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(回答先: ◆ おかしさに色彩られた悲しくも崇高なバラード(前編)(MIYADAI.com) 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 2 月 19 日 17:04:37)
◆ おかしさに色彩られた悲しくも崇高なバラード(後編)
■先日、東浩紀氏の有料メルマガで、国家論から出発した私が、サブカル論や 若者フィー
ルドワーク──ブルセラ女子高生的存在の肯定──を経て、特に最 近になって天皇論やア
メリカ論など政治的な発言をするようになったのかを説 明しました。
■そこでは、ブルセラ現象を煽った果てに生じた青少年条例問題や児童買春法 問題につい
て、ロビイングを通じて責任を取ろうとしたところ、そこで実感し た政治的コミュニケー
ションの低レベルぶりにショックを受けたから、という 話をしました。
■しかし、そのときは話が膨らみ過ぎるので敢えて言わなかった、もっと大き な理由があ
ります。一口で言えば、社会の流動性が高まることによる入替え可 能化が、多くの人たち
を思いのほか苦しめるようになってきている事実が広範 囲で露呈してきたからだ、となる。
■『終わりなき日常を生きろ』という95年の本では「オウム的なもの」は風化 し「ブルセ
ラ的なもの」が残ると予言し、その通り96〜97年にかけて援助交際 ブームがピークを迎
えます。「ブルセラ的なもの」「オウム的なもの」とはそ れぞれ何だったのでしょうか。
■『終わりなき日常を生きろ』では、さっき紹介した宗教性の類型論をベース に、「ブル
セラ的なもの」とは「行為」系──幸せになりたい系──の宗教性 に、「オウム的なもの」
とは「体験」系──ここはどこ?私は誰?系──の宗 教性に、対応すると言いました。
■言い換えれば「ブルセラ的なもの」は「内在」系で、「オウム的なもの」は 「超越」系
だということです。加えてこの本では、「ブルセラ的なもの」とは 流動性に適応できる者
共の謂いで、「オウム的なもの」とは流動性に適応でき ない者共の謂いだとも言いました。
■その上で、流動性(入替え可能化)への不適応を象徴する「オウム的なも の」は、入替
え不可能なものを希求するがゆえに全体性への妄想に至るから危 険だとし、入替え可能な
自己を軽々と流動性に委ねる「ブルセラ的なもの」の 拡がりを安全だとして肯定しました。
■95年のオウム真理教事件(地下鉄サリン事件から麻原逮捕まで)は、豊かな 成熟社会に
おける「流動性への適応問題」の先鋭化を、モロに象徴する事件だ ったという『終わりな
き日常を生きろ』における分析は妥当でしたが、長期的 にみると予測は誤っていました。
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■「オウムが風化し、ブルセラが残る」。短期的にはそうでした。ところが長 期的にはど
うでしょう。「流動性を軽々とサーフィンする入替え可能化に悩ま ぬ者がどんどん増える」
──とはならなかった。それどころか、まったく逆の 現象が広く見られるようになります。
■第一に、「流動性サーファー」はサウンド&ヘルシーどころではなかった。 『不純異性
交遊マニュアル』にも記した通り、確かに「流動性サーファー」は たくさんいます。が、
その多くは、ロマンゆえの期待外れから来るトラウマを 抱えたオブセッシブな連中です。
■90年代半ばにブルセラや援交を軽々とこなした女子高生たちのその後を見る と、多くが
いわゆる「メンヘル系」となり、抗鬱剤や安定剤などのおクスリに 依存する子たちも出て
きました。統計的に見ると、風俗の仕事も常習的な援交 も二年以上続くのは極めて稀です。
■昔のナンパ師仲間が言うように「流動性サーファー」に見える若い女の子た ちは非流動
的な大恋愛への免疫がないので「命がけの愛」をウリにする中年ナ ンパ師たちに簡単に転
がされる。かくして非流動的な関係性の可能性を知る と、流動性に不全感を抱き始めます。
■いろんな場所で紹介してきた「流動性の悪循環」も生じています。タコ足的 な相手との
関係の流動性からくるリスクをヘッジするために、自らもタコ足化 する結果、自らの関係
