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ヘレン・ミアーズ著 『アメリカの鏡・日本』 --- 大東亜戦争は植民地解放と人種差別撤廃に貢献した。
2004年1月24日 土曜日
◆誰のための共栄圏か
対日関係で、私たちはあまりにもアジアの視点を無視してきた。一九四三年十二月一日、カイロでチャーチル英首相とルーズベルト米大統領が、日本を「懲罰、拘束」し、彼らが「暴力と貧欲」によって奪った領土をすべて取り上げる決意を明らかにしたとき、米国国民は正義と民主主義の行動として歓迎した。しかし、イギリス、フランス、オランダ(そのどの国も自分たちの植民地に対しては独立を約束していなかった)の植民地には、カイロは閉ざされていた。英領香港の中国への返還については、ひと言もなかった。
当時の現実状況から、アジアの政治活動家たちが対日カイロ宣言を解釈するなら、日本の罪状は、彼らが植民地住民に対して暴虐を振るったことではなく、日本の暴虐が、同じような暴虐でヨーロッパ諸国が確立した植民地体制の現状を揺さぶったことなのだ。
第二次世界大戦中、アメリカと日本は法的擬制の応酬をする不幸な癖に災いされていた。私たちは「世界を征服し奴隷化する」野望に燃えた軍国主義的侵略者、日本の姿にとらわれすぎ、日本が「白人ブロック」の「奴隷体制」から太平洋地域と「アジアを解放する」というスローガンの下に、日華事変と第二次世界大戦を戦っていることを見ようとしなかった。
仮に見たとしても、このス ローガンは私たちにとって法的擬制だった。しかし、私たちの法的擬制より、日本の見せかけを信用したアジア人はかなりいる。一九一三年の満州から一九四一年のインド国境まで、日本が破竹の勢いで進出できたのは、アジア・太平洋諸国をヨーロッパの政治・経済的支配から解放するという大アジア建設計画(大東亜共栄圏)のダイナミックな革命的魅力に負うところが大きい。
アジア.太平洋地域の植民地には、もともと経済的支配からの政治的独立と自由への渇望がくすぷっていた。日本のプロパガンダと指導は、それに火を点けたにすぎない。初めのころ、若干の例外はあったが(フィリピンはその一つ)、アジアと英仏蘭領植民地で日本が勝てたのは、現地協カ者の活動があったからだ。開戦当初の日本は、ほとんど銃火を交えないで戦果を収めている。ヨーロッパのアジア「領有者」たちは、日本軍から逃げたのではなく、現地住民の敵意から逃げたのだ。私たちが「解放」戦争と呼んでいたものは、実はヨーロッパによるアジアの再征服(恥ずかしいことに、アメリカが手を貸した)だったのである。
ルーズベルト大統領は一九四四年八月十二日の声明で、アジアの民衆は日本の奴隷になることを望んでいないといった。まったくそのとおりだ。しかし、歴史的にみてアジアの民衆を「奴隷にしていた」のは日本ではなく、私たちが同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国であることを、ルーズペルトはいわないのだ。
日本は当然のことながら、アジアの人々に対して、アジアあるいは太平洋地域の領土を併合したり、支配しようという意図あるいは希望は毛頭もっていないと繰り返し宣伝していた。日本はただアジアをヨーロツパの支配から自由にしたいだけである(アメリカが南アメリカをヨーロツパの侵入から守っているように)。そして、アジアの民がたがいに協力して自分たちの資源と文明を発展させることができるようにしたいのだ、というのが日本の主張だった。
日本の主張によれば、アジアでの日本の役割は単に指導者と守護者にすぎない。アジア・太平洋地域の民衆がヨーロッパとアメリカから「解放」された暁には、日本はアメリカが南アメリカとの間にもっているのと同じ関係を、彼らとの間でもつことになるだろう(と日本はいうのだった)。
アジアを「解放」したいという日本の願いは「聡明な利已主義」すなわち法的擬制から出たものであり、したがって、結局はその実現方法は野蛮であるという前提に立つにせよ、日本がその擬制を信用させるために、アメリカと同じところまで、そしてヨーロッパ友邦よりははるか先まで、行っていたことを認める必要がある。
