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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu65.htm
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ノモンハン事件はスターリンの満州・朝鮮への侵略の
野心を打ち砕いた戦略的日本の大勝利であった。
2004年2月28日 土曜日
ノモンハン事件(ロシア・モンゴル側はハルハ河戦争と呼称)は、これまで日本軍とソ連・モンゴル軍との国境紛争であり、日本はソ連の機械化部隊と戦い、大損害を受けたという話が定説となっていました。
確かに日本軍の、特に主力となった第二十三師団は出動人員の約七割が死傷するという膨大な数の損害を出したことは事実です。戦闘に参加した日本軍全体の死傷者及び捕虜、行方不明者は、一万七千三百六十四名にも上りました(三代史研究会『明治・大正・昭和30の「真実」』文春新書/一二五頁)。しかしながらソ連・モンゴル側の損害、つまり日本軍の戦果は、事件後も公表されず、そのことが「ソ連圧勝」というプロパガンダが長いこと蔓延した原因でもあります。
十月号の「NHKウオッチング」で述べられた「日ソとモンゴルの研究者による共同調査」というのは、恐らく一九九二年に開かれた、「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム」のことではないでしょうか。このシンポジウムにおいてロシア軍のワルターノフ大佐は、ソ連・モンゴル軍全体の損害(死傷者及び行方不明者)は、一万九千三百五十九名としており、日本軍よりも二千名も多く損害を出していたことを明らかにしました(前掲書一二六頁)。
しかも、ソ連・モンゴル軍は日本軍の三十倍以上の兵力を投入しており、この点から見ても、いかにソ連の大勝利がウソであったかがお分かりいただけると思います。日本軍は兵力不足と砲弾・弾薬不足の中よく戦いました。しかしせっかくソ連戦闘機を蹴散らしたにもかかわらず、空からの攻撃はほとんど行われず(当時、陸軍には制空権の思想がなかったと言われている)、前線への補給も貧弱だったため(日本軍は補給手段を主に徒歩と馬に頼っていた)、苦戦を強いられ、結局は撤退せざるを得ませんでした。
ノモンハン事件はソ連側の侵略でした。スターリンは一九四五年八月九日の対日参戦でも明らかなように、満州や朝鮮半島に対する領土的野心も有していました。現地の日本軍の奮戦は、そのような野望を打ち砕き、日本と満州を防衛したというところに大きな意義があると思います(ただし、ソ連の対日参戦によって満州帝国が幻となってしまったので、今日的な意義は見いだしにくい)。しかしながらこの「戦争」で露呈された日本軍の補給の貧弱さや航空戦力の軽視は、第二次大戦に参戦しても改まらず、日本陸軍はノモンハン以上に多大な犠牲を出すこととなりました。
ノモンハン事件に関する国際シンポジウムに関して知りたい方は、ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム編『ノモンハン・ハルハ河戦争』(原書房)をご覧ください。その他の参考文献。小田洋太郎・田端元『ノモンハン事件の真相と戦果』(友朋書房)。
ハイ、せいろん調査室です(12月号-1)
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/0312/hi-se.html
ソ連は故意に国境紛争を惹起しこれを口実に外蒙古に大軍を派遣して頻発する反ソ暴動を制圧し、進んで外蒙古から満洲に侵攻する企図を有しており、昭和十四年(一九三九)五月十一日、スターリンの指示を受けた外蒙軍が、外蒙古と満洲国の国境のハルハ河を越え、満洲国軍とノモンハン付近で衝突し、六月十七日以降には、ソ連軍がソ連の唱える国境線から二十キロ東にある満洲国領内の将軍廟にまで侵入したが、関東軍の頑強な抵抗に遭って苦戦した為、八月二十日、ソ連軍は約二十三万以上の大兵力を投入し日本軍に大攻勢を仕掛けたが、関東軍(最弱師団の第二十三師団)は、政府軍中央の不拡大方針に掣肘を加えられながらも精強な我が下士官兵の挺身戦闘によってソ連軍に大打撃を与えよく満洲国防衛の任務を全うし、スターリンは止むを得ず東亜侵攻を一時中断し軍の矛先を東欧と北欧へ向けたのであった。
