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ちはやふる感想(3)
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投稿者 愚民党 日時 2004 年 1 月 19 日 00:37:27:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: ちはやふる感想(2) 投稿者 愚民党 日時 2004 年 1 月 19 日 00:30:52)

「ちはやふる」死と生の時間 結語
                        塚原勝美

 演劇の時間はその幻想においてある舞台からある舞台へとインターフェンスして
いる。小松杏里・作/演出による「ちはやふる」は、私が過去に観た舞台を呼び出す
のだった。そのひとつは木下順二作「子午線のまつり」である。知盛の「おれのなか
ではらりと落ちるものがあった」その平家滅亡とおのれの死をみすえる言葉が、私の
胸に染みこんできた。そのとき嵐圭史の声は美しかった。

 私は女を愛する能力を喪失した男である。私にとっては黄泉の国でのイザナギと
イザナミのフェテシズムの死闘こそ、より自己の顔をうつす銅境としてある。私は
女と闘争しないことには、愛を確認できない。それは私に父性が欠落しているから
であろう。おそらくエロスは十代後半の思想の基礎を形成する時期に、決定される
のであろうと思われる。 

日本の愛の構造はイザナギとイザナミのごとく、男と女の闘争を露呈するのでは
ないかという疑問が私にはある。本当に男と女は人格としての信頼関係に基礎をえ
て、愛をつくりあげているのだろうか? 私にはわからない。

 その意味で1992年9月、新宿タイニス・アリスでの「セオリチョッター歳月の恵み
」は、私の孤独を救ってくれた舞台であった。岸田理生の作で、演出は韓国現代演劇
の李潤澤(LeeYunTak)であった。そしてこの舞台は韓国の役者と日本の役者による、
協働的世界形成として、われわれの前に現出したのである。この舞台を体験して私は
なにが自己に感受し生成したのかを、言語化したい欲望をもっていたのだがその契機
を発見できなかったのである。「ちはやふる」はその契機となってくれた。

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演劇の基本的な原理を伝統から発見する。伝統は、:今::ここ:から遮られてい
る。伝統はむしろ呼吸法、身体のリズム、情緒などに、比較的無庇で保存されている。
名も知れぬ無数の人々の知恵と経験が、呼吸法や体の動かしかたや、発声のしかたな
どを生み出してきたのだ。それが伝統だ。
伝統の中にひそむ原理!死んでしまった原理!今はもう誰も使おうとしないこの原理
から、生と演劇についての知恵を学びたい。
 この、今はない原理を、どのようにして;今;;ここ;に、つまりわれわれの方法
として引き入れるか?
 伝統、すなわちこの原理は、それぞれの民族によって差があり、時間的な限界もあ
るが、その一方、普遍性を持っている。ギリシア劇にもアジアの饗宴劇にも共通する
原理がある。これが重要な発見である。

「歳月の重み」は私にとって、上のような、小劇場運動についての考え方とその方法
論を実験してみる楽しい作業であった。これまでの韓国、釜山のカマコル小劇場で作
業してきた演戯団コリペの方法をまず試し、衝突する韓国的なイメージと日本的なイ
メージとを、;第三の視点;で総合したいと思った。
 この;第三の視点;とは、東アジアの伝統という意味である。共通する東アジアの
伝統、原理をいかにして現代演劇の方法として再生するか。それが私の実験であった。
前衛としての私の仕事は、死滅した伝統を解体し、再構成することであった。

  「歳月の重み」演出ノート 李潤澤    訳 金有出
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小松杏里も「ちはやふる」の時間によって、日本語の伝統なるものと、神話を解体
し、ここから「おれたちの言葉」「おれたちの世界」をつくりあげることが、可能か
どうか、再構成したのであろう。何故なら今日、われわれが日常的に使用している日
本現代語は、すでにマス・メディアによって、われわれの内面にぶちこまれている、
コンクリート・ポンプ装置だからである。われわれの言葉は自分のものであると錯覚
しているだけで、実はマス・メディアの言葉を使用しているに、過ぎない。

