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◆ おかしさに色彩られた悲しくも崇高なバラード(前編)(MIYADAI.com)
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投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 2 月 19 日 17:04:37:Sn9PPGX/.xYlo
 

◆ おかしさに色彩られた悲しくも崇高なバラード(前編)


■1970年11月27日、自衛隊市ヶ谷駐屯地に作家の三島由紀夫ほか「楯の会」のメンバー
数名が日本刀を持って乱入。人質をとってバルコニーで「決起」を促す演説をするも、自
衛隊員の野次と怒号を浴びるだけだと知るや、自決に及ぶ。そういう事件がありました。
■本書は東京大学法学部で三島と同級だった評論家のいいだもも氏が、事件の前後に三島
について書いた文章、三島と行なった対談、三島について行なった対談を集めて、緊急出
版したもの。今の若い人たちが読むのに助けになるような前書きを書くのが私の仕事です。
■三島は擬古調の古典主義から美的に錯乱したロマン主義へと移行した小説家として知ら
れています。その彼がどんな思想的ないし実存的な理由で死に至ったのかを分かりやすく
説明せよという依頼だと思います。いろんな意味で荷が重い仕事ですが、やってみます。
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■三島はとりわけ六〇年代後半になると時代批評的な文章を量産するようになります。彼
自身の言によれば、表現ではなく行動を自己鼓舞するための表現であり、なおかつ、そう
した自己鼓舞の結果なされた行動からの学びを表現して、自己鼓舞へと活かすものです。
■こうした一連の文章については、評論家の橋川文三氏(『三島由紀夫論集成』)や本書
のいいだ氏がによる言及が典型的ですが、同時代の優秀な知性によって、少なからず軽侮
の対象として扱われています。それは、一連の文章があまりにも陳腐で滑稽だからです。

■三島の時代批評は全て例外なく「AでなくB」という否定の図式で書かれていて、それ
を意識すると異様に分かりやすい。そうした分かりやす過ぎる(=陳腐な)思考によって
一流の作家が自死に至るとはどういうことか、と同時代人たちは考えてしまうわけです。
■宗教学の言葉では、その否定の図式は「内在でなく超越」と纏められます。分かりやす
い実存のレベルでは、「女でなく男」「迷いでなく決断」「どう生きるかでなく死ぬか」
「単なる生でなくどんな生」「福祉でなく精神」「無意味な生でなく意味ある死」「文で
なく文武(死を賭けた物言い)」となる。
■抽象度を上げると「政治でなく文化」「強制でなく自発」「制度でなく実存」「客観で
なく主観」「論理でなく情念」「合理でなく不合理」「可能性でなく不可能性」「古典主
義でなくロマン主義」「効果でなく無効」「表現でなく表出」「破壊でなく護持」「革命
でなく維新」といった具合になる。
■最も抽象的な水準では「部分でなく全体」「切断でなく連続」「忘却でなく気づき」「相
対でなく絶対」「単なる相対主義でなく絶対を求める者の相対主義(唯識)」「文化主義
でなく文化」「入替え可能性でなく入替え不能性」といった具合です。
■とりわけ天皇がらみになると、「天皇制でなく天皇」「天皇個人でなく天皇が示す連続
性(全体性)」「人格でなく非人格としての天皇」「人間宣言以降でなく人間宣言以前の
天皇」「明治以降でなく明治以前の(国学的な)天皇」といった具合になっています。
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■こうして並べると「内在と超越」という二項対立の意味はもはや自明です。これは宗教
学や神学の基本的な概念対で、「内在」とは「世界」の内にある諸事物に自足する志向。
「超越」とは「世界」の内にある諸事物に自足できずに「世界」の外へと向かう志向です。
■しかるに「世界」とはありとあらゆるものの全体──いわば可能世界の集合体──だか
ら、論理的に外はありえません。しかし、どんな可能世界が与えられてもそれに自足でき
ずに外と向かう──いわば実数に対して虚数を志向する──態度がある、ということです。
■三島をその慧眼ぶりによって恐れさせた橋川文三の言い方では(「三島由紀夫伝」)《世
界に拒まれているという意識》であり、日本浪漫派とは対極的に《滅びの意識の自然な流
露》ではなく、《(世界への)言語によるぎりぎりの美的抵抗》というロマン主義でした。
■この部分は大切なので、どうしても腑に落ちないとマズイ。あえて分かりやすい例を出
します。私のように四十五年も生きて、いろんな人間と付き合ってくると、およそ二種類
に大別できることが分かってきます。あえて名付ければ、「内在」系と「超越」系です。
■「内在」系は、ちゃんと生きていければ幸せになれるのだから、ちゃんと生きて行こう
とするタイプ。「超越」系は、どんなにちゃんと生きても不全感が消えない、文学的に言
えば破滅型のタイプ。言い換えれば、自足できるタイプと、自足できないタイプです。
■これは私が『終わりなき日常を生きろ』などで示した宗教志向の二類型とも重なります。
宗教には「幸せになろう」として、自分にどうにもできないものを呪術やまじないなどで
何とかしようとする現世利益追求的な「行為」系宗教がありますが、「内在」系に重なる。
■これとは別に宗教には、自分が現世的な意味で幸せであろうがなかろうが「ここはどこ?
