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(回答先: グローバリゼーションは福祉国家の終焉か?――ネグリ=ハート『帝国』への批判的評注 [加藤 哲郎氏] 投稿者 あっしら 日時 2002 年 2 月 18 日 23:00:46)
「近代を通じて、公共的財産を私有化しようとする絶え間ない動きが続いてきた。……自然的なものと考えられていた共同体的な所有は、公共的な支出によって最終的には私的な利潤のために機能するような、第2、第3の自然へと変容させられていった。第2の自然は、たとえば北米大陸西部の大河にダムをつくり、乾燥した谷を灌漑することによって創られ、そしてその新しい富は、農業経営の帝王たちへと手渡されていった。資本主義は、公共財を私的に再領有する絶え間ないサイクルを開始する。すなわちコモンズ[共有のもの]の徴用である。
20世紀における福祉国家の興隆と没落は、こうした公的・私的な領有の循環的進行における、いま1つのサイクルであった。福祉国家の危機が意味したものは、何よりも公的な資金によって構築されていた公的な補助と配分の構造が私有化され、私的な利益のために徴用されているということであった。エネルギーやコミュニケーションの民営化に向かう現在の新自由主義の傾向は、この危機の進行におけるさらなる契機である。これは公的資金の莫大な投入を通じてつくられたエネルギーとコミュニケーションのネットワークを、私的なビジネスに譲渡することである。市場体制と新自由主義は、これら第2の、第3の、n番目の自然の私的領有を生き延びるのだ。」(pp.300-301,邦訳386ー387頁)
私なりに意見を述べさせていただきます。
何も公共的所有物を指摘に私有することは近代の特徴ではなく、太古の時代からそれらがおこなわれていたということがいえます。そもそも不平等の始まりが公的所有物の私的所有であったわけですから。そして他者の労働の私有化こそが一番の問題です。
「自然的なものとして考えられていた公共所有物が公的資金を投入後乾燥した谷を灌漑することによって創られ、そしてその新しい富は、農業経営の帝王たちへと手渡されていった」
ここでは本来新しい富としての土地は、そこに人間の労働を持ってくることにより富を生むのであり、土地そのものが富を生むわけではありません。
私は人間社会をこのように見ております。
それは1万2千年ほど前、メソポタミア地方である人物が他者の労働を私有化するために、一つのウソをついた。ウソは時代と共に上塗りされ、ウソを覆い隠すためにより多くのウソをついていくことになる。そのウソが数多くの法律であり、数多くの金融論であり、数多くの経済学理論である。それは一つの新しい局面に遭遇するとそのものに対応するために新しい法律を作り出す。しかしその法律の抜け穴に遭遇すると、新たに新しい法律を作らなくてはならない。それは最初のウソにウソを重ねてきた結果であると考えます。
また福祉国家の終焉と考えるよりも、失業社会が作り出すもの、それは犯罪であり、取り締まるための警察国家ではないかと考えます。失業者に生活保護という福祉を与えているならば犯罪の発生は食い止められると考えますが。グロウバル化が福祉国家の終焉を作り出すのではなく。ロボット化、生産効率化による省力化が大量生産を招き、グロウバル化がいつまでたっても、価格破壊を招く、そしてデフレ現象はいつまでたっても終焉にならないという構図が考えられます。そこにもしインフレが起こるとしたならば通貨の新任を失うことぐらいではないかと思われますが。