 つまり、われわれの価値判断・日常的会話はスターリン言語によって生成させら
れているのである。テレビ・モニターによって育てられた光景とは、言語なるもの
の内部とは、人間や自然環境によって教えられるのではなく、スターリン電波とそ
のメディアによって、教えられるのである。子どもが誕生する前に、ポンプ装置と
しての、テレビ・モニターは天上の言語として存在していた。

 ここに、日本的自然観がさらに、人為的・人口的な言語と映像を、あらかじめ、
自然生成のごとく思いこませる増幅装置となる。テレビによって保育されてきた、わ
れわれとは、テレビこそが母性であり父性なのである。それは新聞・ラジオ・テレビ
へと家庭のメディアが変貌した経験をもつ、大正生まれの老人であろうと、変わりが
ない。彼らこそ天上の言語と天上の神話によって、天孫降臨の奴隷としての家畜であ
たのだから。こうして戦前から敗戦後、大経済主義による高度成長をえて、過労死を
促進させた人権無視のバブル有頂天、その破裂まで、国家生活の余剰なるものは、
ゴミとして消却されるか、あってはならぬものとして壊滅させられてきたのである。

 しかし演劇の時間は母性・父性なる人間の時間帯を、保守・そして防衛してきたの
ではないかと思われる。人間は必ず死んでいく。これまでの人間は土へ帰ることがで
きたかもしれない。しかし最後の人間であるわれわれはもはや土へ帰ることは、す
でに、人間が帰るべき死後の世界を消却した現代都市によって許されない。

 人間の死は都市によって汚されているのである。都市は死後の世界、つまり黄泉
の国など存在しないと宣言している。それが商品の生成を謳歌する消費社会だ。
あふれる商品と消費にとって、黄泉の国は汚らしいイメージでしかない。畏怖の世
界と他者世界の入り口はいま、死体消却場の煙突であるのだろう。

 旧約聖書・コーランの叙説のごとく、人間はチリとして帰るのだろうか?
空にただよう煙、そのあまりにも軽い質感こそ、今日の黄泉の国なのだ。ゆえに、
演劇は煙幕と照明によって、もうひとつの世界たる黄泉の国を奪還する。

 私が「歳月の重み」の舞台装置によって、孤独を救われた。その理由は、奥になら
んでいた、死者たちがすべて夫婦あるいは恋人たちであったからだ。それまで、私は
人間は一人で死んでいき、死後の世界も永遠に孤独であると思っていた。しかし、そ
の発想は転換された。男と女の連れ添いの死者たちを観て、ある暖かさを私は、感受
したのだった。

 結婚した経験をもたぬ私は夫婦という実体をしらないし、永遠に体験することはで
きぬであろう。しかし幼少の私を、ある時期まで育ててくれた、村で「まんどころ」
という屋号をもつ親戚の叔母夫婦。その叔母とは私の母の姉であり、「まんどころ」
という村の農家に後妻にきたのである。私が「まんどころ」のじいちゃんと呼んで
いた叔父は、叔母が亡くなると、後を追うようにあの世へと他界していった。

 あれは74年の春だった。「まんどころ」での、叔母の葬式で、私はその叔父か
ら、お前は冷たい人間だと、とおまわしな言葉で批判されたことがある。私は病院
にも「まんどころ」にも、叔母の見舞いに行かなかったからである。叔父の表情に
は、あんなにもお前が小さいとき面倒をみて、かわいがってくれたじゃないか! 
それなのにお前は見舞いも来なかった。叔父は私に無言でそう言っていたのである。

 70年安保の怒涛と、反戦労働者・宇都宮大学のバリ封鎖などの場所に、17歳
から参加していた私は、街でも「アカに染まった少年」として有名だった。警察も
私たち一族の中心である村の「本宅」に聞き込みに来ていたし、それは当然、村で
も噂になっていたに違いない。あいつは連合赤軍だと言う記号が、ある右派労働組
合の悪意ある政治的人間たちによって、流され、それらの記号は私の背中におしか
かってきたのであった。