の流動性が高まって、今度は相手がそれに備えてタコ足 化し流動化するという悪循環です。
■第二に、流動性がもたらす入替え可能性ゆえに、コミュニケーションや関係 性なるもの
に実りがないという感覚が拡がっていて、その結果、コミュニケー ションや関係性からの
退却──社会からの退却──が、さまざまな形で拡がっ ています。
■典型的なのは「ひきこもり」ですが、「性からの退却」や「コミットメント (熱心な関
わり)からの退却」も広汎に見られます。またそれと絡んで、自分 自身の尊厳(自己価値)
を、コミュニケーションや関係性から無関連化する 「脱社会化」も、問題になっています。
■こうした動きに抗う形で、高い流動性を遮断して、流動性によって均質化さ れがちな多
様性を護持するための運動──スローライフやスローフード──も 拡がって来ました。同
時に流動性一辺倒のアメリカン・グローバリゼーション に対する批判も強まって来ました。
■かくして、近代社会につきものの社会的流動性を減らすのに必要な施策の選 択を正当化
するイデオロギーが、要求されるようになってきました。そこで、 亜細亜主義者や三島由
紀夫に見出される「入替え不能性の思想」に、言及する ようになったというわけです。
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■90年代末に相次いで見沢知廉・鈴木邦男両氏の本に解説を依頼されたので、 口火を切っ
てみました。この段階では「表現と表出の違い」とか「近代天皇制 とそれ以前の天皇制の
違い」といった、皆さんが議論をするときに最低限必要 な知識を整える作業に当てられた。
■ちなみに「表現」とは相手に理解させたり動機づけたりできれば成功で、 「表出」とは
エネルギーを発露して自分の気が済めば成功です。鈴木邦男氏の いう「情念の連鎖」とは、
表出が表出を呼ぶという「表出の連鎖」で、それが 起こるときに共通感覚が証されます。
■明治以降の「近代天皇制」とは「忘却と融和の装置」で、田吾作が田吾作の 言うことを
聞くようにさせる、あるいは違う村の田吾作同士を融和させる機能 を果たします。「元々
の天皇制」(飛鳥時代まで)とはヒメ・ヒコ制に由来す る「力を降ろす」ための装置です。
■次に速水由紀子との共著『サイファ 覚醒せよ』ではシステム理論に基いて 「社会」と
「世界」の区別を語り、「社会」からやってくる力を「横の力」、 「世界」からやってく
る力を「縦の力」と呼び、元々の天皇制が降ろす力とは 「縦の力」だという話をしました。
■ちなみに「社会」とは、ありうるコミュニケーションの全体。「世界」と は、ありとあ
らゆる全体。原初的社会(部族段階)では「世界」と「社会」は 重なりますが、社会が複
雑になると「社会」の外にコミュニケーション不能な 「世界」があると観念され始めます。
■役割関係や権力関係のような「社会」関係の力学が「横の力」です。これに 対して「世
界」の本源的未規定性を呼び込んで、規定されたものを揺動させる 力学が「縦の力」です。
そして「世界」の本源的未規定性を暗示する規定され た特異点を「サイファ」と呼びます。
■哲学史に詳しい向きはお分かりでしょうが、プラトン以前のフィジクス(万 物学)は「縦
の力」に言及します(Truthes=The Stream)。プラトン以降のメ タフィジクス(万物を
超えるものの学)は「縦の力」を徹底的に無害化し、中 立化します。
■知識社会学的に言うと、フィジクスの時代とメタフィジクスの時代を分ける のは、文字
の普及です。それにより、舞踏と朗誦による共振や感染から、エク リチュール(書かれた
もの)による理解と伝達へと──「表出」から「表現」 へと──軸足が移動して行きます。
■さて第三段階では、雑誌『ダ・ヴィンチ』の編集部に依頼して、「社会」と 「世界」の
差異について、映画を素材にして誰にでも分かりやすく語るという 連載プロジェクト「オ
ン・ザ・ブリッジ」を99年から開始しました。これは現 在も続き、たぶん永久に続きます。
■こうした準備作業ができた後の第四段階で「亜細亜主義を見直せ」との主張 を始めまし
た。流動性よりも多様性。収益価値よりも共生価値。成長よりも持 続可能性。そういうオ
