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天文館企画公演「ちはやふる」感想
1993/2/14江ノ島天文館
作/演出 小松杏里
塚原勝美
これまで私は砂の演劇を過去に2回ほど観たことがある。1981年か1982
年に。ひとつは別役実/作の「赤い鳥のいる風景」であった。本多演劇研究所公演
・で演出は松原犀火による、下北沢ザ・スズナリを砂場に転換し小学校のジヤング
ルジムへと転化した舞台装置であった。観客席は前と後ろに、わずかばかり設定さ
れて、役者は当然にも砂場で演じ、それを向こうとこちらの観客の知覚の欲望がさ
らす。砂の感触は観客と役者に根源的なあるなつかしさを呼び出す。その実験劇の
前で私は演劇の想像力とはいかなる空間にも転換する行為にあるのだな、とショッ
クを受けた。幼児体験として誰もが砂場で遊んだ感触は、やがて社会関係の激突を
経験し、身体と精神の亀裂に砂が降臨する感触へと移動していくのである。
もうひとつは連合赤軍事件を題材にした「転位・21」公演の「砂の女」であっ
た。山崎哲/作/演出による。これもザ・スズナリが劇場であったが。
それはある時代の内省のエネルギーと外への直接性と街頭の激突が、中国・周恩来
による日本に対する戦争賠償無条件放棄に規定され、日本の市民社会が戦争犯罪の
重から、気分的にときはなされ、消費社会の成熟に向かっていく全体に、スケープ
ゴー トとして、排除され日本近代史の罪を一身に背負わされた反抗者のわが解体
であった。
排除され解体されていく者は、身体と精神が摩滅する砂へとつぶされていく。
こうして全体の矛盾はつねに排除される反抗者に背負わされたきたのが、徳川家
康から誕生した日本における近代合理主義の経緯である。ある思考は世界同時性と
して表出するのが場所としての世界史である。徳川家康は日本のデカルトだった。
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ああやはり転びバテレンは年老いて告白せりと続編にある
雪晴れて格子の雫星のごと輝きくるる吾に一瞬
坂口 弘 朝日新聞歌壇入選作
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山崎哲・作/演出「砂の女」のラスト・シーンは、全国指名手配として逃亡して
いた女が、警察官によって逮捕され、そのとき、一条の砂が天から降臨してくる
のであった。舞台は砂ぼこりにおおわれ、完成した美の照明は落ちて闇となる演劇。
砂はコンクリートの第一素材である。そのようにテキスト存在は、ある悪意をもっ
て制度管理する神話の権威者と政策執行人たちによって、埋められてきた。そして
近代日本史の総括はつねに、コンクリートの獄中の閉ざされた空間で起動する。
在る意味でもはや日本語は獄中者たちによってしか生命を保守できないのかも、知
れない。市民社会の日本語はすでに仮想現実としての数の言語に変貌していると。
それはアンドロイドの日本語である。三どめに観た砂の演劇「ちはやふる」は
言葉を奪還する、人間と神話そこから、「おれたちの言葉」「おれたちの世界」を
つくりあげることが、可能なのか?それとも不可能なのか?をめぐる実験劇であっ
た。
マクロ経済においては日産座間工場が2年後に工場閉鎖をすると言う。それに
対して、経団連の労務担当である労働組合はなんの反発もできないでいる。もはや
反対勢力など壊滅しているかのような気分こそ、現在なのである。そしてわれわれ
は世界最大の1300億ドルの貿易黒字収益金がいったいどこに、流れているの
かも知らない。
われわれは明治官僚による近代日本語の制度としての当用語以来、標準語を日常
的に使用してきたが、天上の言語は庶民には隠された記号言語によって成立してき
たことに無自覚であった。いまなお表層の上部機構でなにが起動しているか、さっ
ぱりわからない庶民である。つまり日本の高度情報化社会とは神秘的部族社会で
あり、上部機構では上代語は話されているのである。その支配者の記号言語は庶民
には、理解できず、永遠に隠されていくだろう。
