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(回答先: 連載第二回:「一般理論」とは何か?(MIYADAI.com) 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 1 月 07 日 13:15:04)
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連載第一回:「社会」とは何か
http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20030406
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【はじめに:連載の目的について】
■社会学の基礎概念を幾つか取り上げて説明することが、連載の目的です。本誌の連載群
のように、ビジネス雑誌などに経済学の基礎概念について説明する記事が載ることは、珍
しくありません。ですが、社会学について同じことがなされることは、滅多にありません。
■なぜでしょうか。社会学の基礎概念とは何なのかについて、必ずしも合意がないからで
す。基礎概念についての合意がないので、基礎概念を用いないで書かれた、社会学を自称
する論文が、量産されています。これは学問としては、きわめて奇妙な事態だと言えます。
■基礎概念について合意がないのは、なぜなのか。社会学という学問の目的について、合
意がないからです。経済学の説明対象は、言うまでもなく「価格」です。社会学の説明対
象とは何なのでしょうか。しばしば「行為」であると言われてきましたが、どうでしょう。
■「行為」とは何かということは、連載でも説明する予定ですが、それ自体が大問題です。
それを置いて、日常的な語彙としての行為は、生物学的にも説明できるし、心理学的にも
説明できます。それらとは区別される社会学的な説明なるものは、なぜ必要なのでしょう。
■この問題は、近代社会学の父としてデュルケームやジンメルと並び称されるマックス・
ウェーバーが、『社会学の根本問題』などで当初から意識しており、戦後の社会システム
理論の基礎を築いたタルコット・パーソンズにおいても、繰り返し展開されてきました。
■しかし、80年代に入る頃から、こうした「行為」問題が問われることは、稀になります。
そうした抽象論に実りがないと思われたことも理由ですが、既に細分化された社会学分野
で業績を積み重ねるのに、そうした議論が必要なくなったということが、背景にあります。
■その結果として、「行為」問題に関わる者たちがハッキリさせようとしてきた「社会学
の目的とは何か」という焦点が、社会学者の意識から、ひいては社会学的コミュニケーショ
ンから、すっぽり抜け落ちることになりました。今回は「社会学の目的」をお話しします。
【なぜ「社会」が問題なのか】
■それには「社会とは何か」をご理解いただかなければなりません。この問いは、経済学
の営みが前提とする「市場とは何か」という問題に比べれば抽象的すぎ、私たちが日常用
語の範囲で答えることは不可能でしょう(読者の方々は是非チャレンジしてみて下さい)
■この困難な問題に答えるには、ある時代まで「社会」概念そのものが存在しなかった事
実を思い出す必要があります。「社会」という概念に比べれば、「市場」概念のほうが少
なくとも二千年以上は古い。人類は長らく「社会」概念を必要として来なかったのです。
■この概念が誕生したのは革命後のフランスのことで、革命の挫折(第一共和制から第一
帝政まで)についての深刻な疑問が出発点にあります。「社会」概念の誕生と社会学の誕
生は同時期です。社会学の祖オーギュスト・コントはこの時代(19世紀前半)の人です。
■要は、皆よかれと思って革命をし、近代的な社会契約を結ぼうとした。それなのに、帰
結が意図から程遠いものになってしまった。そのことから、個々人の営みが巡り巡って帰
結する、個々人から見通しがたい不透明な全体性が存在するという意識が高まったのです。
■後で厳密に定義しますが、日常用語を使えば、この不透明な全体性が「社会」です。そ
して社会学は“「社会」が不透明な全体性であるにもかかわらず、秩序をもつ(ように見
える)のは、いかにしてなのか”についての探求を目的とする学問として出発したのです。
■個々人の思惑を越えた不透明な全体性としての「社会」。この概念の誕生は、社会学だ
けでなく、部分的に競合する重要な思想や学問を生み出しました。一つはプルードンらの
無政府主義、もう一つはマルクス主義で、社会学とは長らく潜在的な敵対関係にあります。
■無政府主義は、国民国家レベルの中央政府を否定し、国家の秩序維持機能を中間集団(家
でもなく国家でもない中間規模の地域集団や職能集団)のネットワークに置き換えようと
する思想です。個々人の顏の見えない大規模さが不透明な暴走をもたらすというわけです。
■マルクス主義は、恐慌を含めた社会の不透明な暴走は、市場の無政府性と、それを自ら
の利権ゆえに維持したがるブルジョア階級が支配する国家という暴力装置がもたらすもの
だと考え、プロレタリア独裁による市場の無政府性克服が処方箋だ、と考える思想です。
■これに対し、社会学では、エミール・デュルケームが「国家(中央政府)を否定しない
中間集団(職能集団)ネットワーク)」を構想し、『社会分業論』を執筆します。この発
想は、今もアンソニー・ギデンズらの「第三の道」論に、そっくり受け継がれる伝統です。