ルタナティブな近代構想の嚆矢として、亜細亜主義を見 直そうというのが、私の提案です。
■ちなみに「亜細亜主義」には三つの本義があります。第一が徹底的に近代化 しないと欧
米列強に屠られてしまう(解放の義)。第二が単に近代化するのみ では列強に従属し且つ
入替え可能な場所となる(護持の義)。第三がそうなら ないように軍事・経済・文化的な
ブロック化を図れ(阻止の義)。これを社会 学の最新理論で今日的に読み替えようと。
■これを踏まえて最後に、入替え不能性の護持に関わる逆説を理解し、亜細亜 主義の毒を
抜くために、亜細亜主義者・北一輝を2・26青年将校共々リスペ クトしていた三島由紀
夫の「内在と超越」のアンチノミーを紹介する段になっ ています。これは全て計画的です。
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■三島について特に問題になるのは「文化防衛論」です。第一は「政治」から 「文化」を
防衛せよという主張であり、第二は「博物館的文化主義」から「文 化」を防衛せよという
主張です。どちらも共通して、「内在」から「超越」を 防衛せよ、という形式を取ります。
■これは誤解をされやすいので正確に理解しましょう。これは論理的能力の不 徹底を「情
の論理」で埋めるような巷でありがちな振舞い(小林よしのり)と は違う。『サイファ』
で述べたように、論理を限界まで使い尽くしたときに指 示される領域こそが「超越」です。
■だから三島は「政治=内在」の領域では徹底的な論理性──戦略性──を要 求します。
ところが「政治」において徹底的に論理的であろうとする根拠それ 自体は、論理の中には
現れてきません。こういう場面で「文化=超越」が、入 替え不能な全体性が、登場します。
■これまた『サイファ』で繰り返し述べましたが、人が過剰に合理的であろう とするなら、
その理由は不合理なものに決まっています。過剰に理性的であろ うとするなら、その理由
は非理性的なものに決まっています。私がこう言うと き、三島が念頭に置かれています。
■三島が天皇を擁護するのは、「政治=内在」の領域ではなく「文化=超越」 の領域にお
いてです。彼が象徴天皇制と言うとき、明治以降の「忘却と融和の 装置」としての天皇の
政治利用を指します。こうした内在のロジックによる天 皇尊重を、彼は徹底的に退けます。
■すなわち岩倉使節団系の立憲君主制構想にみるような「田吾作による天皇利 用」、北一
輝(2・26青年将校とは区別される)にみる天皇親政構想にみる ような「田吾作による
天皇利用」、GHQの統治政策に見るような「田吾作に よる天皇利用」を拒絶するのです。
■「田吾作による天皇利用」とは、合理主義者が、機能的に役立つという理由 で、機関と
しての天皇を尊重する態度のことです。私が「田吾作による天皇利 用」と言う場合にも、
三島由紀夫の「文化防衛論」が念頭に置かれています。種明かしのオンパレー ドですね。
■三島が──ある場合には私が──天皇へのリスペクトを持ち出すのは、こう した「内在」
のロジックではありません。同じく我が師・小室直樹博士が言う ような、昭和天皇の近代
主義的な見識のお陰でむしろ国民は救われたとする 「内在」のロジックでもありません。
■そうでなく「超越」のロジックです。「世界」の全体性を(すなわち「世 界」の規定不
能性を)指示する「サイファ=超越論的存在」として(すなわち 「世界」の内と外に同時
に属する存在として)天皇を持ち出すのです。いわば 「宗教的形象」としての天皇です。
■「政治=内在(規定可能な部分性)」。「文化=超越(規定不能な全体 性)」。「天皇
=超越論的存在(規定不能な全体性を暗示する規定可能な部分 性=サイファ)」という宗
教社会学的な構造が、徹底理解されなければなりま せん。ここまでは論理的な問題です。
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■こうした論理を理解すれば、「文化防衛論」がハイカルチャー(能や歌舞 伎)とマスカ
ルチャー(ヤクザ映画)の区別を認めないことで、戦後サブカル チャーの全体を擁護した
理由が分かるはずです。大塚英志の言うように「文化 防衛論」はサブカル防衛論なのです。
