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(回答先: ホロコースト・プロパガンダの仕組み 投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 1 月 12 日 15:14:05)
たけさん、こんばんわ。
ホロコーストのプロパガンダがわかるまで、30年以上もかかっちゃいました。阿修羅に出会わなければ、知らずに死んでいくところでございました。
参考ネタです。
ユダヤ人にも、支配階級層ユダヤ人と、それ以下のその他もろもろのユダヤ人の2種類のユダヤ人がいるってことでしょうか。ソビエトの初期の人民委員会の幹部は全てユダヤ人だったりするのに、なぜ同類を助けなかったんでしょうか?その他大勢のユダヤ人は、上層ユダヤ人にとって聖なるいけにえだったんでしょうか?
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ポグロム(ユダヤ虐殺)について
ポグロムはロシア語で元々は「撲滅」『蹂躙』の意味。
帝政ロシアではたびたびユダヤ人の組織的大量殺戮、すなわちポグロムが行われているが、特に近世の著名な例を挙げれば、1881年春から秋にかけて、キエフ、オデッサを中心とする南ロシアで、160箇所以上で行われたもの、1903年から7年にかけて284以上のロシアの町で行われたものがある。この時の犠牲者総数は5万に達するといわれる。
この1881年に始まる『ポグロムの時代』に多くのユダヤ難民は新大陸アメリカに逃れたが、このため1870年代には25万少々であったアメリカのユダヤ人人口が、1903年には、150万に達する。もとよりこれらのユダヤ人全てがロシアから脱出したのではなく、ポーランド、ルーマニアなどのゲットーからもきたわけである。
ちなみにいえば、1917年にボルシェビキ革命があり、以後ロシアは内戦状態になるが、この際にもロシア在住のユダヤ人は、革命側からも、反革命側からも迫害された。
特に反革命の一派ントン・イワノビッチ・デネキン将軍が17年から20年春にかけて本拠地としたウクライナでは、ポグロムが相次ぎ、それ以前のポグロムの規模をはなはだしく上回った。死亡者は25万人を越え、さらにそれ以上の数がデニキンの自衛軍の略奪などの犠牲となった。
この暴徒のような集団のごとき軍を支援していたのはイギリスである。20年4月軍に見捨てられたデニキンはまずイギリス、次いでフランスに行き、さらに45年アメリカに渡り、2年後ミシガンで死んだ。
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またしてもイギリスが黒幕か?ボルシェビキ革命では、ボルシェビキ革命軍を資金面など大いにバックアップ、片や反革命軍にも大いにバックアップ、どうしたいねん?
ますます、訳がわからなくなってきました。
たけさん、参考のネタにしていただければ幸いです。