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(回答先: Re: 長壁問題:そういう善意の“叫び”に従ってあまたの人が非業の死を遂げた。 投稿者 マドオンナ 日時 2004 年 3 月 30 日 09:33:04)
● 「長壁さんと共産党は、むしろはっきり切り離してみた方がいいと思う」
長壁さんが共産党員であることで“過激”な批判はしているが、長壁さんと共産党(中央)は別だと切り離して見ている。
(共産党中央の人でもここで投稿してくれれば、個人の論として党とは切り離して受け止める)
「さざ波」もときどき覗いているが、長壁さんの言動は「さざ波」のなかでも“左翼反対派”に位置付けられるものだと思っている。
「不破の日和見」という批判に象徴されるように、現在の共産党の社民的改良主義的政策に反対し、共産党をなんとか真に戦う革新(革命)政党にしたいと願っている人だ。
共産党が現実認識の変化なのか得票を増やすための方策なのかはわからないが(たぶん前者が強い)、穏和ないし改良主義的政策を採っていることに反対の意志を明確に打ち出している。
現在の共産党は、拠り所とする歴史観や世界観はともかく、「民主集中制」という組織論さえ取っ払えば社民政党である。
長壁さんは、「民主集中制」という組織論が彼女を含む反対派の活動を抑え込んでいることや「言論の自由」・「民主主義」を尊重する立場から、現状の「民主集中制」(組織論)には反対している。
ここで「さざ波」論を書くわけではないが、共産党(中央)は、組織論は共産党で政策は社民党であるのに対し、「さざ波」は組織論は社民党で政策は共産党とも言える対立構図にある。
しかし、共産党(中央)と「さざ波」は、共産党のみが正しい歴史観を持ち現実を科学的認識できる唯一の政治勢力であり、共産党が大衆を指導し政権をとることでのみ国家社会(世界)を真に好ましいものに変えることができるという“観念(理念)”は共有している。
「長壁問題:そういう善意の“叫び”に従ってあまたの人が非業の死を遂げた。」で書いたことは、共産党(中央)ないし「さざ波」ないし長壁さんのいずれかに内在する固有の問題ではない。
さらに言えば、スターリン主義に固有の問題でもない。
善意の持ち主が自分が理想とする世界を生み出すために政治手段を行使する際に起きると考えている問題である。
私利私欲であれば我が身かわいさがあるからそれで歯止めがかかるが、自己犠牲を厭わない善意の人たちにはその歯止めが少ないため、心情と熱情に浮かされていくところまでいってしまう。
この思いを長壁さんが阿修羅で見せた態度によせて書いたのが、「長壁問題:そういう善意の“叫び”に従ってあまたの人が非業の死を遂げた。」である。
善意の人たちがそういう“檻”に入っていることをもったいないと思うから、激しく批判している面もある。
民主党の危険性を書いてきたのも、松下政経塾を中心とした人たちに「理念主義」が見られるからである。
“彼ら”は悪意の塊である。それが多くの人にとっていいことではないとわかっていながら、いいことであるかのように説明することで、自分たちの願望を実現しようとしている。
松下政経塾を中心とした人たちは、“彼ら”の口先だけの理念を信じているアホな「理念主義」者だから危険なのである。
>彼女があっしらさんに「感じる」違和感や批判でなんとなく分かることは、あっ
>しらさんが、真に被害にあっている人や、少数派の立場や気持ちを理解しようと
>しているのではなく、学歴社会日本的、男性社会的頭脳的な、ある意味評論家風
>の立場からしか論じていないということではないだろうか。これは、どうして
>そうなのか、説明できるようなことではなく、単にそういう感じを与えている事
>実がある、ということで、理由を知りたければあっしらさんご自身が自分の感覚
>のベースをどこに置いているかを省みれば、あるいは分かることかも知れません。
>仮に単なる誤解であったとしても・・・。
私の阿修羅での書き込み内容や書き込み態度から、どのようなことを感じ取られてもかまわないと思っている。
前にも書いたが、ここに書かれたようなことを感じ取る人もいるだろうとも思っている。