■理由は、どんな「内在」も「超越」への扉となりうるからです。どんな規定 された事物
にも「世界」の本源的未規定性が顕現しうるからです。しかし『サ イファ』で述べた通り、
それでは複雑な社会は回らないので、扉を一カ所に集 約する。それをサイファと呼びます。
■「一木一草の天皇」ではありませんが、どんな「内在」も「超越」への扉と なりうる潜
在性を抱えながら、辛うじて「内在」であり続けられる。しかしそ れは「超越」的な全体
性へと通じる扉を天皇という形象に集約しているからだ ──これが三島のロジックです。
■ここまでは社会システム理論も肯んじうるのですが、そこから三島は「踏み 出す」。人々
が天皇──「超越」へと通じる特異点──を忘れてしまったこと で、「内在」する諸事物
の潜在性──一木一草の天皇──も消滅してしまった と。ここに私は疑問があるのです。
■疑問は完全に論理的なものです。第一は、三島は逆立ちしているのではない かという疑
問です。「内在」する諸事物から潜在性が失われてフラグメント化 することへの苛立ちは
分かる。でも天皇を忘れたから(人間宣言!)フラグメ ント化したというのは言いがかり。
■いわゆる人間宣言には「私は人間である」などとは書いていない。一口で言 えば「私は
内在と共に歩む」と言っているだけ。その程度で「縦の力」が失せ るのなら、実は最初か
ら失せていたのです。実際三島は維新政府によって「縦 の力」が削がれたと述べています。
■すなわち、実際には維新政府の「政治=内在」の力が、辛うじて「文化=超 越」的な全
体性へと通じる扉を天皇という形象に集約させていたのではない か、という疑問です。こ
のことは、橋川文三が「美の論理と政治の論理」で指 摘する三島の矛盾に直結しています。
■橋川は言います。第一に、天皇が保持する「文化の全体性」を護持するため の反共だと
三島は言うが、明治憲法体制下で既に(天皇の政治的利用で)「文 化の全体性」が侵され
ている以上おかしい。そもそも「文化概念としての天 皇」と「国家の論理」は両立しない。
■第二に、これへの対応なのか、天皇と内政ではなく、天皇と軍隊を直結する と三島は言
うが、直結の瞬間に「文化概念としての天皇」は「政治概念として の天皇」にすり替わっ
て「文化の全体性」を破壊することは、統帥権独立の顛 末で歴史的に実証済みではないか。
■要は橋川は「政治=内在」が何事につけ防波堤として介入しないと「文化= 超越」とし
ての天皇を維持できず、そのような「政治=内在」の介入が「文化 =超越」としての天皇
を破壊する以上、近代国家で「文化=超越」としての天 皇を維持することは不可能とする。
■これに対して三島は《ギャフンと参ったけれども、私自身が参ったという 「責任」は感
じない》と述べています。三島は、戦後の極端な言論の自由にも かかわらず象徴天皇制が
維持されている所に日本国民の一般意志(文化)を見 て取れる、と論点をずらしています。
■挙げ句は、制度の無秩序や言論の無秩序の中から時として天皇親政を目指す 美的テロリ
ズムというアナーキズムが生じるという「事実」に、天皇における 「政治=内在」と「文
化=超越」の結合を見出すと退却します。それなら何 も戦後社会に苛立つ必要などない。
■つまり「天皇を忘れたから社会がフラグメント化した」という主張は、三島 の中でさえ
維持できないのです。近代社会で万民が天皇を忘れないようにする には政治介入しかなく、
そうすれば天皇は必ず政治的存在へと頽落し、自発性 が支える文化概念から乖離します。
■橋川文三に突っ込まれた三島の返答は、結局「天皇制(政治)に対するコミ ットメント
などありえず、天皇(文化)へのコミットメントに基づく政治行為 のみがありうる」とし
て、明治憲政を否定して2・26テロを肯定する、とい うだけのものです。だがしかし。
■これは「結果がどうなろうとオレは2・26隊付青年将校につらなるぞ」と いう宣言と
同じ。しかし「結果がどうなろうと」といった途端にそれは政治行 為ではなくなり、文学
的「表出」になります。そこではやはり「政治=内在」 と「文化=超越」は結合しません。
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■三島のロジックへの第二の疑問は、繰り返し述べた三島の「踏み出し」に関 わります。