統制言語としての標準語が国民言語として制度化されたことは、政治言語として
の意味をもった。方言もある意味で、徳川幕府のスパイ・よそものをすぐさま発見
できるように制度化された政治言語だったのである。江戸がきわめて政治政策とし
て人口的につくられたように、地方言語もかなり目的意志的に生成していった政治
言語だったのである。日本の自然感とはあらかじめ人為の加工が前提にある自然感
なのである。われわれは人為ととしての加工によってつくられた内容を、いつのま
にか、自然生成として思いこんでしまうように訓練されているアンドロイドである。
明治の文学青年たちは血を吐きながら、口語体文体の建設に刻苦奮闘してきた。
プロレタリア文学とは、自由民権運動と主張としての文学運動の流れの構造にある。
日清戦争から開始された後発資本主義国としての、兵舎国家建設は、人間の権利と
個人の生存権をもとめる自由な表現者・芸術を、牢獄のリンチで屈服させ、あるい
は屈服せねものは虐殺してきた。つまり大王部族のごとく、個人のパーソナルティ
は許されなかったのであった。すべては働きアリ、働きバチのごとく、システムと
しての女王に従属せねばならないと。それが国家生活者としての属性であった。
こうして自分の言葉をパラダイム・シフトとして発見したものは、人間の顔が見
えない国家社会主義属性との対決が開始されていく。戦前・敗戦後においてもこの
青春像の構造は変わりがない。自分の言葉を自分の世界をつくろうとするものは、
属性にかわりうる、もうひとつの場所を建設しようとする。こうして劇場はあらか
じめ、砂場に餌をもとめて、動き回るアリの伝説から闇が明ける。「ちはやふる」
の時間だ。
砂場そして奥には住宅地の粗大ゴミ置き場。明日にでも行政に回収されようとし
ている何台ものテレビ受像機、冷蔵庫、家具、それら、まだ使用可能なのであるが、
人間から見捨てられた物たち。やがて経済の工場閉鎖から街頭に放り出されたホー
ムレスたちが、踊りながら出現する。どうやら彼ら彼女たちは、この高級住宅地の
粗大ゴミをリヤカーに積みどこかに持ち運び貨幣に交換しようとする人々ではない
らしい。
日本原人としての弥生人に滅ぼされた縄文人であるのかも知れない。また騎馬民
族に部族共同体の権力を奪われた出雲人かもしれない。おそらく古事記・日本書紀
の神話は出雲共同体の神話を盗用したのに違いない。それは政治権力を国ゆずりと
して天孫降臨の大王部族に明け渡すかわりに、祭ごとを出雲神話によって行うこと
を認めさせた縄文人たちのしたたかさでもあった。だからこそ、古事記・日本書紀
は再発見され続けていかねばならないのだ。小松杏里と長渕基江は演劇史としての
1920年代を再発見する過程において、日本とはそもそも何なのか?を問い、そ
れは古代神話の再発見へと向かっていったのであろう。日本の1920年代・30
年代が実存の自己批判としてギリギリの主体飛躍として、問われたのは主体形成の
現場のみであり、この時期、芸術はバブル経済のごとくポスト・モダンなどと浮か
れていたのが実体ではなかったのかと思っていた、私にとって天文館の演劇史を内
省する企画は演劇内容の何を守り発展させねばならないかの問いかけであると思っ
た。
つまり「ちはやふる」は1992年ゆらフェステバルの内発的発展して、舞台化
されたのだと思う。それは印刷メディアにおいては情報誌シティーロードに取り上
げられたが、演劇誌が話題にしたかどうかはさだかではない。おそらく今なお、演
劇世代論とその現象を語れば、ゼニになると思いこんでいる、帝都のスタリーン・
メディアたちからは無視されたに違いない。
かくして砂あるいは泥の深層から、イザナミとイザナギは死霊のごとく誕生した
のである。砂がコオロコオロとうごめく、にょきっと、手が地中から表出するとき、
劇的狂気の力は、観客の息を静止させる。旧約聖書においてもアダムとイブは土す
なわち泥から誕生するが、それはあながち細胞史にとって間違ってはいないだろう。
細胞は泥すなわち粘土によって、形づくられた。私たちガキ愚連隊はよく小さな小