それに対して「いやそんなことはない。私は好きな女とうまい食い物があればいい。こんなことにうつつを抜かしているのはバカらしいと思っている」という気もない。
そんな言い訳をいちいちしなければならない状況である限り、現状が変わることはないと思っているからだ。
論である限り、偉そうであるのか“弱者”に思いをよせているのかなどといった心性ではなく、書かれている内容の適否(自分にとって)で判断される状況にならなければ、現実を変えることはできないと思っている。
“弱者”に思いをよせて書いていながら結果的に“弱者”を困難に落とし込める論よりは、“弱者”を愚弄しているものであっても結果的に“弱者”が望む状況に近づく論のほうを私は選択する。
>長壁さんは特に、感覚的過ぎてそれを上手く文章で表現できないため、5W1H
>のはっきりしない、かえって誤解される文章になってしまうのかも知れない。
>温度差なんて言葉を多用されると、
>「一体何に温度差を感じると言ってるのか、逃げずにはっきり言えよ」
>と言いたくなる気持ちも分かるのだが、やはり同性としては、長壁さんの言いたい
>ことの方が直感的によりリアルに分かる気がするわけです。。
>しかし逆を言えば、長壁さんもマイノリティの目線にだけ同化せず、少し拒否感を
>外して男性やマジョリティの感覚も理解するように努めれば、より客観的になって
>摩擦や余計な葛藤は減少するということでもあるのではないか。
自慢じゃないが、長壁さんの投稿を含めひとの投稿については、自分にとって意味のあることや役に立つことが書かれていたり、それらがないとしても、何か自分が持っていない視点で書かれているんじゃないかと思いながら読んでいる。
意味がとりづらい投稿内容も、「たぶんこういう思いで書いているのだろう」と“好意”的に読んでいる。
数多くひとを批判する書き込みをしてきたが、それでもなおというものにしか書いていない。それは、長壁さんに対しても適用されている。
今回のケースで“絶対”に認めない誤解は、何度も書いているように、長壁さんが書いていることを非難しているわけではなく、長壁さんの阿修羅での態度を非難しているということがわかっていないものである。
長壁さんが「マイノリティの目線」だけで書いていても、それ自体は何ら批判の対象にはならない。(それどころか、そのような目線が希薄になっていると思っているから歓迎する)長壁さんが「男性やマジョリティの感覚も理解するように努め」て書いても、態度が同じであれば同じように批判の対象になる。
論が違うからと言って、「ふざけるな!」と言うことはない。
そのひとが立てた目的や事象の説明として書かれている論がおかしいと思ったときには、「これこれだからおかしい、こうじゃないの」という批判はするが、それに「いや、やっぱりこうじゃないの」とか「そうかもね」と対応されれば、やり取りを続け、ころあいをみて終息させているつもりだ。
>もし、あっしらさんが彼女と「共産党」という組織を完全に切り離して見ること
>ができたら、そして、ゆでがえるを連発することで、翼賛メディアに流されるネ
>ボケ頭を醒まそうと必死になっているある「シンプルさ」が、ちょっとでも汲み
>取れるなら、お互いにないものを補えあえる有意義な対話になるのではないだろ
>うか。シンプルなことが気付かれにくいと思うから、つい繰り返し言ってしまう。
あまりロジカルに書くとカドが立つと思ってこれまで書いていないが、長壁さんがこの間のやり取りのなかで、自分も「茹で蛙」だと思っているとエクスキューズしているので書く。
「茹で蛙」であると自覚したひとは、それだけですでに「茹で蛙」ではない。
「茹で蛙」とは、自分が今どういう状況にあるかに気づかないままドツボにはまるひとである。
私は「茹で蛙」と言ってひとを批判(指摘)すること自体を好まないが、そういう批判(指摘)をする人は、「茹で蛙」に気づいた人はどうすればいいのかを語る責務があると思っている。
それを語る人であれば、「茹で蛙」論を持ち出しても批判はしない。批判の対象は、どうすればいいのかを書いた部分になる。
>なんとなく、この間の摩擦の多いやりとりを見ていると、単に一般的な、「男と
