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2004年2月18日 水曜日
■1.大英帝国になり損ねたオランダ■
地球史の上で、オランダは偉大な足跡を残しているのだが、 それらのほとんどは大英帝国によって「上書き」され、消されてしまった。たとえば、オーストラリアはイギリスよりも1世紀前にオランダが発見し、ニューホラントと命名している。ホラントはオランダの中心的な州で、日本語の「オランダ」の語源である。 ニュージーランドの方は、もう一つの大州ゼーラント(英語ではSeeland、海の土地)からとられたオランダ名がそのまま残ったものである。
ニューアムステルダムと言われた都市もあった。今のニュー ヨークである。ハドソン湾として名を残しているイギリス人探検家ハドソンは、実はオランダの東インド会社の社員として、 航海に出たのである。オランダは、現在のニューヨーク付近とデラウェア州以北の北米東北部を領有していた。[1,p155] その他、オランダは、アフリカ最南端の喜望峰から、セイロン、ジャカルタ、広東に植民地や通称拠点を置き、17世紀の世界貿易の中心を担っていた。長崎の出島はその終点なのである。
これだけの勢力圏を築いたオランダが、その勢いを続けていたら、英国などの出る幕はなく、南アフリカから、インド、インドネシア、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどを支配する大蘭帝国が成立し、英語ではなくオランダ語が国際語となっていたであろう。
なぜ、オランダはイギリスよりも先頭を走りながら、大英帝国になり損ねたのか? 世界貿易の中心を占めた経済大国が、 なぜ急速に衰退したのか? オランダの盛衰の歴史は、現代の日本にとって他人事ではない。
■6.自由への戦い■
こうして始まったウィリアムとオランダ人民による自由への戦いであったが、勇猛なスペイン軍に対してしばしば苦戦を強いられた。ナールデンという城塞都市は、スペイン軍に包囲され、降伏を申し入れた。スペイン軍は街に入るや虐殺と略奪を行い、アルバ公はフィリップに対して、「すべての市民は喉をかき切られ、人の母から生まれた息子で生き残っている者はいない」と報告した。こうした経験から、オランダの諸都市は決死の抵抗を行った。
ハーレムの町の城壁はホラント州でも最も弱いと言われていたが、市民の一致団結した抗戦により、スペイン軍はこの町を陥とすのに、7ヶ月の時間と1万2千の兵を失った。
ここから、さしものスペイン帝国もオランダの全都市を陥落させるだけの力はないのではないか、という希望がオランダ人に生まれ、抵抗の意思をますます堅くした。海上のオランダ船もスペイン艦隊の攻撃を受けたが、どのような大敵でも応戦して、負ければ自沈した。「戦史は降伏するよりも自沈したオランダ船の記録に満ち」ている、とバーカー は記している。
このような勇戦ぶりを見た英国は、オランダの要請に応えて、援軍を送る。スペインは英国征服を決意し、無敵艦隊を編成して、オランダを攻撃している軍の精鋭6千を載せようとした。ところが、オランダ船150隻があらゆる水路を封鎖して、スペイン軍の移動を許さなかった。無敵艦隊がむなしく待っている間に、英国艦隊が奇襲攻撃をしかけ、大損害を与えたのである。バーカーは次のように述べる。オランダ人の決意と、これを実行する能力がなかったならば、パルマ公(JOG注:当時のスペイン軍司令官)は英国を征服し、ローマ・カソリックは世界を征服していたかもしれない。かくしてオランダは英国、ひいては全世界の自由のために戦ったのである。[1,p138]
■7.卑怯な商人ども■
こうして両国は運命共同体として、スペインとの80年戦争 の大半をともに戦ってきたのだが、1648年にスペインとの講和が成立するや、わずか4年後には英蘭戦争が始まっている。 なぜか? 1584年、ウィリアムがスペインの刺客に暗殺されると、その子マウリッツ公が軍事指導者となる。マウリッツは父の志を受け継いだ名将であったが、まだ若く、政治的な実権はホラント州のブルジョワ政治家たちが握った。
オランダ商人の利益を代表するこれらの政治家たちは、スペインとの戦争よりもオランダの商圏拡大に重きを置いた。 スペインとの戦争中に、オランダは経済的躍進を遂げ、世界一の海上帝国を建設したのだが、それはオランダが金はかかるが利潤のない地上戦闘は同盟国の援助に頼り、もっぱら海上勢力を充実したからである。当時の重商主義者トーマス・マンは言う。 オランダ人が東西両インドを征服し、その交易の果実をわれわれからむしり取っている間、われわれはオランダの防衛のために血を流しているのである。[1,p219]
自由貿易を信奉するオランダ商人のなかには、敵国スペインに大量の武器弾薬を売って大儲けするものもいた。その一人ペイラントは、逮捕されても「貿易は万人にとって自由でなければならず、戦争によって妨げられてはならない」と主張して、裁判で無罪を勝ち取った。この主張を「ペイラントの自由」と呼ぶ。[2,p337]
当時のイギリス人は、何の良心の呵責もなく敵に武器弾薬を供給するオランダ商人に呆れはてたという。バーカーも次のように述べる。 英国人は繰り返し同じ疑問を持った。われわれのように 強く勇敢な国民が貧乏していて、自分達のための戦いも金を払って他国民に戦ってもらっているような卑怯な商人どもが世界の富を集めているのは、果たして正しいことなのであろうか?[1,p219]
