナッシング的な思想に繋がるのかも(笑)。
困ったものです。
それはまた、つまり、遊びにこれほど向かない人はいないのだ、ということでもあるのです。
*
『Egoの開示のプロセスには多くの問題が内在していると考えています。無防備にEgoを晒すことには解放感が伴ないますが、逆に無造作に扱われるならば憎悪の素にもなるでしょう。』
そうですね。
『情念の所在として人を理解するとは、結局はその時々のEgoの状態を捉えIdの大いさを受けとめられるか否かに係っていると思うのですが、如何でしょうか。』
本当にそうですね。
あたくしはまだその辺りは如往さまに較べるとずっと未熟であると思います。
『そして、恋人やパートナーを含む他者のEgoの状態を捉えていこうとする場合には、それなりの覚悟や愛情が必要であると思っています。』
その通りですね。
これに充分留意して対話を続けたいと思います(笑)。
*
『私が投稿行為において心理分析をできる限り回避しているのは、そうした覚悟ができていないことが原因となっています』
『何時の頃からかEgoの開示にまで肉迫する心理分析や誘導は憚れるようになり、最近では専らMatrixとの関係性においてセックスや恋愛を捉える習性がすっかり身に着いてしまっています。』
『その昔理論武装といった言葉が取りだたされたことがありましたように、私にとって哲学的言辞はEgoが纏う鎧であったり楯であったりするかも知れませんし、またEgoそれ自体の延長でもあるのかも知れません。』
上は、あたくしが如往さまがお持ちだと以前から感じていた
研ぎ澄まされた繊細さを説明するものだと思います。
『だた、セックスや恋愛の魅力ないし価値はEgoの開示とそれを相互に受容することにこそあるとの認識に変るところはありません。』
大変共感いたします。
有り難うございました。
また色々お聞かせいただけるのを楽しみにいたしております。
では、ごきげんよう。