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◆ 憲法が憲法として機能するための国民常識とは何か?
■米国の憲法学者ローレンス・レッシグは『コード』という本で、興味深いことを言う。
合衆国政府は、合衆国憲法修正十箇条を作った始祖の精神に立ち返り、国民の自由を守た
めに、民間企業によるネット上での収益活動を規制する義務を負わねばならない、と。
■これを読んだとき、その意味が分かる日本人がどれだけいるのだろうと思った。という
のは、右の命題を理解するには憲法とは何かについての基本的理解が必要なのだが、残念
ながら私たち日本人の多くは理解を欠いているからだ。では、必要な理解とは何か。
■第一に、憲法が統治権力への命令であること。詳しく言うと、(1)憲法が国民から統治権
力への命令で、(2)法律が統治権力から国民への命令で、(3)憲法が法律に優越するとは、
国民からの命令の範囲内でのみ統治権力は国民に命令しうるということだ。
■というと必ず出る疑問が義務教育(26条)や納税義務(30条)の規定。憲法をよく読む
べし。国民は法律の定めるところにより義務を負うとある。子供に教育を受けさせない国
民や税金を納めない国民を放置せぬように法律を作れと、国民が国家に命令しているのだ。
■もう一つ出るのが民法は国民への命令ではないとの疑問。それを言うなら全ての法律は
刑法を含め「〜したなら…と判断する」という条件プログラムの裁決規範(裁判所への命
令)。それが国民の行動へのガイダンス機能を持つがゆえに「国民への命令」と言うのだ。
■これでレッシグが「合衆国政府は憲法により義務を負う」と言う意味が分かった。次に
問題なのは「始祖の精神」。憲法に関わる立法意思、すなわち「憲法意思」だ。憲法は憲
法意思を参照して初めて意味を持つ。法律が原則として立法意思と関係ないのと対照的だ。
■盗聴法や個人情報保護法への広汎な異議申し立てがなされた際、政府は国会で「そうし
た意図(立法意思)はない」という答弁を繰り返したが、無意味だ。政府や国会が代替わ
りすれば、法律に書いてないこと(意図の類)が統治権力を制約することなどあり得ない。
■憲法は違う。憲法の文面によって国民がどんな意思を表明したのかが重要だ。その意味
は二つある。例えば政教分離の規定は各国憲法に似た文面で規定されるが、それによって
表明された国民の意思はまちまちで、ゆえに憲法解釈は国ごとに異なる。それが一つ。
■もう一つ、憲法は国際条約と同じく「事情変更の原則」が通用しない。民法などと違い、
事情が変わったので意思表明や合意が無効になった、ということがあり得ない。もしあり
得たら大変だ。統治権力が「事情が変わった」と表明しさえすれば、何でも出来てしまう。
■憲法においては「事情が変わった」かどうかを判断するのは国民で、そう判断したのな
ら国民が憲法(統治権力への命令)を変えねばならない。変えない限り憲法制定時に始祖
が意思した本義は永久に不変だ。国民は文面ではなく当初の本義を参照せねばならぬ。
■「せねばならぬ」とは、さもないと憲法は憲法としての機能を果たさないということだ。
「せねばならぬ」と憲法には書いてない。当然だ。憲法に何が書いてあろうとも、それが
憲法として機能するために国民が一定の憲法常識を持たねばならぬということなのだから。
■さて、私たちに憲法常識はあるか。例えば「憲法が国家への命令」であるのを知ってい
るか。もし知っていれば、衆参両院の憲法調査会でしばしば出る「日本国憲法には権利規
定ばかりで義務規定が少ないのはオカシイ」という幼稚園レベルの議論はありえない。
■「事情変更の原則」が通用しないのを知っているか。知っていれば、事情が変わったの
で当初吉田茂が認めなかった自衛権が認められるようになる、などあり得ない。かつて三
島由紀夫は憲法上自衛隊を海外派兵できない事実ゆえに憤死した。目的次第では海外派兵
できるとする小泉答弁を聞いた三島は、墓の中で椅子から転げ落ちていることだろう。
■とするなら、私たちは憲法を改正しなければならない。その意味を次回詳しく述べる。