◆ノモンハン事件の日ソ両軍の損害数
◆日本軍側、戦死傷者一万七千四百五名、航空機百七十九機、戦車二十九台。
◆ソ連軍側、戦死傷者二万五千六百五十五名以上、航空機千六百七十三機、戦車八百台以上。
ソ連は余りにも拙速に大軍拡を行った為、ソ連軍の諸兵器は粗製濫造品を多く含み、一九三七年五月二十七日のトハチェフスキー元帥の逮捕に端を発したスターリンの大粛清によって有能な幹部を喪失していたソ連軍将兵の練度は士気と共に極めて低く、約一対十一の日ソ軍の兵力比を勘案すれば、ノモンハン事件は我が軍の圧勝であり、当時の極東ソ連軍司令官ジューコフは、第二次世界大戦後、米国ミシガン大学のハケット教授や新聞記者らと会談した際、「どの戦いが一番苦しかったか」と質問されて「ハルハ河」と即答し、モスクワ攻防戦やスターリングランド攻防戦を予想した者を驚愕させ、彼等は改めて日本軍の桁違いの精強を認識したのであった。
国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56
http://touarenmeilv.infoseek.livedoor.net/from25to37ww2.htm
(私のコメント)
私は2003年10月3日に「本当は日本軍の大勝利だったノモンハン事件」
http://www.asyura2.com/biz0310/idletalk5/msg/137.html
を書きましたが、どうしてノモンハン事件が日本軍の大勝利であったか分からない人がいたようで、阿修羅BBSに以下のような反論がなされていた。しかし軍事的戦果から見ても10倍もの軍勢と戦って相手に日本軍以上の損害を与えたことは日本軍の勝利である。しかし傍観者A氏は戦略的に敗北だと決め付けている。ソ連の共産党のプロパガンダをそのまま信じている。
はぁ?ノモンハンが日本軍の大勝利?この人、「戦略的思考」があるの?【ウソを繰り返せばだませると思ってる典型>株式日記と経済展望】
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/366.html
(私のコメント)
しかしながら戦略的に見ても日本の勝利であることは考える頭があればすぐに分かることである。日本の秀才達の一番の欠点は教科書に書かれたことを覚えることに秀でているが、思考能力に欠けていることだ。傍観者A氏も従来の教科書に書かれた事と同じ事を指摘している。
《損害の絶対数が多かろうと、「敵の目標達成を阻む」逆に言えば「当方の目標を達成する」ことが出来れば、戦略的には勝ちなのである。そのことも理解できずに現場での損害数だけにこだわって、「木を見て森を見ない」人間に、大所高所から決定しなければならない国家的軍事戦略あるいは外交戦略を理解できるとは思えない。無論、そのような人物にそれら戦略の決定に関与してもらいたくないというのが個人的感想だ。
「株式日記と経済展望」などと大層なものを書いている人ににあわない器の小ささと言わざるを得ない(到底「相」や「将」の器ではない)。この人の株式や経済への洞察にも、重大な疑念を抱く(大所高所に立った戦略的な見方ができていないのではないか?)。》
(私のコメント)
当時の日本は中国における戦闘で手一杯の状態であり、とても「北進」出来る状態ではなかった。だからこそ大本営は不拡大の方針でノモンハン事件にあたった。むしろソ連のスターリンのほうが領土拡大の野心に燃えており、バルト三国の併合やポーランド分割やフィンランド侵略などを繰り返していた。年表から見ればその事実は明らかだ。
1939/05/12 ノモンハン事件 (スターリンの野望が日本軍に阻止される)
1939/09/17 ソ連軍、ポーランド東部に侵攻開始
1939/11/03 ソ連軍、フィンランド侵攻開始(ソ・フィン戦争勃発)(バルト三国併合)
