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(回答先: 英語圏のフリーランスは、W・G・バーチェットの伝統の後継者であろうが 投稿者 木村愛二 日時 2003 年 10 月 30 日 22:25:35)
知らない人なので、少ししらべてみました。
Burchett Wilfred G.(バーチエツト ウイルフレツド G.)
1911年オーストラリア生まれ。原爆投下直後の広島を取材した最初の西側記者。
"I write this as a warning to the world"で始まる記事で、残留放射線の悲惨さを
世界に知らせた。彼がいなかったら、このことは極秘扱いのままだったのではないか、とする
人もいる。
著書の和訳はアマゾンで二点。いずれも品切れ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-keywords=%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88&bq=1/ref=sr_aps_all_b/249-4716045-8580357
英語でもほとんんど絶版、のこりわずか、のようです。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-url/index=books&field-author=Burchett%2C%20Wilfred%20G.%2C/104-9301816-8473551
バーチェットの広島に関する本の表紙が上の画像です。
解説は http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/class/journalism_2002_01/journalism_03.html
広島原爆投下後の取材に関するインタビューは次のビデオでみられるようです。
Hiroshima - Warning to the World (Nuclear War Issues) (2000)
http://www.buyindies.com/listings/9/8/984438034609.html
朝鮮戦争、ベトナム戦争取材は共産側から。
北朝鮮での英軍の生物兵器使用を告発。
ベトナムでのオーストラリア軍に関する報道があまりに反オーストラリア的だったので、
オーストラリアに20年間入国禁止だったとか。
カンボジアではポルポトを支持して、その結果に失望。
結局西側には戻れず、1983年、ブルガリアで死亡。
ベトナムに関する記事は次で読めます。
この当時のガーディアン経由で発表したホーチミンに関する記事。
http://www.pipeline.com/~rgibson/HoChiMinh.htm
バーチェットの人生は映画になっています。
"Public Enemy No.1"
http://www.frontlinefilms.com.au/videos/public_enemy.htm
http://www.big.com.au/film/burchett.html
ちなみにこのタイトル、あのラップグループ登場以前の映画なんで元祖。
バーチェットはKGBの秘密工作員だった、というような記事が1977年代の反共メディアでは
さかんに書かれている。
K.G.B. Agent Wilfred Burchett Tours U.S. Campuses
http://www.jbs.org/visitor/focus/vietnam/below/burchett1.htm
Catching the K.G.B.
http://www.jbs.org/visitor/focus/vietnam/below/burchett2.htm
広島に原子爆弾が投下された日(1945)
1945年8月6日*1午前8時15分,アメリカのB29「エノラ・ゲイ」*2号が広島市上空9600メートルで,人類初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。当時の広島*3の人口はおよそ40万人。即死者を含めおよそ15万人が,この年のうちに亡くなっている。その時は生きのびた人たちにも放射能後遺症に苦しみ,原爆投下*4から5年以内亡くなった人数は総計25万人ほど。続いて8月9日には長崎*5に原爆が投下*6され,およそ14万人の命が奪われたと言われている。
原爆投下直後に日本人科学者などが現地調査を行ったが,その資料は占領軍によって押収され,惨状*7はそのまま報道されずにいた。そんなときオーストラリアのジャーナリスト,ウィルフレッド・バーチェットがイギリスのデイリー・エクスプレス*8の特派員として来日した。9月2日の戦艦ミズーリ号での日本降伏の調印式の取材に,多くの記者が訪れていた中の一員だったが,彼の目的は違っていた。調印式当日,病気と偽って密かに列車に飛び乗った。焦土と化した東京から広島まで,およそ20時間の道のりである。
広島*9でバーチェットは,アメリカ軍が秘密にしていた放射能障害*10を目の当たりにする。ケロイド状の火傷,脱毛,発熱,出血……原爆投下*11 から1カ月が経過しようとしていたが,毎日,多くの人が次々と死亡していく。そして外国人記者として広島に一番乗りした彼の取材は,9月5日付けのデイリー・エクスプレス紙1面トップを飾った。「The Atomic Plague / I write this as a warning to the world.」と題するこの報道の後も,バーチェットは核兵器廃絶運動に興味を持ち,朝鮮戦争,ベトナム戦争などの取材に活躍する。
徹底した批判精神から,バーチェット*12はソ連(当時)に味方する売国奴,共産主義者という非難を受けた。真偽はどうあれ,彼の報道が世界の人々の目を初めて広島の惨状*13と,核兵器の恐ろしさに向けさせたことの意義は減じることはないだろう。原爆投下から54年目を迎える今,我々にも原爆の意味と平和*14の意味を考えさせる「バーチェット」が必要なのではないだろうか。しかしそれは,我々自身の中に求めるべきものなのかもしれない。