冒頭では、「天皇を通じて全体性を虚数的に想像できないと、個別 のモノも人も入替え可
能な存在に堕する」というクリプキの固有名論からの 「踏み出し」として紹介しました。
■ここでのパラフレーズでは、人々が天皇──「超越」へと通じる特異点── を忘れてし
まうことで、「内在」する諸事物の潜在性──影ないしアウラのよ うなもの──も消滅し
てしまう、という断言的な命題になります。論理的には 全く根拠のないデタラメです。
■確かに諸事物を入替え不能にする影やアウラを想像可能です。私自身もそう した諸事物
の入替え不能性を眩暈と共に享受し、私自身入替え不能な存在たら んと憧憬します。天皇
なるサイファなくしてそれは不可能だというのは、三島 にとってそうであるに過ぎません。
■具体的に言えば、天皇が人間宣言をして以降も、日本のサブカルチャーには 相変わらず
濃厚な影やアウラが刻印されています。それは必ずしも日本人にし か享受できないわけで
はない。世界中のクリエイターたちがこの濃密な影やア ウラに憧憬する現実があるのです。
■三島の言う通り天皇制に対するコミットメントなどあり得ない。私たちは制 度や世界観
のような統一体にコミットなどできない。いつもフラグメンツ的な 具体にしか反応できな
い。でも和辻哲朗的に言えばそれがむしろ我々のアイデ ンティティーになるべきなのです。
■僕たちがコミットするフラグメントのどれ一つとっても輸入ギミックでしか ない。にも
かかわらず、輸入ギミックの使い方という行動原則にこそ日本性が 刻印されている。三島
邸における和洋折衷の「モダニズム」的なケバケバしさ と同じように。それでいいはず。
■ですがそこにも三島の「踏み出し」が刻印されている。三島は自邸の和洋折 衷を弁護し
て「そういうお前も五十歩百歩だろうが」「オマエモナー」的な言 い方しかできない。こ
こに私は少年時代以来の三島の「少女趣味的な古典主 義」の残響を、敏感に嗅ぎ取ります。
■要は、少女趣味的な統一感がないと──天皇趣味的な統一感がないと──安 心できない。
そういう三島の心理システム上のディスポジション(傾き)があ るだけ。しかもそのディ
スポジションは我々(範囲をオープンとしますが)と いうより、三島の個人史に由来する。
■実存的な欠落──不全感や不安──を天皇趣味によって埋めようとするとこ ろに、私は
三島の弱者ぶりを見出します。三島はこの少女趣味を社会に投射し て、社会の文化的な欠
落を天皇によって安堵してもらおうとする。「田吾作に よる天皇利用」とどこが違うのか。
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■結局は三島の心理システムのディスポジション──せいぜい個人的な趣味─ ─へと帰属
されるしかないこうした「踏み出し」とは別に、三島の「文化=超 越」としての天皇──
「文化概念としての天皇」──という観念には、看過で きない本質的な矛盾があります。
■三島は、全体性を虚数的に想像可能にする装置であれば、天皇であっても、 葉隠れの主
君であっても、何であっても言いのだと、ある対談で「口を滑らせ て」います。入替え不
能なのは「超越」であって、「超越」への扉を開く装置 なら、何であってもいいと。
■要は、近代の機能主義がもたらす入替え可能性に抗するための「文化概念と しての天皇」
自体の機能主義的な入替え可能性という矛盾。しかし多くの論者 と違い、ここに私は三島
の無分別でなく、むしろ分別を見出します。彼の趣味 に還元できない本質的問題を見出す。
■近代人はコンビニエンスを目標とします。社会学では「手段的合理性」と言 います。コ
ンビニエントでありさえすれば手段は何でもいいから手段は入替え 可能です。入替え可能
な手段の中で最も(またはソコソコ)コンビニエントな ものを選ぶ。それが機能主義です。
■すると論理必然的に、「近代過渡期」には問題にならいことが「近代成熟 期」には問題
化します。「近代過渡期」とは、マートン的に言えば、目標に向 けた──コンビニエンス
で豊かな社会に向けた──「手段や機会の不十分さ」 が問題になる「貧しい時代」です。