>女の溝」が極限で展開しているように思えてしまうのだ。
>それ故、溝を埋める努力が双方向で生じれば、これ程意義深いこともないのでは
>ないかとも、思えるのです。
この間の“摩擦”が「単に一般的な、「男と女の溝」が極限で展開」しており、それが私は男・長壁さんは女ということに起因するのであり、女というものは長壁さん的態度をとるものだというのなら、女とはまともに言葉でやり取りをすることは断念すると宣言する。
それは冗談として、長壁さんの問題を「男と女の溝」として女一般の問題にしているあなたは、女性問題やマイノリティ問題を語り得る感性も理性も持っていない人だと断じる。
(あなたのそのような論のほうが、「男性社会的頭脳的な、ある意味評論家風」のものであることに気づいて欲しい)
現在はその放棄を宣言したが、私は長壁さんとの間にある溝を埋める努力をしてきたつもりだ。
(私が使っている用語が難しいというのなら、意味不明と叫んでもらえば、もっと砕いて説明もする。口火を切った者として最後まで責任をとるつもりで臨んできたが、長壁さんのその後の対応を見て、その責任を放棄することは許されると思っている)
● 長壁さんは悪意で語っているのか
ひとをどう見るかは様々だと思っているし、阿修羅での付き合いしかない上での話しなので、それをあれこれ言う気はない。
しかし、長壁さんが「「理念を奉じる、信じる」などというものはないでしょう」
は、彼女の阿修羅での活動をあまりにも愚弄したものだと思う。
長壁さんは理念の言語的な展開(解きほぐし)をそれほどしているようには見えないが、“狭隘”な理念をしっかり持っている人だと思っている。
“狭隘”な理念を信じている人だからこそ、あのような態度になるのだろう。
“狭隘”な理念を信じている人という意味では、共産党(中央)も変わらない。
理念をきちんと説明できず、それを実現するための政策もまともに打ち出せないという意味では、長壁さんも共産党(中央)も量的な違いでしかない。
(だから、「さざ波」や長壁さんといった“左翼反対派”を説得することもできないし、批判者を「反共主義」や規約違反(権威)で断罪することしかできない。「さざ波」や長壁さんも、左翼的言辞を古典や心情に基づいて吐いているだけだから、党内の異端というレベルを超えることがないまま共産党という“旗”(信仰)にすがっている)
「彼女はいわゆる「善意」の人というタイプでは決してない。それどころか、悪意と分かっていて悪意をぶつけるようなストレートさすらある。彼女は、シャロンの上にミサイルを、などと言っている時、決して善意でそう言っているつもりはないだろう」であるならば、私の問い掛けにそう応えればいいだけの話だ。
(善意とは心底そう思っていることで、悪意とはそうではなく口先だけということ)
何度促してもそういう返事がない限り、善意で語っていると判断するしかない。
>そういう民衆と同化した感情が元であればこそ、
>冷静になれない。ある意味なりふり構わない。
>時には礼儀作法も何もすっ飛ばす。
>勉強なんてはじめからは必要じゃないかも知れない、
>感覚が先で、知識はあとまわし。
>失敗したら失敗したで、その時学べばいい、
>とにかく、感覚、感情を優先する。
>阿修羅読者ならずとも、世間一般から見たら「ばかみたい」でドンキホーテみ
>たいに見えるかも知れないけど、私はそんな、無茶苦茶でオチャメな長壁さんが
>頼もしく見える。
長壁さんが“たいしたものはではない。思いをぶつけているだけだ”ということを自分の逃げ場に使っているとは思っているが、「「ばかみたい」でドンキホーテみたい」には見えない。
それだったら、わざわざレスをぶつけることはしない。
長壁さんが詩人だったら(戦術など政治的言動をしなければという意)、レスをぶつけることはしない。
曲がりなりにも共産党員であり、ここ阿修羅で政治的投稿活動をしていながら、あのような態度を見せているから批判している。
私ひとりが長壁さんの態度に批判的で、他のすべての方が長壁さんが正しいと思っていても、私はできるだけその理由がわかるように書いて批判する。
この期におよんでも、長壁さんが頼もしく見えるひとがいることを事実として受け止めさせていただく。