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(回答先: レスありがとうございます 投稿者 スパルタコス 日時 2004 年 4 月 07 日 10:25:06)
スパルタコスさん、どうもです。
いただいたレスのようにご理解いただき、非信仰・浅学の身でイスラムをあれこれ書いてきたかいがあったと喜んでおります。
イスラムをいわゆる宗教ではなく、共同体(国家社会)の統合理論や価値観として書いてきた私の姿勢はムスリムに冒涜行為と非難されても文句が言えないものです(笑)
イスラムを取り上げたのは、「反イスラム」が「反イスラム過激派=テロリスト」と微妙にずらした軸で世界を覆いそれが侵攻戦争に利用されていることもありますが、貨幣経済=商業の普遍化である「近代」に対する強烈な“異論反論”だと思っているからです。
以前にも書きましたが、現在の世界を覆っている対立を価値観的に捉え直せば、詰まるところ、セム系価値観の対立に他なりません。
日本や中国そしてロシアなどは、それぞれが独自の価値観を秘めているとは言え、目に見える政治経済活動はその選択が得という判断に基づき非イスラムのセム系価値観に寄り添っていると言えます。
非イスラムのセム系価値観とはユダヤ−カソリックを隠れ蓑や支配の道具として使ってきた国際商人金融家のそれであり、「近代」においては、かつての啓蒙主義から現在のグローバリズムそしてマルクス的共産主義をも含む近代の政治思想諸潮流だと思っています。
日本や中国が現実の利や得を捨てて「近代」に異論反論を唱えればいいのでしょうが、それを選択せず与えられた現実条件をうまく活用して利を得るという智恵=価値観を持っているため、現在のところはそのような動きにはなっていません。
(アジアの智恵とくに日本の智恵はそのように融通無碍です。「近代」の荒荒しい力に圧倒されてしまったという側面は否ませんが)
一方、イスラムは非イスラムのセム系価値観を乗り越えようとした商業的共同体の価値観ですから、あるところまでは非イスラムのセム系価値観と親和性がありながら、ある線を越えると非イスラムのセム系価値観と激突する性質を持っている価値観です。
(ムハンマドは1200年以上も前にそれを実践しました)
日本の仏教信仰者のように、イスラムが現在のムスリムにとっては世襲的宗教になっていることも指摘できますが、人はどうであらねばならないのか、家族はどういう絆なのか、共同体(国家社会)はどのようなものであるべきかについての価値観も継承されています。
“理念(べき論)”と“現実”が乖離することは常ですが、乖離を超えて異質のものになりかねない現実を目の当たりにすれば、人々は、いろいろと考えざるを得なくなり、何かをせざるを得なくなるものだと思っています。
それを通じて、親がそうだったから自分もムスリムになったという非選択の信仰から、自分自身が積極的に選び取った信仰に転化する人が増えるはずです。
それまでは宗教指導者の言葉で納得していたことが、自分自身の実感や行動となる別世界が生まれることになります。
前回のレスで書いた「それを乗り越えてイスラムを復興できるかどうかが、中東の将来を決する第一段階」というのは、それを通じてイスラム世界(諸国)が変わることです。
そして、「それが達成できれば、世界の将来をも変える可能性がある」というのは、イスラムが商業的共同体の価値観体系であることから、あらゆること(もの)が商業化(貨幣化)され否応なくその基礎である非イスラム価値観に寄り添っている日本を含む“先進国”の人々の現実の見え方を変えることになるはずだという思いです。
さらに、「世界の将来がそれで変われば、イスラムも変わることになる」というのは、非商業的共同体としての歴史継承性を基底に持つ日本の“伝統的価値観”が「近代」の諸条件を基礎にしながら現実化されることで、ムスリムの価値観や制度・様式にも影響を及ぼすことになるだろうという見方に基づくものです。
それは同時に、必ずや、非イスラム・セム系価値観の変容につながるはずです。