日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。一九三五年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、一九四〇年には中国に正式に約束し、一九四三年には中国政府に租借地を返している。大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
たとえぱ、フィリピンは一九四三年十月十四日に「独立」を獲得している。これは私たちが二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。ビルマは一九四三年八月一日に「独立」した。マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。マレーではインドの代表的指導者、ボースが率いる自由インド亡命政府が樹立された。ボースはイギリスに宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍とともにインドヘ進撃しようとしていた。今日、インドの代表的指導者の中には、イギリスの政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」インド軍、そして日本軍だったという人もいる。
こうして各地で独立を宣言した植民地政権を、私たちは法的擬制と呼んでいる。私たちは現地政府を塊偲と呼んでいる。しかし、フィリピンを例外として、これらの政府に参画した現地の人々が、戦争の最中でさえ、過去のどこの同じような現地政権より権威をもっていたことは事実である。
日本の初期段階の勝利から、再ぴ戦争の潮が押し寄せてくるまでの比較的平和な期間、日本の「保護」のもとに樹立された現地政権は、かなりの安寧秩序を達成していたようである。もちろん、正確な資料を得るのはむずかしい。日本側の報告(定期刊行物「現代の日本」に掲載されるような)は結構なことをいっているが、もちろん全部は信用できない。
たとえば、戦争中に「独立した」ビルマは急成長する国として紹介されている。独立から一年間で、十二ヵ国一フィリピン、中国南京政府、満州国、ドイツ、その他の枢軸国を含む一がビルマ政府を承認した。ビルマ政府は、まず土地を農民に配分することから計画に着手した。
ビルマ国立銀行、物資統制委員会を設立し、経済を安定化させ、戦争が国民に与える影響を最小限にとどめようとした。これらの計画は日本人の利益のために、日本人によって促進一指導)されていた。しかし、これは現地の人々にとっても大事なことだった。彼らの独立が法的擬制であったにしても、かつての植民地としての地位を超える一歩だった。
支配の焦点はヨーロッパからアジアに移っていた。日本がこれらの現地政権を支配していると想定しても(仮に日本が戦争に勝っても、ありそうにない想定〉比較的弱いアジアの国日本は、アジアの視点でみれば、世界で最強の工業国家群である「白人ブロック」ほど「怖く」ないのだ。
もしヨーロッパ諸国とアメリカがアジアの植民地に戦争をもち込まなかったら、現地独立政権は彼らの共栄圏発展のために、喜んで日本に協力しただろう。そう考えられる証拠は十分ある。一九四三年十一月、大東亜「解放」諸国会議が開かれ、「共同宣言」を採択した。日本のジャーナリズムが「大西洋憲章」になぞらえて「太平洋憲章」と呼んだものである。太平洋憲章によれば、大東亜共栄圏の目的は西洋の支配から自由を勝ちとり、世界の平和と繁栄のため、文化、経済の両面での発展を図るというものだった。
ある日本の記者はこう説明している。「これまでの統治者が搾取を目的としてこれらの諸国に押しつけた植民地的、半植民地的経済構造は排除されるだろう。そして、遠隔地の領主のために働くのではなく、住民の幸福を図る経済システムに置き換えられるのである」。
太平洋憲章はこういう。「大東亜諸国は世界の国々との友好関係を培い、人種差別撤廃と文化交流の促進を図り、資源を広く世界の利用に供するために、ともに努力し、人類の進歩に貢献するものである」。
私たちは、戦争中日本に協カした現地政権はすべて傀儡であると、いとも簡単にきめつけてきた。確かに自己利益のために、日本に協カしたものもいた。しかし、当初、現地住民が日本のプロパガンダと計画に熱烈に応えたのは、法的擬制の「自由アジア」というスローガンを現実のものとして考えたかったからだろう。