このように年表を見ればソ連のスターリンが如何に侵略的であったかがわかる。ノモンハン事件においても23万もの軍隊を集結していた事からも、計画的な満州侵略を仕掛けたことは明らかだ。それに対する日本軍は僅か2万の一個師団しかモンゴル・満州国境に配置していなかった。しかしながらソ連モンゴル連合軍23万は僅か2万の日本軍に大敗を喫した。
そのことによりソ連のスターリンは急遽日本と和睦してポーランドに襲い掛かり、ポーランドの領土の東半分を併合した。それでもスターリンの侵略は止まずバルト三国とフィンランドに襲い掛かりバルト三国は併合された。もし日本軍がノモンハン事件で勝利していなかったならば、ソ連軍は満州を併合していただろう。
その意味でノモンハン事件はソ連のスターリンの野望を阻止した意味で戦略的にも勝利して、スターリンは1945年まで満州には手を出すことが出来なかった。あくまでも当時の日本軍は中国との戦争で手一杯であり、日本側からノモンハン事件を仕掛けたことはありえない。食料や弾薬も用意していなかったことからも明らかだ。ノモンハン事件のサイトでは次のように記述している。
《外蒙軍総司令官であったチョイバルサン元帥は、日本側の撤退命令と同じ5月15日頃、国境警備隊に主力到着までハルハ河で阻止するよう命じ、外蒙第6騎兵師団を進出させた。同時にソ連第57狙撃軍団は相当の兵力を5月20日までに進出、ソ連・外蒙軍は東支隊の撤収後の東岸に進出して陣地を構築した。これを知った小松原師団長は再び「満ソ国境紛争処理要綱」に基づき、ハルハ河東岸のソ連・外蒙軍の撃滅を決心する。》
満ソ国境紛争2/ノモンハン事件 概説1 昭和14年5月11日〜昭和14年9月16日
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-kokkyo21.html
(私のコメント)
ソ連のスターリンはどこまで満州に侵攻するかは不明ですが、23万もの大軍を用意していたことから、抵抗が少なければ満州はポーランドやバルト三国のように併合されていたことだろう。そして中国で戦っていた日本軍は背後からソ連軍の脅威にさらされた事になる。スターリンの野望は消えることなく1945年に日ソ中立条約を破って満州に侵攻している。
傍観者A氏は当時の日本軍がソ連やモンゴルへ侵攻できるという根拠はどこにあるのだろうか。当時の関東軍は中国へ出払ってしまってモンゴル国境にはにわかじたての第二十三師団しか配置していなかった。戦車にしても僅か百台しかない。当時の日本には中国とソ連を同時に戦争できる軍事力はなかった。ましてやアメリカと戦争をするなどとは陸軍は考えていなかった。
ところが日本海軍は勝手にパールハーバー奇襲作戦を決めてしまい、アメリカと戦争を始めてしまった。当初こそ陸軍は海軍に協力していたが、途中で軍を引き上げて中国に戻そうとしている。バカな海軍が勝手にアメリカと戦争をしてしまったことは陸軍にとって予想外のことであり、そのことが日本の敗戦に繋がっている。概説太平洋戦争のサイト
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/pacific2.htm
では次のように書いている。
《海軍は、オーストラリア全土の征服を真剣に考えました。ただ、この計画は陸軍の反対によってご破算になりました。陸軍がどうして反対したかというと、彼らの本音は、一刻も早く太平洋から兵力を引き上げて、中国との戦争に注力したかったからです。それにしても、オーストラリアの征服なんて、当初の戦争目的から照らして何の意味も持たないし、そもそも日本の国力では達成不可能でしょう。ここにも、「官僚の暴走」という構図が見て取れます。暴走官僚は、仕事をすればするほど省益にプラスになるので、あえて無意味な大仕事を企画する特徴があるのです。》
(私のコメント)
日本の官僚的感覚から言えば戦争に負けたのは海軍が勝手にアメリカと戦争したからであり、わが陸軍は負けていないと言う感覚だろう。無敵の関東軍は満州には居らずもぬけの殻であった。如何に陸軍は中国との戦争で手一杯かの証拠であり、インパール作戦も中国への補給路を遮断するための作戦であり、陸軍が中国との戦争しか考えていなかった証拠でもある。とてもソ連へ侵攻することなど誰も考えていなかった。