 その当時、日本全国どこにでも存在する守本流としての政治的人間たちは、連
合赤軍の記号を使い、共同体の反抗者たちを、そのマス・メディアの記号で認定し
孤立化して、反対勢力を壊滅していったのである。ゆえに連合赤軍問題とは、70
年代の同時代の問題であり、その出来事は日本神話・天孫降臨をめぐる、日本誕生
の思想的課題として、私は死ぬまでこだわりづづけていくだろう。

 問題はこうなのだ。戦前における1930年代思想史その転向の場所とは、やは
り、自ら人間関係を歴史的共同体から切断してしまったのである。天孫降臨の神話
は土地をめぐる闘争にある。反抗者がおのれの土地つまり歴史的共同体の人間関係
を自ら切断してしまえば、それは土地を占領する大王部族とその権威によって、お
のれの利権を増幅する日本保守本流にとって、都合がいいのである。

 天孫降臨とは記号をめぐる神話でもあるのだ。記号とは金属鋳造から誕生した人
の工作言語としてある。こうして日本近代史・現代史で反抗者はつねに、天孫降臨
によって、記号化され、牢獄へと追いやられて来たのである。

 私の叔父は選挙違反の容疑で街の警察の留置所に入れられた人でもあった。だから
村のなかでは、話しができた人間であったのではないかと、今思う。しかし、その時
私はまだ若かった。ある人間がいかに孤立しようとも、おのれの歴史共同体関係と、
一族の人間関係は保守すべきであるのだ。この固有の自己をこの世界に押し出してく
れた一族の歴史は、大王部族の歴史に還元できぬ、独自な歴史を持っているからであ
る。今、われわれはおのれの家族史を再発見していかなくては、永遠に歴史を語れぬ
者として、消却されてしまうだろう。

 もはやテレビ・モニターから吐き出される一方通行の言語と映像の全体化と占領。
そのうすっぺらな内容と、底の浅い物語の過剰な繰り返し。マス・メディアとしての
テレビも大衆新聞も、毎日毎日、物語を展開しているのだが、その愚劣な物語はもは
や、任天堂のゲームによって敗北させられている。 誰でも「情報」とは、「やらせ」
であることはもう認識している。

 「ちはやふる」ラストシーンは、上代語の主人公が現代語をとつとつと話すので
ある。つまり現代語は天を形成した神の言葉であったのだ。それは逆説であるのだ
が、われわれは歴史を神の視点で思考しているに過ぎないおごり者であることを、
あばいたのであろう。その意味で現在とは放漫に満ちた時間なのである。そこに人
間の現在の落とし穴がある。現在を過去と未来から規定された格闘の時間として、
位置づけぬことができぬ者は、平家滅亡を反復するだろう。現在とは言葉を発見す
る場所なのである。それが「ちはやふる」の結語であった。

 「ちはやふる」の役者たちが砂のなかから、おのれの言葉を発見し、その言葉を
空間の裂け目に向かって、爆発させたとき、劇場はその固有のそれぞれの言葉によ
ってカオスの始現の渦を流動化させた。私の身体は物質の協働的世界に振動した。
こうして演劇は詩そのものの根源を、奪還したのである。

 そして詩の根源は「歳月の重み」のラストシーン、美加理が古代騎馬民族のシャー
マンまたは耶馬台国のヒミコのごとく、とりつかれた身体でもって、「おてんとう
さまー」と叫ぶ、日韓合同実験劇の場所へと、連結・連動したのである。
 ある詩人の振動はある詩人の振動の場所へと、時間の器官がつながっているよう
に、演劇の振動その劇場の空間としての器官は、もうひとつの演劇の時間、もうひ
とつの劇場の空間と連結・連動しているのである。その力こそ詩であり言葉であり
役者の身体なのであろう。