■不透明な全体性としての「社会」が意識される以前も、ポリスとか、国家とか、国民経
済という概念がありました。これが「社会」とどう違うのかが分かれば、「社会」概念の
独特さが見えてきます。例えばフランス革命以前に拡がった社会契約説はどうでしょうか。
■もちろん「社会」契約説とはいうものの、そこで議論されているのは国家の成立機序で
す。各人が持つ自然権を単に行使し合うと、万人の闘争が生じて自然権の行使が覚束なく
なるので、自然権を万人が委譲し、国家が生まれるという、ホッブス思想が典型的です。
■社会契約説以前は、たとえソサエティとかソキエタスといった言葉が使われていても、
そこで問題にされているのは例外なく政治共同体で、政治主導的な思考が専らでした。政
治とは、集合的意思決定、すなわち集団成員の全体を拘束する決定を導く機能のことです。
■したがって、社会学における「不透明な全体性としての社会の秩序は、いかにして可能
か」という問題設定に相当するものは、政治主導的な思考では「集団成員の全体を拘束す
る決定を導く政治共同体の秩序は、いかにして可能か」という形をとっていたわけです。
【政治から経済、そして社会へ】
■そう言うとお分かりの通り、こうした思考の出発点はアリストテレスです。アリストテ
レスの思考は、倫理学と政治学を二本柱としています。一口で言えば、倫理学は「友愛」
(フィリア)を基礎づけ、政治学では「最高善」としてのポリス的献身を基礎づけます。
■ポリスは、親族の基本構造(レヴィ=ストロース)によって編まれた部族社会とは違い、
血縁的続柄の不透明なオイコス(家長を頂点とする相対的に自立した経済単位)の集まり
です。だから家長間の関係を定義する必要が生まれ、フィリアという観念が要求されます。
■でも、フィリアはポリス維持の必要条件であっても、十分条件ではありません。例えば、
そのことは戦争を考えれば分かります。日本では『きけ、わだつみのこえ』の影響でしょ
うか、愛する者のために戦争に行くという図式が、まことしやかに信じられてしまいます。
■しかし実際は、アリストテレスが喝破したごとく、愛する者のために戦争に行くよりは、
戦争を避けて愛する者と逃亡するほうが合理的な選択です。そこで彼はフィリアに勝る最
高善として、ポリスに対する献身を持ち出し、「人間はポリス的動物だ」としたのです。
■ことほどさようにギリシア時代には既に、血縁的な自然共同体を越える大規模社会の秩
序は、自明ではなくなっていました。ですが、この秩序は、当時は「政治的なもの」とし
て──集合的決定(例えば戦争)に従うのはなぜかとして──イメージされていたのです。
■秩序の非自明性が「政治的なもの」として現れる時代は、中世から近代初頭まで長く続
きます。先に述べた社会契約説でも、法(=国家から市民への命令)に市民が従うのはな
ぜかという問いに、暴力的強制を越えた自発的服従の理由を与えるのが大きな目的でした。
■ちなみに近代法学には、法への服従理由を暴力的強制に求める法実証主義思想と、自発
的服従に求める自然法思想の分岐があります。社会契約説とも関係が深い立場の分岐の背
後に、秩序を政治的なものと見なす──国家への服従を秩序と見なす──伝統があります。
■ところが、産業革命前夜の18世紀後半になると、アダム・スミスらスコットランド道徳
哲学を出発点として、秩序を経済的なものだと見なす立場が出て来ます。政治が集団全体
を拘束する決定を導く機能だとすると、経済は集団全体に資源配分する機能のことです。
■具体的には、絶対王政的な特許状によって制約された商品経済ではなく、市場を背景に
した自由な商品経済が、自律的な秩序を持つことを論証しようとしたのです。スミスが『国
富論』で述べた「神の見えざる手」という有名な言葉は、そうした問題意識を象徴します。
■こうした問題意識の延長線上に、古典派経済学の花が咲きます。ただし、見逃されやす
いので言っておくと、スミスの「見えざる手」は、彼が『道徳感情論』で述べた共同体の
存在を前提にした共感能力があって、初めて機能するものとして考えられていました。
■その意味でスミスは、今日注目されているモラル・エコノミーの基本図式を先取りして
いると同時に、秩序を経済的なものだと見なす立場がもともと前提としていた図式──共
感能力を持った者たちの利己心が果たす秩序形成機能──を明確に示してくれてもいます。
■ということは、人々の共感能力が自明には当てにできなくなった暁に、秩序を経済的な
ものだと見なす立場では覆えない秩序問題──人々が共感能力を維持するのはいかにして
か──が出て来ます。これこそがモラル・エコノミーという社会学的問題につながります。
■話を戻すと、フランス革命の顛末は、政治的秩序問題(集合的決定はいかにして可能か)
や経済的秩序問題(合理的資源配分はいかにして可能か)とは区別される新しい秩序問題
──個人からみて不透明な集団的前提の維持がいかにして可能か──に道を開きました。
■新しい秩序問題を明確に意識したデュルケームの言い方に倣えば、契約の前契約的な前
提、権力の前権力的な前提、宗教の前宗教的な前提──「前◯◯的」とは◯◯の中では不
透明だという意味──を徹底的に考察することが、社会学の目的だということになります。
■以上を踏まえて学問的に定義すると、「社会」とは、私たちのコミュニケーションを浸
す不透明な非自然的(重力現象などと異なる)前提の総体のことです。そして社会学とは、
この不透明な非自然的前提の総体が、いかに存続・変化するかを問う学問なのであります。