■これに対して、「近代成熟期」とは、多くの人がそれなりに手段にアクセス 可能になる
ことで、「なぜその目標なのか」──なぜコンビニエントでなけれ ばいけないのか──が
問題になる「豊かな時代」です。三島が自決した70年代 は「豊かな時代」の始まりです。
■そこでは入替え可能性が問題化する。なぜか。システムにとって人間はノイ ジーなファ
クターです。システムがうまく回るにはノイズである人間は取り除 かれたほうがいい。そ
うならないのはシステム外に入替え不能な存在としての 人間がいると信じられるからです。
■人間がシステムの外たりうる段階では、人間がシステムの成否を判断すれば いい。でも、
人間がシステムの交換可能なリレイスイッチと化している場合、 外は消え、自己目的化し
たシステム合理性の観点から、人間は不完全部品なの でロボットに替えた方がいいとなる。
■別の言い方をすれば、不登校やひきこもり問題にも関係する「システムへの 適応不全は
悪か」という問題です。システムに適応している人間が肯定される べきかどうかは、人間
がシステムの外に立ってシステムの成否を判断できなけ ればいけない。外に立てるのか。
■いつの時代もシステムを批判するにはシステムの外にある評価基準──例え ば人間──
を持ち出さなきゃいけない道理です。ところが欠乏が埋められた豊 かな成熟社会では、人
間が何をどう評価するのか自体がシステムの産物です から、人間は外部基準たりえません。
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■三島の「文化概念としての天皇」という矛盾した機能的概念は、こうした根 本問題の所
在を指し示しています。「文化概念としての天皇」などという言い 方そのものが極めて近
代主義的=機能主義的で、ハナから「不敬な響き」があ ることに皆さんお気づきでしょう。
■三島がこの概念を持ち出したのは、僕たちが近代主義=機能主義に従ってい るだけでは
「透明な存在」になってしまうからです。近代主義=機能主義の徹 底によって「透明な存
在」とならないためには、機能的な装置が必要で、それ が文化概念としての天皇だと言う。
■もちろんこれも機能的な装置ですから「僕たちの入替え不可能性を担保する 機能を持つ
なら、天皇でも何でもいい」というニュアンスになる。ですが、そ れに合意した途端に、
入替え可能性という意味で、天皇を「透明な存在」にし てしまう。これは論理的問題です。
■すると、まさしく論理的に言って、「文化概念としての天皇」という機能的 装置を、強
制的に入替え不能にしてしまうような「暴力的な具体」が、どこか で出て来る必要に迫ら
れるのです。三島の場合は自決という形でそれが現に出 てきて、みんな引いてしまった。
■しかし、この飛躍というか暴力性は、彼の頭の悪さではなく、頭の良さの表 れという他
はない。三島が、「内在」次元で近代主義者でありつつ、「超越」 次元で行動主義(自決)
という形で昭和天皇という具体への帰依を示すのは、 私から見ると完全に論理的なのです。
■私も社会システムの評価を可能ならしめるべく、三島と同じく「機能主義化 によって透
明化しないためにの機能的装置が必要だ」という言い方をします。 これはパラドックスで
す。しかもその機能的装置は「天皇」だというと、暴力 的飛躍を感じる向きが出て来ます。
■しかし今お話ししたように、このパラドックスも暴力的飛躍も、論理的徹底 ゆえにもた
らされる必然です。確かに天皇でなくとも同じ機能を果たすなら何 でもいい。しかし何で
もいいと言った途端に機能を果たさなくなる。だから暴 力的飛躍が要求されるわけです。
■こういう「困難な領域」の存在を指し示したというだけでも、三島の時評的 文章と自決
行為の組み合わせには大きな意味があります。繰り返し述べたよう に、問題の暴力的飛躍
を「天皇への帰依」によってもたらすことは、橋川文三 的な意味で、現実的に不可能です。
■「だったら天皇なんか持ち出すな」と言いたい気持ちは分かります。しか し、ならば「文
化概念としての天皇」に替わる、諸事物の入替え不能性を事実 的に支える何か=Xが、論
理必然的に要求されます。それは、サイファのよう な特異点なのか、遍在する何かなのか。