川にいって、粘土を採集した。粘土は多様な形をつくることができる、それが面白
かった。
人間にとって土との関係はある根源を成立させている。しかしやがて足と手の感
触は、化学工場から送り出されたきた接触へと全面展開されていく。われわれは何
処から来たのか? いうまでもない産業革命からやってきた人間であり、それまで
の人間から変貌した化学触感と物理触感によって生成する人間であった。
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たとえば、「原初の水」では、不気味な形態をした生き物が水しぶきを上げる大
洪水のようなものに呑み込まれるような状況が描かれているように見える。それは
旧約聖書の創世記のノア伝説を、あるいは古事記のイザナギノミコトとイザナミノ
ミコトによる国造りの神話等を連想させながら、より普遍的かつ根源的な記憶のな
かにのみ存在する風景を呼び起こすのである。さらに、渡辺のこの小さな作品は、
絵画が時空を越えた現象を再現することを、観念的な意味ではない無限の空間を表
現し得ることまでを思い出してくれる。
大阪発信 渡辺紅月展批評 中井康之 美術手帳1993/2月号
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神話的イメージを呼び出す表現は、どうやら演劇としての「ちはやふる」だけで
はなかったらしい。美術においても展開されていたのである。だがそれは使い古さ
れた文化人類学の方法でないことは確かだ。ではなにゆえに今、神話なのであろう
か?
それは固有としての日本がある時間の頂点にたどり着いたからであろう。ゆえに
先端的な感受性は、神話の補完ではなく想像力の奪還として古代実験を体現する。
お前は一体、何者だと。ゆえにおおむかしの上代語での芝居はより他者性をつきだ
すのであった。近代日本語としての標準語はこうして「ちはやふる」によって、異
化されてしまう。言葉と格闘する演劇本来の時間は、実は古事記・日本書紀こそ演
劇台本であったことを、われわれに教える。ギリシア悲劇の神話物語もそうである
が、神話はやはり人間のむき出しの感情と肉体をさらけ出すのである。つまり凶暴
性があるのだ。
「なぜ俺を生んでしまったのだ!」と、すべての責任を親に転嫁する。一度とし
て動物的本能の生命力を、引き出さねば、この困難を突破できぬ経験を与えられぬ、
家庭内暴力の不能青年が、やがて親によって復讐されてしまう、環境整備の勉強部
屋と優しい子育てごっこ。やっかいな神話の凶暴な肉体感情は、すべての矛盾を家
庭に転嫁することによって、いっさいの問題を隠すシステムこそが生み出す。
日本の家庭とは上部構造を安定させるための、矛盾処理工場なのである。いわゆ
る日本システムのガスは単位としての家庭に発射されてきたのである。ゆえに近代
でありながら、いまなお、単位家族の肉体感情は古代神話の凶暴性を内包している
のである。均衡が崩壊したとき、場所はギリシア悲劇へと変貌する。黄泉の国にお
けるイザナギとイザナミの愛憎の死闘。ある意味でこれがいい人、いい子である、
装いがもはや続行不能になったとき、神話の死闘は現代の家庭に出現するのである。
テレビや新聞、ミュージュックが明るさを「らしさ」を演じることができるのは
すべての暗さを、単位家庭に押しつけてきたのが、80年代のバブル現象と言われ
た構図だ。日本の統制システムがいかに腐りきっても、覆されることなく安定して
きたのは、すべての矛盾を固有の単位家族・家庭が呑んできたからである。
上部構造が現象から現象へと乗り移り可能な形態は、こうしていっさいの問題を
単位家庭に転嫁することが社会生命体のごとく身体化されているからだ。単位家庭は
社会の排泄器官なのであり、それゆえにわれわれは自分のことで精いっぱいなので
ある。世界最大の貿易黒字を達成できる社会とは同時に、単位家庭は上部機構のく
そが吐き出される器官なのである。はずかしいものは隠さなければならない、これ
が日本市民社会のけだるい午後の惨事である。
わたしはそううつ病の老母の頭を何度、叩き割ってやろうか!と、何度、このけ