■8.「ペイラントの自由」の信奉者たち■
1651年、英国は、アジア、アフリカ、アメリカの産品は外国船(当時はほとんどオランダ船)で輸入されてはならない、などと、オランダを狙い撃ちした航海条例を制定した。これをきっかけとして、翌年、第一次英蘭戦争が勃発する。 ブルジョワ政治家たちは、戦争の危機を叫ぶと、軍事指導者モウリッツ公を利するという判断から、事態をわざと甘く見て、英国との戦争にはならないと主張した。
英国を圧倒する造船能力を持ちながら、海軍増強には金を使おうとはしなかった。これら政治家も、私利私欲のためには国家全体の危機も省みないという、「ペイラントの自由」の信奉者であった。 1665年の第二次英蘭戦争の前には、すでにオランダ船200隻が拿捕されていたにも関わらず、オランダ商人は英国に大量の軍艦用資材を売りつけて、倉庫を空にしていたという。これまた「ペイラントの自由」である。
政敵を利すまいと国家の危機にも目をそむける政治家と、儲けのためには、敵国にも資材を売る商人たちと、国中に「ペイラントの自由」の信奉者がはびこっては、さしもの経済大国オランダにも勝ち目はなかった。 英国は西アフリカや北アメリカのオランダ植民地を次々と奪取していった。ニュー・アムステルダムが、ニューヨークとなったのも、この時である。これを契機にオランダの海上覇権も失われ、世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンに移っていく。
地球史探訪:オランダ盛衰小史 国際派日本人養成講座:http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog115.html
(私のコメント)
現在の日米関係をよくローマとカルタゴに例える事がありますが、それよりも同じ海軍国同士が覇権を競い合った英蘭関係のほうが参考になる点が多い。それ以前はスペインが世界の覇権を握り繁栄を築いていましたが、オランダとの戦争に足を取られ、イギリスの艦隊にスペインの無敵艦隊が敗れるなどで、オランダが世界の通商貿易を一手に握り繁栄を築き上げた。
これに対して同盟を組んで戦ったイギリスは面白いわけはなく、三次に渡る英蘭戦争でオランダは海戦には勝利するも国力を使い果たし、イギリスに覇権を譲った。スペインやオランダは海洋国家ではあってもヨーロッパ大陸の一部であり、本土防衛戦争と海戦との両面作戦を強いられるのに、イギリスは島国であるために海戦だけに軍事力を集中させることが出来た。
オランダは自由貿易を旗印として通商立国を目指したが、イギリスがオランダを狙い撃ちにした航海条例を作って妨害し戦争になった。オランダ海軍は善戦していたが、イギリスはフランスと組むなどしてオランダ本土を危機に陥れてオランダは譲歩を強いられていった。結局は陸上戦闘力の小ささが通商立国の没落に繋がった。
日本も通商立国として戦後の繁栄を築き上げることが出来ましたが、これは長続きするだろうか。しかも軍事力は持たず、もっぱらアメリカの軍事力のお世話になっている。オランダがイギリスの軍事力のお世話になりながら世界の通商で経済力をつけましたが、結局はイギリスに横取りされて、ヨーロッパの一小国になってしまった。
いくらオランダが通商立国を目指したところで、その通商を守るためには大海軍力が必要であり、世界一の海軍を持ったとしても本国を守る地上軍も持たねば通商立国は維持できなかった。日本は世界に向かって平和立国、通商立国を宣言して経済大国を目指してきましたが、周りの外国がそれを容認するだろうか。世界の歴史を見ても通商だけで長期の繁栄を続けた大国はない。
ポルトガルがスペインに横取りされたように、オランダもイギリスに横取りされたように、日本だって経済にだけかまけていれば、いずれはアメリカに経済は横取りされるのだ。アメリカが直接日本に手を出さずとも、中国、ロシアなどとの戦争を強いられて国力を消耗するのはすでに体験済みである。アメリカの戦略としては裏から日本に中国やロシアをけしかけるのは、バランスオブパワーとして当然のことだ。
たとえ日本がそれらの圧力をかわしたとしても、将来的にはアメリカはイギリスのように無理難題を押し付けてくるが、それにどう対応するのだろうか。英蘭関係もスペインという宿敵がいたから同盟できましたが、スペインが敗れると同時に英蘭は対立関係になった。日本もロシアの崩壊が日米対立になることを早く見抜くべきであった。
現在も日米が全面対立になっていないのも、中国がまだ残っているからだ。ロシアだっていつ復権するかわからない。つまり日本は中国ロシアとは敵対しつつ協調し、アメリカとは協調しつつ敵対するという複雑な外交戦略をとる必要があります。そのためには非武装中立という戦略は成立し得ない。ある程度の武力を持ちつつ協調しながら敵対するという外交の技が日本に求められる。
北米イギリス植民地帝国史:http://www.kaho.biz/hokubei.html
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu65.htm