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(回答先: North Korea TODAY 投稿者 天馬 日時 2003 年 10 月 13 日 02:51:35)
内容の一部
北は自国民にこのような仕打ちを行うにもかかわらず、日本に対しては遠慮無く権利らしき事を言えるのであろうか
(▲「週刊東亜」第216号/2000.01.06)
http://www.dongailbo.com/docs/magazine/weekly_donga/news216/wd216cc030.htmlより
■韓半島/いま北朝鮮では
飢えの土地、銃殺に火あぶりまで
北脱出者証言報告書…韓国人と会ったり、軽微な窃盗も「例外なく銃殺」
<いま、北朝鮮でどのようなことが行われているのか、世界はあまり知らずにいる。大部分の人々は貧困と飢謹にあえぎ、飢死する人々が続出しており、飢えに耐えられず豆満江、鴨緑江を渡り中国へ越えて行く住民たちが多いという程度としてのみ知っている。しかし北朝鮮では、飢えて死ぬ人々以外にも銃殺されて死ぬ人々が少なくない。
また火あぶり(火刑)という残忍非道な方法により死んでいく人もおり、はなはだしきは人間に食べられて死ぬ人々もいる。本文は11月中旬頃、中国東北地方のある都市で会った北脱出者20余名の証言を土台に、関係機関が作成したものである。彼ら北脱出者は、総じて99年10月末頃に北を脱出した人々であるがゆえに、最も最近に行われたことについての生々しい証言を聞くことができた。
いま北朝鮮で行われているぞっとするような行為が、どうして、どのように発生したのかを知ることができる。>
公開銃殺は頭から狙う
公開銃殺はどんな方法で行われるのか。咸北茂山が故郷のイ・ヨンフン君(17)によれば、茂山では、おもに茂山中学校のそばにある青年公園で銃殺が行われる。銃殺が執行される時は、まず人間の身長より大きい樹を選び、その樹の前に小さな踏み台を置いてから、踏み台の上に人間を立たせる。死刑となる人々はほとんど全員が死刑場にくる時からすでに半死状態のままずるずる引かれて出てくる。監獄中で酷使と殴打を受けているのである。
銃殺する時は、三人の軍人がひとりを同時に射つ。軍人ひとりが自動小銃を四発発射する。死刑囚には合計12発が撃ち込まれる。そばにある放送から「前方の犯罪者に向かって単発で撃て」と命令が下されると、死刑囚の頭がまずぐさりと落ちて血がほとばしり出てくる。その次に胴体がさく烈する。通常は、胴体の血が外に飛び散らないよう、厚い布をかぶせるが、それでも血が外部に流れ出る。総計12発を被弾した人間は、身体の形が完全に崩れてしまう。死んだ人々の屍体は台に載せられ、ナンバープレートのない車に乗せられてどこかに消える。車にナンバープレートが付いていれば、死刑された人々の家族がその番号を見てその車に対して報復してくる可能性があるため、ナンバープレートをはずしているのだ。屍体をどこに捨てたのかわからないため、家族は屍体を埋葬する方法がないのである。
死刑囚を射つ時は例外なくまず頭から射つ。何故そのように残忍な方法で銃殺を行うのであろうか?清津が故郷で、海軍で7年間服務したのちに脱出したキム・ヨンジン氏(25)によれば、頭の中に資本主義思想が入ってしまったがゆえに銃殺する、という事実を北朝鮮人民らに明確に見せる意図があるという。北脱出者がいまほど多くなかった90年代初め頃までは、公開銃殺刑では胴体から射ったということだ。
公開銃殺は人々がたくさん集まる場所で執行される。他の人に警戒心を植え付けるためだ。そのため通常、数千名の人々が処刑場面を目撃する。家族は必ず参加しなければならない。家族はその銃殺が正しいものであることを、見物している人々に十分に証言してくれなければならないのである。かと言ってその家族の無事が保証されるわけではない。北朝鮮当局は家族らの報復を恐れ、死刑囚の遺族全員を保衛部の監獄に送致する。
公開銃殺場面を二つの目で目撃した人々はどのような感覚を受けるのか。咸北会寧が故郷で、軍に3年間服務している途中で北朝鮮を脱出したキム・ソンチョル氏(23)は、会寧でだけ20回以上の公開銃殺を見たことがあるという。