 岸田理生/作 李潤澤/演出「セオリチョッタ歳月の重み」は、かつて古代の朝鮮
半島と日本列島の民衆が、海を乗り越え往来していた古代の時間を呼びだした、も
うひとつの神話の世界であった。そして私はやがて7世紀の日本誕生によって、そ
の交流世界が切断し、古事記・日本書紀が集約した以後のわれわれの身体を観た。

 新宿梁山泊の役者、近藤弐吉は日本の壮絶な権力闘争をめぐって沈澱してきた、
「怨」の身体とその孤独を現出させたと思う。韓国演戯団コリペの役者、河龍夫
(HaYong)は、その日本の内戦の矛盾を侵略として外傷され沈澱してきた、韓の「恨
」の身体を現出させたのではないか? そう私は感受した。

 ク・ナウカの宮城サトシと演戯団コリペの鄭東淑(ChonDongSuk)は、古事記・日
本書記が集約させた以前の、東アジアの民衆交流のやわらかな身体を現出させたと
思う。村松恭子の身体は草原的でありながら、日本の女の孤独をも私に感じさせた。
そして美加理の身体から、古代共同体の母性なるものを私は感受したのである。や
がてこれら沈澱した多様な身体は生命の喜びを爆発させ、輪に躍るのである。

 その舞台の中心には母性と父性が存在していたように思える。それはあらかじめ、
舞台の奥にいた夫婦または恋人たち、その死者たちの人形であろう。その母性と父性
こそ、あの世から、現在の東アジアの伝統と原理の再生、民衆の協働的世界形成が可
能であるのか?それとも不可能なのかを、見守る、あたたかい精神のように、私は思
えた。演劇の母性と父性は何か?それを今後、私は思考していきたい。

 「ちはやふる」も演劇の母性と父性によって誕生したのであろう。
私が注目したのは、物語の語り部たる鄭治子と未来都市のイメージを現出させた、
とりいちえの存在である。

「ざわめく街、このままでは私の存在が消えてしまうように思えた」その言葉が
現代の都市と拮抗する。おそらく私という人間の存在を確認し証明するためにこ
そ、表現はあるのだろう。そして役者が舞台に立てば、プロであろうとアマであ
ろうと、表層世界と対決し、もうひとつの世界を構築する演劇人なのである。

 そう、詩人にプロフィシュナルとアマチュアの枠組みなど存在しないように。
演劇が詩の根源をめざすとき、役者はすでに、もうひとつの世界の人間なのであ
る。役者の身体の背後には、時間と空間の母性と父性の存在が立ち上がる。それ
は幻想のリアリズムであり、夢をみる動物としての流動的な空間の発見でもある。

 そして私はアマテラスを演じた山本艶や語り部の神を演じた鄭治子のように、
表現情熱を持続し、存在の消却ではなく存在の証明へと自己を激励していこう。
現代世界の「新世界無秩序」は、ある意味で、われわれに母性なるもの、父性な
るものの、人間としての再建設をうながしているのかもしれない。

 最後に「ちはやふる」の照明デザイン、舞台装置構造がいかに現代美術と連動
した形態にあったのかを、妄想するため、美術人の言葉を引用したい。演劇とは
もうひとつの生きた美術生成なのであり、そのオブジュは躍動する空間と役者と
の共新によって、物質本来の磁場を現出させるのである。あらかじめ、無断で勝
手に引用することを、おわびしたい。今後も私は印刷メディアと対抗することが
可能なのか?それとも不可能なのかを模索するため、積極的に、印刷メディアか
ら引用を試みるであろう。パソコン通信メディアの言葉のつらなりが、言葉をき
りひらくものとして、社会に登場するためには、一度、印刷メディアを徹底的に
収奪してやるという、盗賊的情熱が必要であろう。

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あえていうなら、私の唯一の基準は、現代における芸術のプロブレマティックに
ついて、どれくらい深く洞察し、言語化しているかという点にあったと言えよう。