私は誰?」と問う自己意味追求的な「体験」系宗教がありますが、これは「超越」系に重
なります。ちなみに現存する宗派には、「行為」系と「体験」系がブレンドされています。
■なるほど、自分は「内在」系(「行為」系)だな、あるいは「超越」系(「体験」系)
だな、と思われた方も多いでしょう。ダメ押しで卑俗な例を出します。例えば私のところ
に寄ってくる女性たちは、なべて「超越」系です。私にそういう匂いがするからでしょう。
■「内在」系の女性たちと「超越」系の女性たちの決定的な違いがあります。前者に比べ
て後者には圧倒的に性的な変態さんが多いのです(笑)。「内在」系はそういうプレイの
話を聞くと「何それ、信じらんない」と反応するが、「超越」系は鼻をうごめかせます。
■解釈もまた通俗的で恐縮ですが、「超越」系はエロスとタナトスが近接しています。「内
在」系はセックスにおいても自分であろうとしますが、「超越」系は逆に自分を消し去ろ
うと──いわば死のうと──します。後者は文字通りエクスタシー(脱自)を志向します。
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■三島の戦後日本社会への苛立ちは、一口で言えば、文化的形象の全てが「内在」──便
利さや快適さといった入替え可能な属性(実数性)──へと堕落し、「超越」──モノの
属性には還元できない入替え不可能な全体性(虚数性)を失ったことへと、向けられます。
■社会観察やシステム観察としては「確かにその通りだ」と誰もが肯んじるでしょう。し
かし、その観察を素朴に社会批判──いわゆる文化防衛論──へと結びつけてしまうとこ
ろに、橋川文三氏やいいだもも氏が自決以前から三島の文章にかぎ取る滑稽さがあります。
■その滑稽さは、社会システム理論の言葉でいえば、(三島の)心理システムが抱える問
題を、社会システムに投射するところから来ます。戦後日本社会にもいろんなタイプの人
間がいます。たかだか「三島のような人間」が戦後日本社会に耐えられないだけの話です。
■社会には、三島のような「超越」系の人間もいれば、「内在」系の人間もいます。前者
は「文化」という虚数的な全体性なくしては脱自(エクスタシス)の契機を失って不全状
態へと頽落しますが、後者は「社会」という実数的な部分性の中に即自的に自足できます。
■ここでの「文化」という言葉の用法は特殊です。三島は、社会主義体制になっても「伝
統」とラベルを貼られて陳列されるような有形無形の文化財は、「文化」ではないと言う。
「文化」とは、諸事物や諸行為の形式が指し示す、虚数的な全体性への帰属のことです。
■三島は、歌舞伎や能の演舞であっても、虚数的な全体性が降臨しているがゆえに入替え
不可能なものと、虚数的な全体性が降臨していないがゆえに何とでも入替え可能なものを
識別します。逆に、文化財ではない横町のおっさんの振舞いにも、同じ差異を識別します。
■哲学に詳しい人はクリプキによる固有名の議論を思い出すでしょう。固有名を冠せられ
る事物の固有性は属性(述語)には還元できません。属性を当てがわれる対象(主語)が
入替え可能だからです。問題の固有性は、世界がその世界であることと同一だと言います。
■これは論理的な問題です。しかし世界(ありとあらゆる全体)の同一性──世界の全体
性──を知ることはできません。世界を外から見ることは論理的にできないからです。だ
から世界の全体性は、現実的(実数的)であるというより、いつも想像的(虚数的)です。
■三島はここから踏み出します。「世界の全体性を虚数的に想像することなくして諸事物
の固有性(入替え不可能性)を現実的に了解できない」と。これはクリプキからの明確な
踏み外し。世界とは地平に過ぎず、想像されようがされまいが固有名の固有性に関係ない。