「頭がめちゃめちゃになり血が四方に飛び散り、全身に赤い鮮血が降り注ぐように出てくるのを初めて見た時は、あまりにもぞっとして、夜ごとの恐怖感に苦しめられ、こりごりでした。よく眠れず、また眠り込んだとしてもぞっとするような悪夢を見ました。しかし銃殺場面もたびたび見てしまった今となっては、なんでもないです」
連座制で一家族みな銃殺
公開銃殺の場合、連座制が適用され、一家族三世代が同時に死刑台の前に立つ場合がある。茂山から来たイ・ソンス君(16)の証言によれば、1998年1月8日、茂山在住のキム・ソンド(21)が、韓国の安全企画部により買収されたとして、キム・ソンド本人と父、母、親戚ひとりなど合計4人が同時に銃殺されたという。このように北朝鮮では、過去の朝鮮時代に逆賊を処罰する時、三世代を満遍なく滅ぼすことと同じ前近代的な方法が堂々と行われている。キム・ソンドは茂山で金正日党書記に反対して親韓国運動を起こそうとし、進んで清津の人々をも一緒に抱き込みかけたのだが、北朝鮮安全部に申告され捕えられたという。北朝鮮当局の判断により、重罪である思想犯の場合は家族もろとも銃殺し、そうでない場合は遺族を保衛部の監獄に送致する。北朝鮮の監獄は監獄という名ばかりの、死の収容所である。遺族は監獄のなかで食うに事欠いて、むちで打たれて結局は死んでいくのだ。たとえ銃殺されずとも、結果は同じなのである。
北脱出者らは93年頃、イ・インモ老人が北朝鮮に帰ってきた時、彼が韓国の監獄で30年以上閉じ込められていながらも死なずに生きていたことに対して、みな理解できなかったという。北朝鮮住民たちの常識では、監獄では5年以上を過ごすことは不可能で、みな死ぬであろうと考えているためだ。北朝鮮の人々は健康なイ・インモ老人を見て、韓国は監獄さえも住みやすいのならば、監獄の外側の社会はどれほど住みやすいのだろうか、と考えたという。監獄に入れられる人々の中には、北朝鮮の犯罪基準からみて無実である人々が多い。監獄で死んだ人々は山に掘られた小さな穴に埋められる。どこに埋められたのかわからないため、家族は遺体を見ることも、また墓に埋葬することもできない。チェ・キテ氏(25)によれば、保衛部の監獄はチョンソン郡トンボにもあり、会寧市チャムヒョ里にもあるという。
牛を捕食したり機械の部品を取り出しても銃殺刑
会寧で軍生活を過ごしたキム・ソンチョル氏は96年以後、会寧でだけ20回以上の銃殺を目撃した。キム・ヨンジン氏(25)は清津で7回の公開銃殺を目撃し、ラナムで3回の銃殺を目撃した。最近でも銃殺は行われているものの、特に96年が最も頻繁だったという。イ・ヨンフン君は茂山で95、96、97年に10回ほどの公開銃殺刑を目撃した。チェ・キテ氏は会寧で13回の銃殺を目撃し、茂山で女性が火あぶりにされるのを目撃した。イ・ソンス君は茂山で三回、茂山のゴム山で行われた銃殺を目撃した。これを合計すると、95年以後、会寧で20回以上、茂山で10回以上、清津附近で10回以上の公開銃殺刑が執行されたということがわかる。もちろん、中には火あぶりも存在した。一回の銃殺執行で、多ければ9人、少なくとも4人が殺される。一度に平均5人ほどが銃殺されるとすれば、95年以後の会寧、茂山、清津一帯だけでも200名以上が公開銃殺(火あぶりを含む)されたということになる。
公開銃殺は最近でも継続されている。チェ・キテ氏の証言によれば、99年8月、会寧では6人が同時に銃殺された。牛17頭を盗んで捕食したという罪目だった。
銃殺は厳重な犯罪だけに執行されるわけではない。窃盗のような軽微な事件も銃殺刑となる。牛を捕食したり工場の銅を盗み出して売り飛ばした人、起重機などの付属品や金属を取り出し売り飛ばした人もすべて銃殺刑である。
その中で、真っ先に銃殺刑が確定するのは、中国に渡ってキリスト教徒や韓国人に会った場合である。このような時は思想が完全に変化したという理由から拷問を受けたのち、死刑が執行される。韓国人に会った場合、その韓国人の職業が実際にはなんであっても、死刑が執行される時には無条件で安全企画部の要員に会ったと発表されるらしい。
ヌード写真を印刷して食費を稼いだ女性が火あぶり