                多木浩二  美術手帳2月号 美術出版社
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私は24歳の時、盲目の女性から「わたしの顔、笑っている?」と質問されて
パラダイム・ショックを受け、おのれの発想を転換したことがある。彼女は自己
の表情を、私という他者によって確認しようとしたのだ。そこに彼女の知覚の格
闘があった。そして私は彼女から学んだ。洞察とは、目のみではなく、自己身体
の全面的発動をもって、言語化していくことを。なによりも私は彼女から尊厳と
いうものを学んだ。

 もはや、画一化のパワフルなき日本語の現在を突破するためには、一度、徹底
的におのれの言語枠組みを解体し、「おれの言葉」を発見していく必要がある。
「ちはやふる」は現在の言語関係に対する、パワーシストを試みたのだ。

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 驚くべき変化が我々を21世紀へと駆りたてている。
 つまり「パワーシスト」は、産業文明が世界的支配力を失ない、新しい勢力が
 興って地球を支配する際に、なお我々が直面する権力闘争の高まりについて述
 べたものである。
 世界中に共通したパワーの構造がかくも無残に崩れるのは、滅多にあることで
 はない。パワーゲームの全ルールがいつどきに変わり、力の質そのものに大変
 革が生じる事態は、歴史上極めて珍しい。
 とはいえ、これこそが現在、実際に起こっていることである。個人や国家を大
 きく規定するパワー、そのパワーそのものが規定し直されようとしている。
 世界の権力構造も同様に崩れ始めており、それとともにビジネスや日常生活に
 おける古い形の権威や権力の崩壊も速度をはやめている。
 こうした人間社会のあらゆる分野の権力構造を変える動きが、今後ますます激
 しく広範囲に起こることは間違いない。
 権力間のこの比重を変えようとするこの大きな動きは、大地震の前の不気味な
 地盤のずれに似ている。そしてそれは人類史上、特記されるべき出来事になる
 だろう。それは権力の質そのももの革命なのである。
 単に権力の比重が変わるだけでなく、パワーの形と質が変わる!
 それがパワーシストなのである。
 その結果、世界には何物をも吸い込んでしまうブラックホールがすでに口を開
 けつつある。

   「パワーシフト」アルビン・トフラー 訳/徳山二郎 フジテレビ出版
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 現在の日本の不況と金権腐敗状況は、産業・金融文明その権力構造の崩壊とし
てある。そして今年6月に頂点を人為的にあおる、大王部族の結婚フィーバは、
21世紀への生き残りをかけた、天孫降臨神話の世界戦略としてあるのだろう。
そのためにテレビ・モニターは国家総動員法として、天の言語・映像と唸る。
全ての矛盾と悲劇は個人と単位家庭に転嫁されていく。古い権威を上塗りするた
めに、民衆の一族の歴史と物語は、底の浅い天上の愚劣な物語の過剰占領によっ
て、壊滅させられてしまうであろう。おそらく日本システムの古い権威は、世界
の現在のパワーシフトが、日本に波及しないように、デジタル列島を全面管理し
天孫降臨の神話を、庶民の頭脳と身体にぶちこむであろう。

