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(回答先: Re: 訂正依頼 投稿者 竹中半兵衛 日時 2003 年 11 月 22 日 18:16:03)
テキスト存在と人間 1
疲れていた。冷たい風がざらざらの肌につきささる。芝生に寝そべった。もう
おれはダメだろうと、深い絶望感に酔いしれた。冬空を仰いだ。どこまでも抜ける
ような群青の色彩がまぶしい。体内にあらわれた灰の塊がどんどん下へ落ちていく。
それはすべての力を奪いながら。シャガールの絵を想いだした。あの執念がこもっ
た青い太い線を。公園を去りながらシャガールのように生きて行こうとつぶやいた。
第2章・テキスト存在と人間を妄想して行きたいと思います。私は絶望する人間
です。吉本隆明氏は中流意識をもった日本の大衆は世界最強の集団である語ってい
ました。しかし私は大衆という言葉を信じることはできません。すくなくても人間
はひとりひとり違います。一般という存在はありません。一般という概念は単一民
族幻想によって成立しているのです。固有の空間と時間それを私は芸術から学びま
した。芸術表現はつねに固有の空間と時間から出発しますから。
シャガールが生まれ育った故郷は、スターリン体制の凶暴な政策によって消滅さ
せられてしまいました。しかしながらシャガールは絵画の空間に故郷の共同性を描
き続けたのです。そうです。シャガールは場所と人間の記録者だったのです。
場所と人間は心的エネルギーによって連結・連動していると思うのです。スター
リンにとって場所とは、人間の協働的世界形成ではなくて、政治的生産という土地
でした。ツアーによる地主制度は人間を土地の奴隷として従属させ、場所とはある
制度の独占的貴族によって囲い込まれていました。革命とは人間を収容する制度を
めぐる衝突であると同時に、場所をめぐる衝突でもあります。しかしながらスター
リンは、この衝突がロシア革命へと体現された後、旧ソ連を強大な収容所へと歪曲
していったのです。こうしてツアーの遺伝子は復活しました。その理由は明確です。
ツアー皇帝政治の中心であったクリムリンを革命政権の中心として継承したから
です。そこにレーニンの最大の誤りがあったと思うのです。建築物・そして宮廷内
の皇帝芸術様式・物質が第二の自然として生成して、それは人間を取り込んでしま
うエネルギーを内抱していることを、レーニンは甘くみたのです。クリムリンとい
う建築様式そして内部様式は、それをつくったものの執念と、モンゴルのくびきか
ら、脱出した歴史的ツアー皇帝権力のインターフェースとしての記憶装置が、物質
の磁場に胎動するテキスト存在でありました。
人間はたしかに自然形態を変革し情熱を発動させ、第二自然を創造する存在であ
るが同時に、第一自然・第二自然に取り込まれてしまう存在でもあります。それは
人間と物質の誕生をめぐる応答関係に有する、つまり、人間と物質はその動的中心
たる磁場において、つねに響・震・鳴しているのです。それが人間と空間の関係で
あり、これを私は場所と呼びます。おおげさに言うならば人間の心といってもかま
わないかもしれません。人間の心とは空間性にある対話精神なのですから。
クリムリンの場所でツアー皇帝権力建築様式・内部芸術様式にもっとも圧倒され
その遺伝子に、エイリアンのごとく体内に浸入され、とりこまれ、旧態系の遺伝子
をシステムとして継承したものこそ、スターリンその人だったのです。レーニンの
リアリズムと政治創造力は活力にあふれたすぐれたものでした。しかし、何故にク
リムリンを博物館としなっかたのか? その疑問が20年間あるわだかまりとして
私の中でくすぶり続けてきました。レーニン物質論には致命的な弱点が存在してい
たとことを歴史は証明しましたが、物質をめぐる思考は現在もダイナミックに進展
しています。その前衛は資本主義リアリズムのイノベーションがシステムとして切
り開いていることは間違いありません。しかしそれは人間の幸福なのだろうか?
