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参考までに紹介 → スピノザ『政治論』をめぐって「善をなそうとする欲望だってある」【龍崎正史】
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/404.html
投稿者 荷電粒子 日時 2004 年 1 月 26 日 01:09:41:hlbym6ZH.OUDI
 

(回答先: Re:「山川草木悉皆成仏」 投稿者 荷電粒子 日時 2004 年 1 月 26 日 00:45:28)

マルチチュードの集団的運動が民主主義を創り出す

 先日のブント・ワークショップ2003スプリングでは、スピノザのコナトゥスについて学んだ(本紙第1111号2〜3面参照)。そこでの討論でコーディネーターの荒岱介さんが、「スピノザは君主制・貴族制・民主主義を比較して、民主主義が一番いいと言います。そのとき具体的な政治制度として、どんなものが可能かという問題がある」と問題を提起していた。『理戦64』で高橋順一さんはスピノザは代議制(リプレゼンテーション)を拒否していたと論じているが、現実の問題として代議制を持たない近代国家なんてありうるのだろうかと。
 こうした問題意識をひきつぎ、スピノザがめざした民主主義とはいったいどのようなものだったのかについて考えていきたい。
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一、未完のスピノザ民主制論
 二、君主制と結びついた社会契約論
 三、各人の自然権は委譲できない
 四、欲望を徳に変容させるピエタス

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▼ 一、 未完のスピノザ民主制論
 まずあらためて、今なぜスピノザなのかを押さえておこう。デカルト・カント・ヘーゲルに代表される近代哲学や社会思想においては、啓蒙的理性が普遍的真理の実現を目指すという考え方が主流を占めてきた。真理を体現する前衛が無知な大衆を指導するというマルクス・レーニン主義の前衛―大衆理論はその典型といっていい。それに対してスピノザは、そうした啓蒙主義的な考え方とは全く異なる発想から、人間のもつコナトゥス(自己保存力・自己保存欲求)を基軸に自らの哲学を構築しようとした。
 20世紀・共産主義革命の失敗が明らかになるに従い、ドゥルーズやネグリなどヨーロッパの現代思想家たちは、この異端の思想家スピノザに注目するようになっていく。「……でなければならない」という啓蒙的理性の専制に反対し、人間の感情や欲望を自然なものとして肯定するスピノザの哲学が、ソ連崩壊後の90年代の思想状況のなかで一躍脚光を浴びるようになったわけだ。
 ではスピノザは、具体的にどのような政治制度を構想したのだろうか。最晩年の著作『政治論』においてスピノザは、ある政治機構がどの政体に分類されるのかは、「統治権」がどこにあるかによって決まるとした。
 「統治権は、共同の意志に基づいて国事の配慮をなす者、すなわち法律を制定し、解釈し、廃止し、都市を防備し、戦争と平和とを決定するなどの配慮をなす者の手中に絶対的に握られる。そしてこの配慮が全民衆から成る会議体に属する時にその統治は民主政治と呼ばれる。また、その会議体が若干の選ばれた人々のみから成る時には貴族政治と呼ばれる。そして最後に、国事の配慮、したがって統治権が一人の手中にある時にそれは君主政治と呼ばれる」(岩波文庫『国家論』p29〜30。岩波文庫では『国家論』という表題がついているが、『政治論』と訳される場合のほうが多い。本文中では『政治論』と表記する)。
 君主制・貴族制・民主制という政体の分類カテゴリーは、西欧では古典ギリシャ時代から使用されていたもので、スピノザ特有のものではない。スピノザに特有なのは、この三つの政体形式のうち、民主政体こそ「絶対的統治形式」であると評価した点だ。
 ところが『政治論』は、民主政体を具体的に論じはじめるや否やスピノザの突然の死によって記述が途切れてしまう。第一節で他の二つの政体との相違。第二節・第三節では民主制政体への参加の諸条件の規定と厳格な参政権。第四節で参政権から女性が排除される理由の詳細が語られはじめたところで、突然「以下を欠く」と終わってしまうのだ。
 アントニオ・ネグリは、この未完のスピノザ民主制政体論について「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987年9月号掲載)で独自の解釈・改釈を行い、コナトゥス概念を基軸としたスピノザ―ネグリ民主制論を構想していく。