 現在の時間とは、言語・映像・物語をめぐるパワーシフトの闘争としてある。
そして現代の表現はブッラク・ホールの空間・その裂け目から、想像力を立ち上
げる。

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        ブッラクホール内視鏡

 いまからおよそ150億年前ビックバンによって誕生した宇宙は、膨張の果て
に収縮に転じ、いつか宇宙のすべてのエネルギーが一点に収束するビッククランチ
特異点で終えんを迎えると言われている。現在の宇宙に散在するブラックホール
は、重力崩壊した星の爆発と収縮によって生まれた特異点であり、無限大の密度
と重力を持つその限界からは光させも脱出することはできない。ブッラクホール
は宇宙誕生初期のミニブラックホールのように蒸発したり、物質や光を飲み込ん
で成長をつづけながら、宇宙の老化にともなって虫喰い穴状に広がりつつ究極の
特異点ビッククランチへと収束していく。こうしたブッラクホールの存在には、
誕生と死をめぐる全宇宙の運命が隠されている。
 20世紀の終わりに、相対性理論に予見されたブラックホールを観測した人類
は、21世紀初めには火星開発を計画し、太陽系の征服へと踏み出そうとしてい
る。現在に至る地球生態系の開発と破壊の歴史を顧みると、人類の変位的文明意
識は地球環境での悲劇をさらに宇宙空間でも再演しようとするものと憂慮される。
 火星と同様に無生命圏である地球上の砂漠は、生命圏である地球という小宇宙
における「ブラックホール」と言える。文明による温暖化と気候変動がもたらす
砂漠化は、宇宙をむしばみ死へと回帰させるブラックホールの増殖に相似する。
 わたしの故郷、中国ウイグル自治区のタクラマン砂漠では、核実験や天然資源
の開発による汚染、また多民族による先住民に対する宗教弾圧など、物心両面に
わたる環境破壊が行われている。地球上「ブッラクホール」内で目撃された光景
には、人類の宇宙開発のシュミレーションとその運命が映り出している。

 5つのブッラクホール状の筒内でビデオ・プロジェクターにより映写されるの
は、タクラマカン砂漠における危機とパフォーマンスの記録フィルムである。
観客は筒にあけられた開孔部を通して、砂漠から宇宙をループする人類文明への
警告のアートプロジェクトを内観することになる。

     1992年10月 故郷ウルムチにて 王新平(Xin-PingWang)

「現代性の問いかけ」"28"今日の作家展 横浜市民ギャラリー
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私の精神は91年、湾岸戦争そのテレビ・モニターの前で破砕した。
こなごなに砕けた内視鏡に、乾いた白い砂が降臨してきたのである。それが、
世界的パワーシフトの入り口であり、地球上ブッラクホールをむきだしにした、
ことは間違いない。砂に埋められた10万のイラク兵士たちと死者たちの、母性
父性とは何であったのか?

 「ちはやふる」は湾岸戦争以後のわれわれの感受性を現出したのではないだろ
か? 砂の舞台は火星であり地球上ブッラクホールの砂漠であったのだ。

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 彼女は神話をモティーフとすることによって独自性を勝ちえているわけではない。
 デフォルメされた頭部や手足、ちいさな人型、解析不可能な動物、植物といった
種種雑多なイメージを、カリグラフィな線、表現主義的な筆触、厚塗り、薄塗りと
いった不定型な描法で構成することによって独自の物語を生み出すのである。

   渡辺紅月展批評  中井康之   美術手帳2月号
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 現代演劇の小松杏里による「ちはやふる」も、神話世界によって独自性を建設し
たのではなかった。役者の格闘・舞台装置・照明デザイン・音楽によって、空間の
特異点その独自世界を現出させることができたのである。その方法はおそらく渡辺
紅月がとった不均衡という描法の世界であったと思われる。

 つまり現代美術、現代演劇においても、湾岸戦争以後の感受性は不均衡に存在す
ることを、再度、われわれに知覚させるのではないだろうか?

 そしてパワーシフトの現代演劇は、ブラックホールの内視鏡を胎動させながら、
その空間と時間の体験によって、人間の母性・父性なるものへと、求心力と遠心力
の磁場を舞台の中心に立ち上がらせるのではないだろうか?

 時間および空間は宇宙から誕生し、そして死んでいくのかも知れない。
 その死はもうひとつの世界である宇宙の母性・父性へと帰還していくのだ。
こうして天孫降臨神話は、「おれたちの言葉」「おれたちの世界」をつくりあげ
 るパワーシフトの若衆たちに、転倒されていくのである。
 21世紀へと駆け出すものどもは今、生命反応・存在証明として、砂漠の表層皮
 膚を突き破り、砂の底からゆっくりと立ち上がった。
 舞台の奥の協働性にある暖かい身体にこそ、母性・父性なるものの中心は存在し、
 民衆の一族その歴史を語る物語の担い手であったのだと。

 1993,3,17
-----------------------------------------------------------------------------

http://kayaman55-hp.hp.infoseek.co.jp/tihaya03.html

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