日本に協カしたのは、ほとんどの場合、それぞれの国を代表する人たちだった。彼らは(ナチスの協力者とは違って)、対日協力の動機は純粋に愛国心であると胸を張っていえた。なぜなら、戦争は日本と現地政府の間ではなく、日本とヨーロッパの異民族支配者の問で戦われていたからである。
フィリピンに関しては、私たちの運営は他の植民地にくらべてはるかに優れた記録を残しているが、アメリカがすでに自由を約束していたそのフィリピンでさえ、単なる傀儡的人物として切って捨てることのできない人々の中に、日本は協力者を得ていたのだ。たとえば、ケソン大統領の閣僚だったヨルヘ・バルガスである。彼は大統領がアメリカに亡命する前にマニラ市長に任命された人物だが、一九四四年十月十四日、フィリピン独立一周年を祝うために、フィリピン共和国から大使として東京に送られている。バルガス大使はこの記念式典で次のように演説した。
しかし、大日本帝国は軍政を最終的に撤廃し、フィリピン共和国の独立を承認するというこのうえない形で、その高邁な精神と理念を証明した。帝国はそのすべての誓約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。……大東亜において……日本帝国は、あまりにも激しく、あまりにも不当に圧政暴虐の侵略者として非難されているが、その寛容と自由の実践は世界も驚くであろう。日本は帝国ではあったが、一つの共和国を認め、まさにその樹立に参画した。
「解放」を戦争政策のテクニックとする「解放者」に贈られた賛辞としては、これは確かに誇大である。しかし、この声明と、一九四三年十月十四日、フィリピン共和国設立のさい「フィリピン国民は苦悩と破壊をもたらす軍事行動を、二度と私たちの地で繰り返してほしくない」とアメリカに訴えた声明を読むと、もしフィリピン国民が選択できたら、自分たちの国内で二回の戦闘を繰り返してまで、二回も「解放される」ことは選ばなかったのではないか、と思わざるをえない。そして、アメリカの指導者にはもっと穏やかな解決方法があったのではないか、と思うのである。
二度「解放された」フィリピンは、今日、私たちの「安全保障体制」に組み込まれ、そこには九十九年間の駐留権をもつ米軍基地がある。フィリピン国内に強い反対があったが、アメリカに通商特権などの特殊権益を与えるために新憲法が修正された。その見返りに、フィリピンがアメリカでの特権を与えられたわけではない。ロハス大統領は憲法修正の国民投票にさいし、この修正案に反対しないよう呼びかけ、もしこれを拒否すれば、「アメリカが戦争中の損害賠償に応じない」だけでなく、さまざまな不都合が生じるだろうと警告した。
フィリピンに対する私たちの通商政策は、対日戦争でアメリカに協力した多くのフィリピン指導者たちからも激しく批判された。フィリピンの戦前の状況はけっして望ましいものではなかった。国はまだ農業が中心だった。フィリピンのジャーナリストの言葉を借りるなら「一九四〇年の今でも、大半のフィリピン人は封建的慣行を土台にした農業制度の下で生活していた。いまだに何百万もの農民が農奴と変わらない状態で土地に縛りつけられている」のである。
土地は豊かだが、かなりの面積が未開発のままだ。戦前の日本人はさまざまの規制を設けてはいたが、新しい農産物を実験したり、土地の生産性を高めて、農業専門家として役立つことを証明してみせた。私たちの関心はもっぱら通商だった。私たちは対外貿易をほとんど独占的に支配していた。
現在日本人は完全に島から去った。戦争の最終段階で生まれた日本人に対する憎悪の念は、何年にもわたって残るに違いない。日本人の移住を禁じるアメリカの措置が解除されても、この憎悪があるうちは日本人がもどってくるのはむずかしいだろう。しかし、アメリカが米比両国民全体の権利の上にアメリカの少数グループの特権を置きつづけるなら、アメリカは期待しているほどの評価は得られないだろう。
アジア・太平洋地域の植民地問題は、政治的より経済的なのだ。植民地体制の最もよくないところは、工業先進国である本国が植民地への投資と貿易を管理し、植民地経済を本国経済の従属物として発展させたことである。もちろん、日本も植民地で同じことをした。しかし、日本とアジアの関係においては、日本の生活水準がアジアのほかの地域をそれほど上回っていないために、日本は現地住民が購入可能な価格で物をつくることができた。
