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(回答先: 連載第三回:システムとは何か?(MIYADAI.com) 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 1 月 07 日 13:13:12)
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連載第二回:「一般理論」とは何か
http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20030511
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■社会学の基礎概念を説明する連載の第2回です。前回「社会」とは何かを説明しました。
「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す不透明な非自然的(重力現象などと異な
る)前提の総体で、それを探求するのが「社会学」でした。
■社会学誕生の背景にはフランス革命以降の社会展開がありました。それが、自立した個
人が契約に基づいて社会を営むとする啓蒙思想的な観念の前提たる、透明性に対する信頼
──個人から全体を見渡せるという信頼──を破壊したのでした。
■さて「社会学」なる言葉を使い始めたコントの時代は社会学を他の学問との関係でどう
位置づけるかという抽象的な問題意識が先行しました。ところが「近代社会学の父」と呼
ばれるデュルケーム、ウェーバー、ジンメルになると問題設定が焦点化されます。
■具体的には「近代社会」とはどんな社会で、他の社会とどう違うか。「近代社会」への
移行はなぜ起こったかです。哲学、心理学、経済学、政治学、人類学などから出自した前
述の論者たちが、これらの探求課題に取り組んで「社会学」を自称したのです。
■いまだ大学に「社会学」なる講座なき時代、既成学問で扱えない問題──「近代」とは
何か──に取り組むべく「近代社会学の父」たちがなした営みが、大学に「社会学」の講
座を産み、制度的学問としての「社会学」を誕生させたのです。
■それゆえ、コントとは違って「近代社会学の父」たちの学説は今でも参照され続けてい
ます。大学の講座云々もありますが(後に詳述)、「近代社会学の父」たちの社会学が「近
代」とは何かを解き明そうとする「一般理論」を目指していたからでもあります。
■ここで私たちは「社会」とは何かという問いに続き、「近代」とは何か、「一般理論」
とは何かという問いを手にします。ただし「近代社会学の父」たちが、こうした問いにど
う答えようとしたのかについては、この連載では触れません。
■理由は、連載が、学説史ではなく、最先端の理論に基づく基礎概念説明を目的とするか
らです。今回は、これらの問いが伝統的なものであることを確認した上で、「近代」に関
わる問題は後回しにして、「一般理論」に関わる問題を一瞥します。
【社会学の一般理論の退潮】
■「一般理論」とは何か。古くて新しい問題です。社会学では「一般性」という場合、文
脈自由が指し示されています。特定の文脈に拘束されないことです。この意味での「一般
性」は経済学でもお馴染みです。
■貨幣があれば、物物交換の如き、交換当事者が互いに相手の持ち物を欲しがり、相手が
欲しがる自分の持ち物を欲しないという「欲求の相互性」という文脈が不要になり、代わ
りに、誰もが貨幣を欲しがるとの前提で振舞えば済むようになります(一般的購買力)。
■社会学がよく持ち出す例は、制度的役割による一般化機能です。「マクドナルドの店員」
でさえあれば、お客さんたちは、店員が誰で、どんな人格で、どんな機嫌かといった雑多
な文脈を気にせずとも、ちゃんとしたハンバーガーを売って貰えると信頼します。
■社会学が「一般理論」という場合も、特定の文脈に縛られないことを含意します。詳し
く言うと、(1)できるだけ多様な主題を、(2)できるだけ限定された形式(公式)で取り扱え
るほど、理論の一般性が高いと見なされます(情報縮約度)。
■古くて新しい問題だというのは、一般理論を巡る奇妙な事態が見られるからです。具体
的な例から入ります。私は『権力の予期理論』(勁草書房)という書物で理論社会学・数
理社会学の分野の博士号(東京大学)を取った一般理論の研究者です。
■この本が書かれたのは十五年前。奇妙なことにそれ以降『権力の予期理論』のようなタ
イプの一般理論書は全くと言っていいほど書かれなくなりました。ことほどさように、社
会学では、理論社会学者の死滅や一般理論の死滅が囁かれはじめて久しい。
■社会学専攻の大学院ではどこでも一般理論の研究を志す学徒が激減しました。激減した
がゆえに、一般理論を研究しても議論し合える同輩がおらず、切磋琢磨の機会も動機づけ
の機会も失われ、一般理論研究者が激減するとの悪循環があります。
■この連載の目的は社会学の一般理論にとっての基礎概念を紹介することだから、これは
由々しき事態。 廃れつつあるものの基礎概念を紹介しても仕方ないじゃないかとの異論が
あり得ます。一般理論をめぐる問題に今回言及するのは実はそのためなのです。
■前回、社会学には基礎概念への合意がないと言いましたが、正確には前述した「一般理
論の死滅」の事態を指します。注意してほしいのは、そうした事態になったのは八〇年代
に入ってからで、かつてはそうではなかったことです。
■一般理論の研究者である私にとって、「社会学の一般理論が死滅しつつあるのはなぜか」
ということも一般理論が扱うべき主題です。そこで、以下ではこの主題について、一般理
論研究者である私がどのような知見を有しているのかを話します。