■今までの議論でお分かりの通り、こうした「困難な領域」はどんな近代社会 にも普遍的
に存在します。しかし、多くの近代国家では、この「困難な領域」 は、辛うじて存在する
事実性──ディスポジション(傾き)──によって埋め 合わされています。日本はどうか。
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■アメリカにリチャード・ローティーというアイロニストがいて、僕と瓜二つ のことを言っ
ています。彼のアイロニストぶりを見ると、フランス現代思想系 や左翼残党系(ポスコロ
系やカルスタ系)の連中を超えるだけの、みごとな見 識を示しています。
■しかし、ローティー的アイロニーの必然性について理解している日本のアカ デミシャン
や論壇人が少ない。それが残念です。ただ、ローティを理解できる ぐらいなら、とっくに
三島を理解できているはず。三島への無理解がこれだけ 蔓延する以上、仕方ないでしょう。
■アイロニーを理解するには物事の順序があります。第一に(三島の)矛盾だ と見えるも
のが論理的必然だと理解できるぐらいには賢くならなければいけま せん。第二に、賢くなっ
た視点から(三島の)実践が文脈的にどう評価される のかが再検討されなくてはいけない。
■その点で言えば、世俗の機能的必要性──入替え可能性──を越えて、超越 論的必然性
──入替え不可能性──を指し示そうとすると、事実的な文脈をし っかり踏まえた上での
アイロニスト的な実践が論理必然的に要求されます。そ れが暴力的飛躍に相当します。
■別に格好つけたり高見の見物を決め込むためにアイロニーを語るのではな い。アイロニー
を通じてでしか表現できない「困難な領域」があるのです。そ ういうアイロニーに敏感で
あり続ける伝統を維新以降の日本人は持っていたと 思いますが、今は鈍感になっています。
■私たちはそういう鈍感さをクリアする必要があります。クリアできるのなら 天皇という
表象を持ち出す必要はない。むしろ構造的問題だけ理解すればいい だけ。構造的問題を理
解するための手段として、天皇をめぐるコミュニケーシ ョンの歴史を知ればいいだけです。
■しかしここに私たちのハンディキャップがある。ローティの場合、米国建国 史へのコミッ
トメント──憲法バトリオティズム──が現に広く共有されてい る。だから「困難な領域」
をブリッジするために突然彼が米国建国史を持ち出 すアイロニーが、「あり」なのです。
■では、日本でローティのようなアイロニストとして振る舞う場合、三島のよ うに「文化
概念としての天皇」を持ち出さないといして、何を代わりに持ち出 せるのかということが
問題になります。実際に、実験をやってみましょうか。
■「近代を越えるには徹底して近代である他ない」「アメリカを越えるには徹 底してアメ
リカである他ない」。これらはローティのアイロニーですが、これ は有意味です。さて「日
本を越えるには徹底して日本である他ない」。はあ? もう意味が分からないでしょう。
■これは三島や僕やみなさんの表現力の問題ではない。アイロニーが依拠でき るような論
理以前的な事実性が、元々存在しないのかもしれないということで す。あると言われりゃ
あるようでもあり、ないと言われりゃないようでもあ る。それが日本という場所なのです。
■ローティーというアイロニストが敢えて持ち出す「米国建国史」の如きもの を日本で探
しても見つかりません。だからこそ「文化概念としてのX」といっ た、入替え可能なのか
不能なのか分からないような、規定された表象を持ち出 すしかない。そういう必然です。
────────────────────────
■これがなぜ大問題なのか。「そりゃオマエらだけだぜ」という実存問題を横に置いても、
様々な問題が念頭に浮かびます。例えば三島も繰り返し拘っている「愛国の本義」の問題
です。すなわち彼が「愛国とは権利であり、義務ではない」という問題に関係します。
■三島もよく心得ている通り、愛国とは、国民が国民的財産を護持するべく国家を操縦し
ようとする自発性のことです。パトリオティズムの原語に戻れば、我々(範囲はオープン)
が我々の有形無形の相続財産を護持するべく一定手段にコミットしようとする自発性です。
■相続財産を生命財産や家族安全の維持という具合に短絡すると間違います。生命財産や