しかも、数ヵ国(イギリス、フランス、オランダ、アメリカ)による所有体制は、アジアの地域をそれぞれ隔絶した区域に分割したために、移住、貿易、文化交流の自由が妨げられていた。ヨーロッパ諸国が去っても、アジアは自分たちの問題を自分たち同士で解決できないだろうと考えられている。しかし、自分たちで解決できると信じる行動的グループが増えていることも事実である。
アジア・太平洋地域の人々が自分たちの資源を管理する地域機構として大東亜共栄圏を構想したことは、それなりの意味をもっている。戦争中でさえ、日本は一つの路線を敷いた。それは、アジアの現地住民がヨーロッパの経済的、政治的支配から脱却する努力をつづけていく中で進展するはずだった。この点に関して、日本の仏印計画について論じた二人のアメリカ人研究者の意見が、きわめて示唆に富んでいる。彼らはフランスのインドシナ経営は貿易と投資の両面で「ほとんど独占的」だったとして、次のように書いている。
このような効果的障壁が隣接地域との問の貿易ルートに築かれていたために、インドシナは太平洋の地域経済に自らの場を占めることができなかった。……したがって、膨張する日本の勢力圏に組み込まれたインドシナは、一時的には、少なくともインドシナ経済と大東亜の他の地域経済を調和させる役割は果たすことだろう。日本の目的がまったく利已的であり、たまたまインドシナ経済を発展させたにすぎないにしても、彼らが推進する開発の中には、継続的に利点をもたらしそうなものもある。:…・日本の占領目的と手段を容認するものではないが、少なくとも、その結果として、産業展望を広げ、寡占体制をある程度破ったという面もある。
すべての国が、法的擬制は敵だけでなく自分たちももっていることを認める必要がある。東アジアの現地住民が信託統治、あるいは非自治地域、あるいは戦略地域の名目で欧米の行政管理下に入るほうが、植民地や委任統治領の行政のもとにいるより好ましいと考えているとは思えない。この地域の人々にしてみれば、戦争は単にアジア人支配者を追放したにすぎない。そして、英語圏がその足場を固め、アジアに近づいたというだけのことなのだ。
国際社会におけるオーストラリアとニュージーランドの地位がとくに重要な意味をもっている。この両国は、英語圏がともすればアジアの関係を不安定にする法的擬制の一形態である。オーストラリアの総人口は東京の戦前の人口と同じである。それでも、人口七百万程度のオーストラリアと四百万足らずのニュージーランドが極東委員会に大きな発言力(アジアのどの国よりも権威ある)をもっている。オーストラリアとニュージーランドそれ自体が重要であると、誰が考えるだろうか。
アジア人から見れば、両国は英語圏の前哨基地である。八百万人に満たない国が八千万人を超える日本の上に権力的地位をもつ。彼らは太平洋の島とその住民の上に「信託統治」を要求し、手にすることができる。オーストラリアは人口まばらな大陸にアジア人が移住することを拒否する一方で、アメリカ人とイギリス人には移住を懇請している。日本人は小さな島にいままでよりもっと窮屈に密集している。
何世紀もの間、アジア・太平洋地域はヨーロッパの、そして若干はアメリカの、共栄圏だった。この状況を変えようとした日本の手段は、利己的であり、最後には野蛮だった。しかし、問題は現存している。この問題は法的擬制では解決できないだろう。(P367−P376)
著者(ヘレン・ミアーズ)紹介
1900年生まれ。1920年から日米が開戦する前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本社会について講義していた。1946年に連合国最高司令官総司令部の諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定にたずさわった。1948年「アメリカの鏡・日本」を著す。1989年89歳で没した。
ヘレン・ミアーズ著 『アメリカの鏡・日本』
(私のコメント)
ヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡日本』は2001年10月19日の株式日記でも紹介しましたが、当時は百名足らずの読者しかいなかったので再び紹介します。欧米の歴史学者が大東亜戦争をどのように分析しているかを知るためには、『アメリカの鏡・日本』と言う本は参考になる。同月28日にも「米英の番犬だった日本は韓国を解放した」と題して以下のように書きました。