▼ 二、君主制と結びついた社会契約論
 ネグリは、スピノザの未完の民主制論を検討するにあたり二つの道筋が考えられるという。一つは、スピノザの他の著作、特に『神学・政治論』を精読することで未完のスピノザ民主制論を推察する道。二つめは、最晩年のスピノザ『政治論』はスピノザの思考の中でも遥かに成熟した時期のものであり、それ以前とは異質な哲学的企図を孕んでいる。そうである以上、文献学的な緻密さにおいてでなく、スピノザの形而上学の力動性から出発して自由に晩年の民主制論を推察する道であるという。
 ネグリは、『神学・政治論』と『政治論』の類似点ではなく相違点に注目し、後者の道を選ぶ。『神学・政治論』と『政治論』の重要な相違点とは何か。それは、「『神学・政治論』には残っていた社会契約論的視点の『政治論』における消滅」だとネグリは指摘する(「以下ヲ欠ク」p126)。
 社会契約説は、17〜18世紀、市民革命期の欧米で有力となった政治理論だ。ホッブス、ロック、ルソーに代表され、自由・平等・独立の個人からなる「自然状態」の存在を前提に、各人が社会的な契約(合意)を結ぶことで政治社会が成立するという理論構成をとる。
 このような社会契約論は、スピノザの生きた17世紀において広く受容され、社会・政治理論においては当り前の事実として認められていた。ところがスピノザの『政治論』には、社会契約論的視点は存在しない。ネグリはこの事実に注目しつつ、次のように言う。
 「17世紀において提出された契約論は、人間の結びつきや市民社会の構成を説明するために産み出された理論などではなく、当時露呈されつつあった政治機構体、市民社会と国家権力との間の軋轢の中で、市民社会から国家権力の委譲を正当化する為の理論として産み出された」「つまり、国家権力の法的正当性を概念として提示するために露骨な社会学的虚構として要請されたという事実である」(同前p127)
 ネグリは、契約論は君主制政体と結びついて産み出された理論だと批判を続ける。確かにスピノザの同世代人であるホッブスの『リヴァイアサン』は、絶対王政の正当化の理論として流布された。
 「契約論は何よりもこの体制(君主制政体)に結びついて産み出されたものである。君主政の概念は共和政の概念に対立する」「契約に基づいた権力の国家への委譲という理論、委譲に基づく権力主体の形成という理論からは君主政的な統治形式の多様な形が産み出され得る。すなわち、いわゆる君主政的君主政、貴族政的君主政、さらに民主政的君主政といったものまでもがその統治形式の範疇に入るのである」(同前p127)
 中世ヨーロッパにおいて契約論的権力委譲に対抗した思想として、ネグリは人文主義・ルネサンス文化に属する共和政的ラディカリズムの伝統(その代表者はマキャベリ)とカルヴァン主義的な民主政的伝統に由来する流れ(その代表者はアルトゥジウス)の二つを上げ、『政治論』において契約論的視点を消滅させたスピノザもこの流れの中に位置づける。そして「契約論的地平の外で、スピノザの『政治論』の民主制政体の概念が如何なるものであり得るかを推察すること」(p129)、これが次の課題であるとする。