■ちなみに前回述べたように、社会学とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自
然的前提の総体を探求する学問。「私たちのコミュニケーション」には社会学のコミュニ
ケーションも含まれる。ゆえに社会学は必然的に自己言及的な形式を持ちます。
【理由その1:共通前提の崩壊】
■一般理論が死滅しつつある理由の第一は「共通前提の崩壊」です。これは幾つかの切り
口から語れます。まず、社会学の大学教員がこの問題について話しあうとき、決まって話
題になることがマルクス主義や構造主義という共通知識の消失です。
■私が大学に入学した七〇年代後半、社会学科の学生なら大半がマルクス主義について基
礎知識を持ち、『共産党宣言』『経哲草稿』などの読書経験がありました。同じく、マル
クス主義を中和すべく出現した構造主義や記号学についても基礎知識を持ちました。
■だから生産力、生産関係、私的所有、絶対的窮乏化、帝国主義、階級といったマルクス
主義的な諸概念や、差異、体系、構造、恣意性、示差性、シニフィアンといった構造主義
的な諸概念を、誰もが知っているという前提で話し合えました。
■それゆえ、卒論や修論で連字符的には(家族社会学・都市社会学・宗教社会学・教育社
会学…云々)異なった個別分野を扱う者たちが、こうした基礎知識を共通前提としながら、
各分野に横断的に適用可能な一般的形式について旺盛な議論をしました。
■八〇年代に入って暫くすると学生たちの研究会からそうしたコミュニケーションが急減
します。私は法学や政治学や経済学の研究会にも出ていましたが、どこも同じ。興味深い
ことに、当時映画活動をしていた私はサブカルチャーにも同じ傾向を見出します。
■シカゴ学派の不良少年研究から生まれた「サブカルチャー」概念は、公民権運動の六〇
年代に「カウンターカルチャー」と同義で使われ始めますが、一貫してメインに対するサ
ブ、エスタブリッシュメントに対するカウンターといった差異を前提にしました。
■その証拠に一貫して「マスカルチャー(大衆文化)」という概念が対比されました。で
すが日本だと八三年頃から「大衆文化」概念が死滅。同時に「サブカルチャー」概念も、
「メインなきサブの横並び」といった「島宇宙化」を前提としたものに変質します。
■寺山修司の死(八三年)が象徴的です。短歌でデビューし、劇団を主催し、映画を監督
し、歌謡曲を作詞し、エッセイを書き、競馬評論を書くといった分野横断的なカルチャー
スターは、以降あり得なくなります。学問分野でも同じこと。
■なぜ共通前提が崩壊したか。近代過渡期が終ったからです。近代過渡期とは、第二次産
業(製造業)が中心という経済的に定義された社会段階。これに対比される近代成熟期と
は、第三次産業(情報・サービス業)が中心という経済的に定義された社会段階です。
■ところが差異は経済に留まりません。近代過渡期には、郊外化で追いやられつつも村落
的共同性が残存し、それゆえに「物の豊かさ」という国民的目標が成り立ち、それゆえに
目標に近い「強者」と目標から疎外された「弱者」という差異が共通に主題化される。
■近代成熟期になると、郊外化で共同体が空洞化し、「物の豊かさ」が達成されたあと何
が幸いなのか人それぞれに分岐し、人々が個室からメディアを通じて各自の別世界にコネ
クトし、「強者/弱者」図式では到底扱えない社会問題が噴出します。
■それゆえ、まず「強者/弱者」図式を依り代にするドキュメンタリーが廃れます。つい
でサブカルチャーも学問も同じく、手段は違っても共通の問題(戦後の再近代化、並びに
それがもたらす問題)を扱っているとの意識が廃れ、タコツボ化します。
【理由その2:制度的な自己言及化】
■こうした共通前提の崩壊に「知識人/大衆」図式の崩壊が重なります。この図式は、エ
ネルギーはあるが方向性を知らない「大衆」を、エネルギーはないが方向性を知る「知識
人」が導くことで、社会がいい方向に発展するという近代啓蒙思想的な図式です。
■近代過渡期には、西側でも東側でも共通に、この近代啓蒙思想的な図式が信じられてい
ました。しかし近代成熟期たる現在、特権的に社会の方向性を知る「知識人」がいるとい
う観念は完全に廃れ、言葉としても死語です。
■具体的に言えば、社会学者が「社会学」を知っていても、大工やヤクザよりも「社会」
を知っているなどとは誰も信じません。経済学者も政治学者も法学者も同じ。〇△学を知
ることと、大工が大工の世界を知ることとの間に誰も差異を認めないのです。
■理由の一つは、先に述べた共通前提の崩壊です。学問手段が違っても国民が抱える共通
問題を探求してくれているとの意識が廃れました。加えて学問の「制度的な自己言及化」
という事態も見逃せません。
■「近代社会学の父」たちの時代、制度的学問以前に問題意識がありました。ところが大
学に講座ができ学会ができると、就職チャンスを求めて過去十年分の先行業績のサマリー
に多少ファインディングスをつけ加えるといった営みが専らになります。
■その結果、「社会」を知らず「社会学」を知るだけで学問世界を渡る者どもが溢れます。
経済学も政治学も法学も同じで、学問の「制度的な自己言及化」とはこの事態を指します。
そんな学問に「大衆」が導きの糸を期待しなくなるのは当然。
■かくして「共通前提の崩壊」と「制度的な自己準拠化」の流れが社会学の一般理論を退
潮させます。しかしそうした流れゆえにこそ、社会の不透明性についての意識はいや増し
つつあります。そして前回述べたように、不透明性の意識こそが社会学の依り代です。
■皮肉です。社会学の一般理論を退潮させる原因が社会学の一般理論へのニーズを高め、
社会学の一般理論へのニーズを高める原因が社会学の一般理論を退潮させる。とすれば、
社会学の一般理論の退潮はむしろ一般理論へのニーズを表しているという他ないのです。