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(回答先: 大韓航空機爆破事件、安企部関与の謀略説韓国でブーム! 金賢姫失踪中 投稿者 FakeTerrorWatcher 日時 2003 年 12 月 18 日 18:46:19)
厳しい訓練を受けた工作員、金賢姫は取り調べ開始からものの8日で本名が金賢姫であることを告白する。
「工作員としてあたえられた偽名を10日として持ちこたえられず、とうとう取り調べ開始から8日目の1987年12月23日午後に、8年間もの間、書くことさえも許されなかった私の本名が『金賢姫』であることを告白した。それをきっかけにして、これまでの私の悲壮な覚悟は崩れ落ちてしまった」(P.9金賢姫著『今、女として』文春文庫刊)
告白の動機について金賢姫は告白からものの3週間ほどしか過ぎていない翌年1月15日に開かれた「記者会見」で、次のように語る。
「『真由美』は内外記者団を前に『韓国の本当の姿を知り、 北への不信感から全容を明らかにした』と泣き出しそうな表情で語った。」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00997/contents/00231.htm
(産経新聞朝刊 1988年1月16日『金正日書記が親書で爆破指令 五輪妨害が狙い』より)
事件を決行した工作員がバーレーンで服毒自殺を図ったものの生き長らえ、そして取調べが始まってほどなく「韓国の本当の姿を知り、 北への不信感」を抱くに至り、何と記者会見の場で自らがKAL858便爆破の張本人であることを明らかにしたというわけで。
その時着ていたのは、いかにも野暮ったいナイロンのトレーニングウェア。北では入手が困難なナイロンは、実は南では安物であるとあとで知ったことを、金賢姫は『今、女として』で弟のお涙頂戴の話も持ち出してかなりのページを用いて紹介していますが(それこそ情報員としての訓練の実態以上に)、このウェアは実に象徴的でした。誰の目にも彼女が北朝鮮の人間であることを印象付けるような服装でした。
しかし、そんなナイスチョイスとも言えるようなウェアをプレゼントしたのは、何とイギリス人。マリアという女性。バーレーンで服毒自殺をはかり、捕らえられた時に尋問に当った「バーレーン警察の責任者」であるイギリス人ヘンダーソンとともに尋問に当ったヘンダーソンの妻、マリアであります。
弟のお涙頂戴の話とはこう。(後には貿易代表部の代表にもなった特権階級に属する外交官の娘として育ち、日本の品物で身を固める工作員になった)金賢姫の弟は、病気になって5年間トレーニングウェアをほしがっていたものの、入手できず(!)、事件決行前にようやく念願が叶い入手するが、時すでに遅し。皮膚ガンで事件を決行する年に死んでしまうというもの。当時インタビューをテレビで見た人々の印象とは別に、あのようなフェアは入手が困難で、マリアのプレゼントは思わず琴線に触れたというあらすじです。
さて、マリアとくれば何やらキリストを思い出すのでありますが、金賢姫の当該作品にはこんな興味深い文章も。
「(罵倒に包まれた裁判の様子を紹介して)本当に信じたくないことだった。しかし、不思議なことに私は、私を罵倒している人たちが、なぜか親しい親族のように思え、傍聴席のほうへ走っていき、抱き合って一緒に泣きたかった。そのとき、私はしっかりと手に握り締めているものに気が付いた。牧師様が書いてくれた聖書の言葉の紙切れだった。そんなものにでもすがって心を鎮めようとしてみたが、まったく文字が見えなかった。
恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる
驚いてはならない、 わたしはあなたの神である
わたしはあなたを強くし、あなたを助け
わが勝利の右手をもって、あなたを支える
イザヤ書 41章 10節 」
工作員に対する指令者のメッセージのようにも思える戒心の言葉であります。その時は事件発生から1年少々過ぎた1989年3月の裁判の様子を記述した箇所です。
勿論、獄中、牧師から日々説教を受け、影響を受けたとも考えられます。脚色の可能性もあるでしょう。しかし、それにしても戒心、あるいは懺悔というような二文字の言葉で表現されるような行動を、ものの8日でとった彼女には何か宗教的なバックボーンでもあったのでしょうか。
ちなみに彼女は1962年平壌市大同江区東新洞で生まれ、幼い頃キューバに渡ったことも。わざわざ父親が呼び寄せたという形です。1962年はキューバ危機のあった年。動乱の時代でした。アメリカの自作自演テロ計画、ノースウッズ計画があった年でもあります。
http://www.gwu.edu/~nsarchiv/news/20010430/
その頃はピッグス湾、マングース、ブルータス、オペレーション40と実にCIAは活発に活動していました。
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/cuba/contents.htm#%83L%83%85%81[%83o%8Av%96%BD%8Ej
そんな時代、アメリカとの対立の最前線とも言える国、その時代に家族を呼び寄せた父親の真意はどこにあったのでしょう。そして父親は単なる外交官だったのでしょうか。CIAは亡命者を中心にアセットと呼ばれる内部協力者を頻繁にリクルートしていたわけですが父親はそのような人間とは全く無関係だったのでしょうか。
後に父親、金元錫=キム・ウォンソクはキューバでの三等書記官を経てソ連の大使館で勤務も。事件当時はアンゴラの北朝鮮貿易代表部の水産部門の代表として働く。
新人民学校、中新中学校を経て金日成総合大学生物学科に入学した金賢姫の進路変更を勧めたのは父親。
曰く「今は外国語を必要とする時代だ」と。その言葉にしたがい平壌外国語大学日本語学科に編入。労働党調査部に選ばれたのは日本語学科入学から2年ほど過ぎた1980年3月のことでした。
以降、中国の広州等で1年半過ごしたり、厳しい軍事訓練を受け、さらに日本人化教育を受けた彼女は事件の指令を忠実に決行。予定通りマルボロのフィルターに仕込んだカプセルを噛んだものの「なぜか」生き長らえ、あえなく告白の「記者会見」に臨むことに。
冒頭の記者会見が行われたのはこんな時期でした。
「ソウル五輪の参加申し込み締め切り(1988年1月)17日を前に、北朝鮮を除く主な東朝諸国が参加を表明したことなどが背景になっている、とみられる。」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00997/contents/00231.htm
爆破、告白、裁判と続くこうした一連の騒動は、折りしも1989年12月ベルリンの壁が崩壊する前夜とも言える時期のできごとでした。