(少し引用が長くなりましたが、当時の国際的観点から見ても、イギリスに上手く利用されて日本は韓国を併合した。韓国の軍事的空白はロシアの進出の危険性があったからだ。日露戦争に勝てたのもイギリスのおかげだ。イギリスの情報力が勝利の決め手になった。しかし日本の軍部は調子に乗りすぎ日本は軍事大国への妄想を抱き破滅への道をたどった。
現在の極東情勢も当時となんら変わりがない。イギリスがアメリカに代わっただけのことである。韓国や台湾が中国の支配下に入ろうとしている現在、日本は再びアメリカの番犬として、中国と戦争をするようにアメリカはけしかけてくるだろう。だから集団的自衛権の問題を中国は監視しているのだ。)
この「アメリカの鏡・日本」は1948年にアメリカで出版されましたが、当時のマッカーサー司令官は日本での出版を禁止した。当時のGHQは厳しい検閲体制をひいており、アメリカに不利益になるものは公共の安全を脅かすとして禁止したのだ。当時のアメリカにおいても日本を養護するものとして批判されました。しかしながらヘレン・ミアーズ女史が警告していたようにアメリカは帝国としての道を歩み始め、日本と同じ過ちを犯そうとしている。
本書は大東亜戦争への評価ばかりでなく、日本の戦国時代までさかのぼり、カソリックとプロテスタントが日本をめぐって勢力争いをしていたことまでも指摘しており、秀吉と彼の後継者についての指摘も鋭いものがある。最近になって日本の歴史学者も信長はカソリックの援助によって覇権を握ったのではないかと言った本が出ているが、ヘレン・ミアーズは当時のカソリックは狂信的であったと指摘している。
その他にもサムライに対する評価や、明治維新におけるイギリスが果たした役割においても、明治の元勲達が単なるイギリスの操り人形的な役割をしていた。このように信長、秀吉、家康から明治の元勲に到るまで日本の歴史の大きな転換点にはスペイン・ポルトガルや米英などの海外勢力が大きな役割を果たしていた事を世界史的な視点で指摘している。
司馬遼太郎氏は「アメリカの鏡・日本」は読んではいなかった。司馬氏は信長、秀吉と言った戦国の英雄や、明治維新における志士達をあまりにも過大評価しているのではないかということに私は気がついた。もちろん司馬氏の小説にも彼らと外国人との交流は描かれているが、それが日本の英雄達にどれほどの影響を与えたかについては過小評価している。もし司馬氏が小説を書く前にヘレン・ミアーズの本を読んでいれば、彼らの描き方も変わっていただろう。
もちろんこの構造は現代でも変わることがなく、小泉純一郎や小沢一郎といった日本の政局のキーマンには絶えず外国からの太いパイプがちらついて見える。日本の歴史は絶えず外圧によってしか変革を遂げることは出来ず、それを防ごうと思ったら家康のように鎖国政策をとるしか道はない。なぜそのようになってしまうのかと言うとヘレンミアーズはつぎのように指摘している。
日本人と政治の話しをしていると、彼らがプロパガンダを心から信じていることが分かった。しかも、私が話した全ての人が同じ考えを持っていることを知って愕然とした。日本人の頭に詰まっているのは脳ではなく、同じレコードを繰り返す蓄音機だった。日本の指導部は本気で満州と華北を侵略するつもりなのだ。根拠のない非難と、事実を捻じ曲げたプロパガンダで国民を脅かし、ついてこさせようとしているのだ。私はごく自然にそう思った。日本人は実に影響されやすい民族で指導者が決めたことなら何でも黙って従うが、アメリカ国民は違う。その時はそう思っていたのだ。(P20)
日本人の頭は脳ではなく蓄音機が入っていることは私も同感だ。政治経済を論じているBBSなどを見てもニュースのコピーばかりだ。自分の意見を書き込んだものは実に少ない。それだけ政治や経済のことを自分の頭で考える能力を養ってはいない。私が学生時代やサラリーマン時代に私の意見をいうと、周りの人間は私を変人扱いした。多くの日本人にとっては学校の先生や会社の上司の言うことを、テープレコーダーのように同じ事を言う人間が常識的人間とされる。つまり自分の頭で考える人間を変人扱いすることによって共同社会から葬り去ってしまうのだ。