▼ 三、各人の自然権は委譲できない
 ホッブスの社会契約論は、各個人は絶対的な自然権をもつという想定から出発する。各個人がこの自然権を行使する自然状態では、「万人の万人にたいする戦争状態」が生まれてしまう。このような世の中では人は生きていけない。それゆえ人々は、各人の自然権を契約によって委譲する権力主体を成立させ、この権力主体の力によって「万人の万人にたいする戦争状態」を回避しようとする。
 スピノザも、社会契約論の出発点である各個人の自然権については認める。「私はこうして自然権〔自然法〕を、万物を生起させる自然の法則あるいは諸規則そのものと解する。言いかえれば、自然の力そのものと解する。この結果として、全自然の、したがってまた、各個物の自然権は、その物の力が及ぶ所まで及ぶ」(『国家論』p19)
 ただしスピノザは、社会契約論におけるような自然権=主権の委譲は認めない。スピノザが自然権の委譲に反対するのは、契約論が君主制と結合する思想であるからだけではない。スピノザにとって、自然権とは各人に宿る「絶対に自由な神の力」であり、そもそも委譲することなどできない類のものだからだ。スピノザは、「もろもろの自然物を存在させかつ活動させる力は神の力そのもの」(同前p18)であり、神の力は「絶対に自由」(同前p18)なものであると考える。全ての自然物は実体たる神の様態であるとするスピノザにあっては、人間だけでなく全自然物が自然権をもつことになる。スピノザが汎神論者と呼ばれるゆえんだ。
 ではこの自然権はどのように保障されていくのか。スピノザもホッブスと同じく、自然権をもつ各自がそれぞれにその権利を行使しようとすれば戦争状態に陥ると考えた。スピノザは、「人間は本性上敵である」とまで述べている。だが自然状態=戦争状態では、結局のところその自然権を十分に行使することはできない。「自然状態においては……各人単独ではすべての人々の圧迫から身を防ぐことが困難なのであるから、この帰結として、人間の自然権は、それが単に各人きりのものでありそして各人の力によって決定されている間は無に等しく、現実においてよりもむしろ空想において存在するにすぎないということになる」(同前p28)
 自然状態においては無である自然権が現実のものとなるためには、人々は争いをやめ共同をはじめなければならない。「以上から我々はこう結論する。人類に固有なものとしての自然権は、人間が共同な権利を持ち、住みかつ耕しうる土地をともどもに確保し、自己を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意志に従って生活しうる場所においてのみ、考えられるのである、と。……ますます多くの人々がこういう仕方で一体に結合するに従って、ますます多くの権利をすべての人々はともども持つようになるからである。それでもしスコラ学者たちが、人間は自然状態においてはほとんど自己の権利のもとにありえないという理由から人間を社会的動物と名づけようとしたのだとすれば、私は彼らに反対するべきものは何も持たないのである」(同前p28〜29)
 スピノザにおいても人々は自然状態=戦争状態から脱し、共同・協働する道を選択する。だがスピノザの場合、社会契約論とは違って人々はいかなる意味でも各々の自然権=主権を他者に委譲しない。各人はそれぞれの自然権、絶対的な自由(つまりコナトゥス)を維持し続ける。ネグリは次のように言う。「スピノザの民主制政体は如何なる意味でも、立憲民主政、つまり、諸権力の分立と相互抑止の弁証法に基づく統治形式として提示されることはないだろう」(「以下ヲ欠ク」p133)。「絶対的統治なるものが存在するとしたら、それは実際においては民衆全体によって行われる統治でなければならぬ」。「まさにその時、全ての底に置かれ、自然状態として抑えられて来た社会的潜在力の全てがそれ本来の運動性の中に捉えられることになる」(同前p134)と。
 このような統治形態としてすぐにイメージできるのはポリス的な直接民主主義やあらゆる統治を拒否するアナーキズムであろう。ところがその一方でネグリは、「構成化、統治機能、リプリゼンタティヴ、等々のあらゆる政治的機能はここから排除されはしない」(同前p134)とも論じている。ここではネグリは統治機能や代議制を認めているように読める。一見矛盾する二つのことを述べながら、ネグリは以下のようにまとめる。
 「絶対的統治形式としての民主制政体において諸力能の本性を明示し、自然的社会といわゆる政治的社会とのダイナミスムを定義するのはそれぞれが絶対的な力能としての主体からなる集団的運動そのものに他ならないのである」(同前p134)
 ネグリ特有の抽象的な文章だが、「絶対的な力能としての主体からなる集団的運動」が民主制論のキーワードとして登場してくる。この集団的運動の主体こそ、「民衆(multitudo)」だ(「以下ヲ欠ク」論文では、「マルチチュード」を「群衆―多数性」と訳出している)。

