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(回答先: 「靖国参拝」追記 ★ 100年前の愚挙を繰り返そうというのか 投稿者 縄文人 日時 2004 年 1 月 01 日 22:06:55)
大政奉還後、内乱が発生しないことを望んだ坂本竜馬の期待は、裏切られてしまった。
鳥羽伏見の戦い以降、戦死者は増えていきました。大政奉還後、靖国神社に合祀される資格のあるものは、旧反乱者が造った政府軍関係者ノミとなります。いまでも会津では、当時の政府軍を「官軍」とは呼ばず、「西軍」としています。
(1) 鳥羽伏見の戦い:官軍(政府軍)の戦死者のみ合祀
(2) 彰義隊上野の戦争:官軍(政府軍)の戦死者のみ合祀
(3) 会津戦争:政府軍死者のみ約3500名を合祀。
(4) 台湾征討と朝鮮江華島事件の官軍(政府軍)の戦死者のみ合祀
(5) 佐賀の乱の官軍(政府軍)の戦死者のみ合祀
(6) 神風連・萩の乱の官軍(政府軍)の戦死者のみ合祀
(7) 西南戦争:政府軍死者のみ6279名を合祀。
西郷隆盛、桐野利明など2万人の死傷者は無視。
会津での戦争は、歴史上あまりにも有名であるが、その戦後はほとんど知られていません。
慶応4年7月29日、小中学生くらいの幼い少年隊が全滅した二本松城が落城した後、11月6日の会津藩降伏までの間、おびただしい戦死者がでた。会津盆地には会津藩士の屍が夏の強い陽射しで、悪臭を放っていた。降伏後も会津の戦死者は埋葬が禁止されたのである。許可されたのは、翌年の二月であった!あの自刃した白虎隊も原型を留めていなかったそうである。親族は、衣類の切れ端でかろうじて判別したとか。
そうして、会津には「会津戦争戦死者の墓」は官軍のものだけである。会津藩士の戦死者のものは、ずーと後のものである。もちろん、二本松少年隊も会津白虎隊も靖国神社には合祀されていない。「逆賊」だからだってさ。
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西郷隆盛などについては、靖国神社側も対応に苦慮しているようです。
同神社の一角に、西郷をはじめとする西南戦争の薩肥軍死者の慰霊碑
のようなものがあるそうですが、人目につかない場所で鉄柵で囲まれて
近づけないとかだそうです。