チェ・キテ氏の別の衝撃的な証言によると、北朝鮮では火あぶり(火刑)が執行されるというのだ。北朝鮮での火あぶりの話はいままで韓国のメディアに報道されなかった事実である。中世ヨーロッパで一時、悪魔と見なされた人々に執行された火あぶりが、韓半島の北方で強行されているというのだ。99年10月、中国へやってきた軍人チェ・キテ氏は96年夏、咸北茂山で火あぶりが執行されるのを目撃した人だ。火あぶりは茂山市場で公開執行された。
当時、火あぶりに処された人は23才の女性であった。自分とお姉さんと二人でヌード写真を印刷し、中国で売ったという罪であった。彼女のお姉さんは中国のファリョンに住んでいるため、妹が姉に会おうと渡江している途中で軍人に捕まった。身体検査してみると、彼女とお姉さんのヌード写真が発見されたのである。この姉妹はヌード写真を刷っては食費を稼いできたということだった。北朝鮮はヌード写真に対しては、資本主義の黄色風(旋風)が入る、としてひどく警戒する。その結果として火あぶりにまで処するというのは、あまり残忍な処置である。
火あぶりはどのようにおこなうのか。ヌード写真を刷った女性はまず木に縛り付けられる。そして足元に薪を集めて火をつける。北朝鮮の安全部では、家族に火あぶりの執行を直接行わせる。この女性の場合にも、父と母が木を集めたあとで、父に火を付けさせたのである。火あぶりの執行ということさえ想像を絶するものであるにもかかわらず、家族を火あぶりにするとは、その家族の心情は果してどうであろうか。その女性は身体が炎に包まれた瞬間にも「私は死んでも、お姉さんは中国でお金たくさん稼いで、いい生活をするはずだ」と絶叫したという。
人肉で食べ物を作った女主人も火あぶり
キム・ヨンジン氏も清津のスナムで目撃した火あぶりを証言した。95年8月、清津スナムで汁飯食堂を運営する女性が赤ん坊の肉で肉汁飯を作り、売っている途中で発覚した。その赤ん坊は母親が外地に食料を求めにでかける間、食堂に預けた子どもであった。
一週間ぶりに家に帰ってきた赤ん坊の母親は、息子がいなくなったという話を聞いて、周囲の人々をたずねまわった。その結果、ぞっとする行為があったのを知った。
食堂の主人はスナム橋のそばの空地で火あぶりにされた。茂山で火あぶりにされた女性のように、その女性の家族が直接火をつけた。その光景を目撃した人は数千名に達したという。
95年といえば、北朝鮮の飢餓が最も深刻な年であった。その頃、北朝鮮では人肉を食べるという噂が飛び交っていたのだが、キム・ヨンジン氏の証言を聞くと、それが単純な噂ではなく事実である可能性がかなり高い。キム氏もやはりその汁飯を人肉と知らずにおいしく食べたという。キム・ヨンジン氏によれば、その汁飯食堂は独特の味ゆえに、お客さんが多かったという。
はらわたは腸詰、肉は汁飯
キム・ヨンジン氏が人肉証言を行うのと同様、チェ・キテ氏も97年4月に会寧市で人肉を売っている途中で発覚し、家族全員が銃殺された事件を証言した。この家族は食べるものがなく、家まで売り飛ばし、あげくの果てに赤ん坊をこっそりと殺した後、その肉を売り始めたのである。はらわたで腸詰を作り、肉で汁飯を作って売った。この家族が赤ん坊の肉を売り始めたのは95年10月からであった。彼らは1年以上も赤ん坊の肉を売っていたがゆえに、犧牲となった子ども達は少なくなかった。18才未満の未成年者の場合は死刑にはならないのだが、この家の息子と娘はその罪質があまり大きいとして、全員が処刑されたという。
中国で会った北脱出者を通じて確認した公開銃殺、火あぶり、人肉事件などはみな背筋が寒くなるような衝撃的な話である。ヒットラーはアウシュビッツ収容所にあるガス室でユダヤ人を集団虐殺し、クメール・ルージュは人の顔にビニール袋をかぶせて、毒ガスを注入し虐殺するという蛮行を行った。いま北朝鮮の金正日党書記は、人々を飢えで殺し、監獄で拷問や殴打で殺し、公開銃殺で殺し、あげくの果てに火あぶりにする。北脱出者は一様に、北朝鮮では常識では理解できない蛮行が行なわれている、と証言する。
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