だるい午後に感情をむき出しにしたことだろう。それは古代神話の死闘の肉体感情
と直結している。そのとき、おれがお袋を殺したら、きっと、テレビ局・ワイドシ
ョーが、わんさわんさとこの近所に押し掛け、ご近所にインタビューするだろうな
あ、ワッハッハッハ、と、笑うのである。この笑いに救われなければ、わたしは古
代神話の再現をしてしまうに違いない。
そのとき日本とは共同体社会に基礎をおく、共和制でないことを、あらためて思
う。われわれは自己の肉体感情に古代神話をいまも内包している。近代的個人世界
パーソナルティ精神世界とは縁遠い、全体のうちにひとりひとりが分断されうごめ
いている、指令アンテナを受信するアリかも知れないと。社会生命体維持装置であ
る女王の触感は空気を電導し感じるのだが、永遠にアリはその女王の全体像をつか
むことはできない。
古事記・日本書紀の神話には、つまりギリシア神話のように、人間の原初として
の肉体感情が発現している。動物と人間の交配関係はそれを物語る。ローマ神話も
狼がその原初としての象徴である。ところが世界宗教神話は宇宙と言葉が原初とな
る。天孫降臨神話があらかじめ宇宙と言葉の創造を、隠蔽したのは、宇宙を叙説す
れば、天孫降臨の論理が破産してしまうからだ。宇宙への想像力をあらかじめ欠落
させたのは、「島」をめぐる国ゆずりの象徴としての物語だったからである。
アマテラス太陽神は地上の延長でしかない。それは地上を超越する精神ではない。
ところが旧約聖書の神は地上の想像力から超越した宇宙のすざましい、おそろしさ
を内包する畏怖に満ちた他者なのである。世界を滅ぼす力をもった宇宙として。
日本神話はインド神話とも決定的に違う。インド神話は宇宙の体系にまでおよぶ。
宇宙論なき神話は世界宗教へと上昇することはできない。せいぜい場所の象徴的文
学として生き延びる。旧約聖書の神話から発生したキリスト教神話、イスラム教神
話、そしてインド神話から発生した仏教には、宇宙論が存在している。
神話は反復するから神話なのであり、その場所こそ、単位家庭である。あらかじ
め宇宙と普遍、神との内的対話の回路が存在せね神話こそ、天孫降臨である。そこ
には即物的に土着にこだわる肉体感情の世界観がある。肉体感情があらわに現出す
る場所こそ、単位家庭なのだ。ゆえに日本神話はこの場所で反復するのである。
SFテクノロジー世界における神話の反復と廃虚。粗大ゴミ置き場にあらわれた
古代言語を話す若衆たち。それは家族がみな朝に親は出勤、兄弟は登校し、ひとり
取り残された少年がモノたちと会話する光景なのかも知れない。
「ちはやふる」の舞台は、現在の日本の時間の位置を現出させたと思う。
それは神話の反復としての日本の時間が、ある臨界点にまで到達し、いよいよ、
あのなつかしい廃虚へと帰還する軌道に乗ったということだろうか? 廃虚の経験
はそして、天孫降臨の神話を反復するためには、かかせない補完装置なのである。
京都は内戦による廃虚を幾たびも経験し、東京も廃虚を経験してきた場所である。
われわれは永遠にこの神話の反復から逃れることはできないのであろうか?
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ひとつの源泉から発した供犠の儀礼と、政治権力という両者の曖昧な関係が、天
皇制の矛盾と苦しみを産んでいる。われわれは、建て前としての政治権力を「天
皇」によって正当化することはできないが、「天皇」を廃棄すれば、ときの政治
権力はおろか、現在の政治体制そのものが根底的に崩壊するのではないか、その
ことがわれわれの恐怖のもとになっている。
「感性の暴力」 佐々木孝次
イマーゴ 連載 1991年11月号 発行 青土社
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1993,3,5
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http://kayaman55-hp.hp.infoseek.co.jp/tihaya01.html