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(回答先: ◆ 憲法が憲法として機能するための国民常識とは何か?(MIYADAI.com) 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 2 月 16 日 17:13:50)
◆ 事情変更を踏まえて憲法意思を貫徹しうる唯一の方法
■前回述べたことを一括すれば、憲法とは国民が国家を操縦する道具で、国家をどう操縦
するかという国民の意思こそが憲法意思だ。事情が変わって憲法意思にとって憲法が役立
たなくなったのなら、国民は憲法を改正せねばならぬ。
■この「せねばならぬ」もまた、さもないと憲法が憲法としての機能を果たせなくなると
いうこと。事情変更にもかかわらず「護憲」に固執するなら、事情変更前に憲法が果たし
ていた機能が既に失われたのに、失われた状態を放置する振舞いを意味してしまう。
■むろん第九条のことだ。私の立場は明確だ。まず憲法を改正し、集団的自衛権を明示的
に許容するものとした後、次に国家安全保障基本法を作り、何が集団的自衛権行使に相当
するかをマルチラテラルな枠組(安保理での多国間協議など)に委ねる。
■こうしておけば、国内外の恣意的要求によってクソがミソだと言いくるめられる可能性
を抑止できる。今般で言えば、米国に対し「多国間協議でイラク攻撃の正当性を調達すれ
ば自衛隊は出せるから、まず正当性を調達せよ」と堂々と影響力を行使できだはず。
■こうした私の主張は年来のものだが、本来ならオーソドックスなはずのこうした主張が
少数派に留まらざるを得ないところに日本の未熟さがある。確かに改憲論はあるが「交戦
権を認めた上、国民の義務を──愛国の義務を──明示せよ」といった幼稚園レベル。
■三島由紀夫によれば、愛国は国民の義務ではなく権利でなければならぬ。君が代を歌わ
ずともよいと制止しようと「私たちは歌います」と子供らがすっくと立ち上がるときにこ
そ愛国の本義は貫徹される。
■ゆえに愛国とは政治ではなく文化で、東側のごとき文化への政治介入は愛国文化を弱体
化させると彼は言う。ちなみに彼は文化の入替え不可能性を担保する装置が天皇だとした
が、天皇論を除けば彼の議論は今も多くの者が肯んじえよう。
■さて憲法的制約で自衛隊の海外派遣ができないことに憤死した三島由紀夫が生きていれ
ば、今般の自衛隊派遣を喜んだか。ありえない。市ヶ谷駐屯地での自決直前の演説にもあ
るが、三島は自衛隊が米軍(の附属物)に過ぎぬ事態に憤っていた。
■憤激を理解するには戦後史を知る必要がある。戦後しばらくは右から左まで「対米追従
ルサンチマン(怨恨・憎悪)」の克服こそが愛国の本義だった。米国からの再軍備要求に
抗うべく平和憲法を逆手にとって安保条約を締結した吉田茂も、本義に忠実だった。
■だが岸信介による手続無視の安保改定を契機に、安保は日帝による米帝追従の象徴と化
し、9条さえ掲げれば平和主義者だというエセ左翼が出て来る一方、9条改正で自衛隊を
出しさえすれば一人前だとの「憲法9条ルサンチマン」に駆られるエセ右翼も出て来た。
■大量破壊兵器問題に見るように、「米国が白だと言えば黒も白」というケツ舐め外交で
自衛隊を出すのが一人前か。ありえない。国際刑事裁判所設立の音頭を取っていた日本が、
米国の機嫌が悪いと見るや百八十度転換したのに引き続き、国際的には嘲笑の的だ。
■冷戦体制下だった三島の時代、国際協調路線とは対米追従と同義で、これに一国独自路
線が対向した。三島自身はむろん後者。だが冷戦体制の終焉で、国際協調路線とは、米国
の一人勝ち的な一国主義に対抗する各国の戦略的行動を意味するようになった。
■そのことが国際的には誰の目にも明らかなのに、米国の核の傘の下で「対米追従ルサン
チマン」を忘却のうえ「憲法9条ルサンチマン」の下でケツ舐め外交に甘んじる今般の日
本を、三島由紀夫が見たら、恥辱のあまりいま一度憤死せざるを得なかっただろう。
■「9条を守って自衛隊を出さなければ平和主義」はありえない。「9条を廃して自衛隊
を出しさえすれば一人前」もありえない。私たちが平和主義を憲法意思とすればこそ、冷
戦体制後の事情変更を踏まえ、憲法改正によってケツ舐め外交に終止符を打つべきだ。