■すなわち、三島の踏み出しは、たかだか一定の心理システムに帰属される(ディスポジ
ション)傾きに過ぎません。三島自身の性格的傾向に過ぎないものを「文化」の問題とし
て全体化する。そこに人は「死なばもろとも」的なハタ迷惑の匂いを嗅ぎ取るわけです。
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■それと不即不離のもう一つの滑稽さがあります。結局三島は世界の全体性を虚数的に想
像する一定の仕方のことを「文化」と呼んでいます。しかしそういう「文化」は世界内に
複数存在しています。最も極端な話では、全体性についての妄想が個人的に分布するだけ。
■全体性についての妄想のローカリティは、全体性への欲望には矛盾しないのか。北一輝
が述べたような「天皇が南海の土人の土偶の類に過ぎない」状況は三島を満足させるのか。
させるならば三島は南海の土人に過ぎず、させないなら全世界を巻き込むファシストです。
■加えて妄想的な個人たちを一定範囲だけ切り取って「同一の文化に属する」と判定する
権利が分からない。「誰が南海の土人なのか問題」です。まさに「お前の思い込みじゃ
ん」。そこで三島が持ち出すのが、行動が行動を呼ぶ「情念の連鎖」の事実性です(この
事実性を顕在化させようとするのが三島の行動主義です)。
■「情念の連鎖」とは一水会の鈴木邦男氏の言葉です。血盟団事件が5・15事件を呼び、
よど号事件が三島事件を呼び、三島事件が連続企業爆破事件を呼び、連続企業爆破事件が
経団連占拠事件を呼ぶという、意気に感じるの類の「情念の連鎖」は確かに存在します。
■そう。確かにないわけじゃない。どこかにチョロッとある。その程度の話であることは、
市ヶ谷駐屯地のバルコニーで三島が自衛官らから浴びた罵声によって示されています。「お
前たちは日本人か」と三島は叫びます。そう。確かに三島の言う意味では日本人じゃない。
■ならば、三島の言う日本人はどこにいるか。新古今の歌人たち? 江戸の国学者たち?
 城山で自決した下級士族たち? 2・26の青年将校たち? 「楯の会」会員たち? 
一体それらの連中にどういう代表性があるのか。それこそ「お前の思い込みじゃん」です。
■わが日本は近代社会のタテマエ。誰が何を思い込もうが、他人に迷惑をかけない限りOK
です。ですが「オレの思い込みと同じようにオマエらも思い込め」と叫んだ途端、近代的
他害原則違反という以前に、政治感覚や社会感覚のどうしようもない欠如を感じさせます。
■三島自身が述べるように彼は小説書きとしては早熟でしたが、にもかかわらず、否それ
ゆえにこそ、敗戦直後は戦後社会や戦後政治がどういうものなのかが皆目わからず、途方
に暮れます。主観性の強さゆえに社会性や他者性の欠如著しく、適応不全を来したのです。
■この社会性や他者性の欠如は、小説的想像力の豊かさを支えている分にはいいのですが、
心理システムの問題の社会システムへの投射──思い込みの押し付け──へと及ぶに至り、
滑稽な印象、あるいは彼自身の夜郎自大的な人格の痛々しさを、感じさせてしまうのです。
■以上のように、三島の時評的文章──ならびにそれと一体になった自決事件──への、
いいだもも氏を始めとする同時代の識者たちによる軽侮には、明確な根拠があります。三
島の社会観察は至極的確なのに、激烈な批判や実践の呼び掛けを読むと私も吹き出します。
■そのことは、三島の時評的文章を読む今どきの若い人たちにも同じでしょう。当然です。
が、しかし、最初にこれだけ否定的なコメントを述べておいて何ですが、私は個人的に三
島を憎めないと同時に、嗤うだけでは済まない重大な問題を示唆していると感じるのです。
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