▼ 四、欲望を徳に変容させるピエタス
 ネグリは、マルチチュードの「集団的運動」には一つのパラドックスが存在するという。それはマルチチュードが、「物理的な自然性、多数性、曖昧さ」という性格を持つと同時に、「諸権利や政体を産み出してゆく主体的かつ法制的な性質」も持っているからだ(同前p138)。マルチチュードは、前者の運動では絶えず主体の多数性へと分散し続けるが、後者においては政治的統合へと集中していこうとする。
 すでに例示したスピノザの自然状態から国家状態へ至る道筋においても、分散と統合の問題はその一端が表れていた。人々は自然状態では各主体に分散している。だがその結果は戦争状態であり、各人の自然権は全く保障されない。互いに自然権を保障しあうためには、共同と統合の道を進むしかない。その場合、より多くの人々が共同・統合すればするほど各主体に保障される自然権はより大きくなる。
 だがいくら人々が共同・結合を拡大していったとしても、各々の主体の差異性や「絶対の自由」という「分散性」がなくなってしまうわけではない。それが他者に委譲されてしまえば、社会契約論と同様の「君主制」になってしまう。こうした分散と統合というパラドックスをいかに解決していくのか。ネグリはそこにスピノザの政治理論の大きな特徴を読みとる。
 「スピノザの政治理論は、かけ値なしのコペルニクス的転回なのだ。そこでは無限とは群衆―多数性であり、運動の持続は群衆―多数性の力能である。そしてその無限―運動は全体性を形成し、しかも、ただそれは絶えざる転移においてのみ全体性に同化するだけであり、つまりは決して閉じず開き続け、生産し、再生産し続ける。これは唯一の原理が(従って必然的に疎外―委譲を産み出す原理が)もっともらしく世界を統合する、そんなプトオマイオス的な神学的概念構成とは全く別のものである」(同前p138)
 ネグリの言うとおり、「唯一の原理がもっともらしく世界を統合する」なんてことはありえない。そこからネグリは、理念から離れ現実を問題とするべきだと提起する。「政治は行動の世界」であり、民主制政体は客観的な研究対象ではなく、私たち一人一人が主体的に関わるべき運動(活動)なのだと。ネグリは問う。「(私たちは)自身の関わる世界の非決定性を知りながら、なお行動しなければならない」。「どのように? 如何なる方法、如何なる視点、如何なるプロジェクトに従って?」(p143)
 ここでネグリがスピノザから用意する答えは、「ピエタス」だ(日本語訳では「道義心」「敬虔」、フランス語訳では一般に「モラリテ」と訳される)。ピエタスとは何か。ネグリは『エチカ』によりながら次のように説明する。それは、「『我々が理性の導きに従って生活することから生じる、善をなそうとする欲望』である。理性に従って倫理的に行動すること、すなわち、『ピエタス』とはここでは、誠実性に、つまりは自身、そして他の人々に対して、人間的に、配慮をもって、常にかわることなく、接することへと広がっているのである」(同前p144)
 マルチチュードは、分散と統合という解決不能の二つの運動をそのうちに孕むがゆえに、共棲、相互寛容、連帯、自覚の尊重、各自の自由などのピエタスを各主体が持たないことには「集団的運動(活動)」をつくりだしていくことができない。ピエタスなしではマルチチュードは、バラバラな個人に分散していってしまう。
 契約論を排除したスピノザ『政治論』においては、ピエタスが契約の欠如を埋め合わせる役割を担う。ピエタスは欲望を徳へと変容させ、友愛と愛の多数多様な増殖を導く。ピエタスは、「群衆―多数性のアニマ、つまり全てを息づかせ運動するものへと変容させる、言葉本来の意味での魂animaに他ならない」。「『群衆―多数性』とピエタスとが目指し出会う臨界、これが社会実践そのものとしての民主制政体である」(同前p147)と。
 ネグリは、スピノザのいう「絶対的統治形態たる民主制政体」とは、マルチチュードがつくりだす具体的な集団的運動(活動)を意味すると結論する。「有り得べき民主制政体とは絶対的関係からなる完全な反ユートピアに他ならない。つまりは民主制政体とはたどたどしく進行する方法≠サのものに他ならない」(同前p150)と。
 あるべき民主制政体といった絶対的形態など存在しない。「たどたどしく」とも現実の矛盾を具体的に解決するべく社会変革的な実践を続けること。スピノザ―ネグリの民主主義論はそう私たちに呼びかけている。

[2003-7-5]

http://www.bund.org/opinion/1115-5.htm

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