家族の安全を維持してくれる国家は日本ならずともどこにでもありうる。むしろそうした
国に移住した方がもっとよく生命財産や家族安全を維持してくれる可能性さえありえます。
■では我々の有形無形の相続財産とは何か。コミュニケーションのネットワークか。IT
化が進展すれば、どこの国に移住しても元の国の親しき者たちと場所性に拘束されないコ
ミュニケーションを継続できるようになる。するとパトリの含意する場所性は消滅します。
■ことほどさようにグローバリゼーションが進展すると、場所的なパトリはコミュニケー
ション・インフラ的な公共財や共有財という意味に短絡しかねません。公共財も共有財も
入替え可能な機能的装置ですから、相続財産から入替え不能性のニュアンスは消えていく。
■そうなると、少なくとも自分「たち」の入替え不能性を支える機能的装置(の入替え可
能性)という「困難な領域」は、多かれ少なかれ問題にならなくなっていきます。私には
私の、あなたにはあなたの、全体性についての虚数的な妄想があるだけだ、という話です。
■愛国の本義を支えるものは場所性です。テクノロジーによる流動性の増大で場所性が消
えていけば、愛国機能の半分は、公共財や共有財へのタダノリを警める倫理や監視テクノ
ロジーに置き換わり、残りの半分は、全体性についての個人的妄想に置き換わるでしょう。
■ナショナル・ヘリティジと言った場合の想像しがたさといった日本的な事実性は、その
意味で、グローバル化やIT化を見据えた場合に、少なくとも先進各国にとって遠からぬ
将来に問題化することではないかと予想できます。その意味で問題は普遍的で一般的です。
■もちろんコントリビューションの自発性を支える倫理の消滅は問題ですが、究極的には
「タダノリする者を見つけ出してぶっ殺す」監視テクノロジーが問題を代替しうる可能性
があります。やはり問題は残り半分、すなわち全体性についての個人的な虚数的妄想です。
■高度技術が支える豊かな成熟社会では『マトリックス』が示唆するように、諸事物とり
わけ自分自身の入替え不能性を信じさせるに足りる「世界」の全体性に関わる虚数的妄想
は、それ自体システムの回転という非自明的な事実性によって支えられるようになります。
■ここで、三島の「文化概念としての天皇」が抱えてしまうのと等価な、「入替え不能性
の入替え可能性」というパラドックスが問題になり「えます」。これが問題化しないよう
にするには、諸事物とりわけ自分自身の入替え不能性を、端的に断念する以外ありません。
■かくして冒頭の問題に回帰します。諸事物とりわけ自分自身の入替え不能性を断念しう
る──入替え可能性が何の問題にもならない──存在を、東浩紀氏にならって「動物」と
呼べるでしょう。「流動性サーフィン」を自由自在になしえて、且つ苦しまない存在です。
■言い換えれば「内在」のみで生きうるパーソナリティ(心理システム)。そういう存在
は現に大規模に存在します。私もかつて彼らに希望を託していました。しかし既に述べた
ように、世紀末以降の流れを見る限り、コミュニケーションは別の流れを示しています。
■「内在=入替え可能性」のみで生きうると見えた存在が、結局は不全感を抱え、「超越
=入替え不能性」を志向してしまう。しかし、とりわけ成熟社会以降の豊かな近代システ
ムでは「入替え不能性の入替え可能性」という「文化天皇論」の逆説は不可避になります。
■結論です。三島の「政治=内在=入替え可能性」の否定と「文化=超越=入替え不能性」
への志向は、社会的文脈の変化に伴う論理的必然性と、彼自身の少女趣味的パーソナリティ
に帰属される滑稽さを、併せ持ちます。しかしこの滑稽さが問題の本質を指し示すのです。
■問題を論理的必然たらしめる社会的文脈は、高度成長時代以降の戦後日本社会のあり方
というに留まりません。高度技術化によって場所性をいかようにも操縦できる流動的シス
テムが一般化すれば、どんな「超越」志向も、具体的な形を取るやギャグへと頽落します。
■その意味で、三島の時評的文章と自決行為のカップリングが示す滑稽さは、単に嗤って
済ませられる問題ではない。むしろ三島の先駆性が私たちに与えてくれるはずの免疫に感
謝するべきなのです。そういうことを言うのが私だけだというのは、あまりにも寂しい。