テキスト存在と人間とは何か? それはわたしにとって場所を妄想することです。
庶民のひとりである私のテキスト存在は庶民が生き抜き、現在も生きている場所で
しかありえません。この日本ではわずか30年間の爆発的高度経済成長の生成過程
に、庶民の場所は解体され消滅させられてきたと私は妄想します。シャガールの
ように消却された場所を、執念によって記録する、私の妄想は庶民のテキスト存在
との出合いと、そこで教えられた精神史とは何か? へ向かっていくのです。なぜ
なら私の大学とは、ロシア民衆表現者のゴーリキーのように社会でしたから。
1992,12,02
遺伝子の本能自壊しわが魂は 背教者の刻印押せり
逃げてきた意志の空洞へらへらと 矛盾を呑みて己解体
自己欺瞞人民の敵残骸死 スターリン史読みわれ崩壊す
悪臭よりの生まれるうじ虫は わが分裂の心へと降り
母は言うもう終わりだごめんね 卑屈になるな! 無残なわが声
天孫のゴキブリ見下ろす部屋の王 われは従人顔歪め仰ぐ
われ殺す歌を伝えたゴキブリよ 忘れえぬpippi半導体のこえ
国の宮宣人親王第三の 精神病院父からのハガキ
日本史よ倭の悲しみは分裂のアングロ・サクソン1万年の問い
マルクスは死んだか宴青座目他 株崩落の地獄変あり
万人の闘争ここへ幽霧の 扉開けると腐れゆく地球
大蛇ゆれず風の山海われ呑まれ 悪魂眼ざせ蒼き狼
1992,12,13
テキスト存在と人間 3
これまでは場所・物質・磁場・中心・記憶・人間
をめぐる仮想現実としての抽象を、演劇的思考で
叙述してきました。今後の妄想計画は、まず芸術
をめぐる、現代の政治・経済といった表層日本を
妄想しながら、山と人間の関係性を下向していき
たいと思います。私は不断に談話室MES2のコミュ
ニケーションをとうし、いまだ面識したことがない
人間の想像世界を盗用する大悪党であります。
ある人間の固有の遺伝子は、けして一般の物語には
回収されることがない、沈黙の物語を深く沈澱させ
ております。一般の共通項たる物語はマス・メディ
アと制度によって体系化されているに過ぎません。
固有の家族史においては日本史その10世紀よりの
物語が伝承されてきたのです。日本庶民の遺伝子は
ヨーロッパ・USAにおける明確な階級社会によっ
て分析することは不可能です。日本庶民の遺伝子に
は、武士の貴族のまたは大王さえの遺伝子をひきず
っているのです。それゆえに日本大衆は世界最強の
集団であるとする吉本隆明的言説が誕生します。
何故、世界最大の暴力団「劇団・自由民主」は19
50年以降、テキスト存在を隠してきたのか?
それは明確です。日本庶民とは過去の遺伝子において
すざましい権力闘争を経験してきた支配者の遺伝子
を内抱させているからです。日本庶民とは政治的
人間なのです。その遺伝子を根源までたどると、
古代ユーラシア大陸における政治権力闘争の敗北
により、この地に漂流してきた者であります。
こうした政治的人間の遺伝子が覚醒せぬよう、「劇
団・自由民主」とマス・メディアは日本民衆を永遠に
平面知覚へと洗脳し続けなくてはならないのです。
ゆえに固有の部族史・家族史は消却されていく・・
こうしてある危機意識をもった現代芸術の先端は
おのれの固有の遺伝子を表層空間に立ち上がらせる
のです。仮想現実をめぐる闘争として・・・・
数字・直線とは人間の身体が誕生させたシミュレーション・抽象であった。
ギリシア哲学の動的中心とは、数字・直線この思考である。
数字・直線はもう一つの空間を誕生させることが可能となる。
形象文字としての漢字は数と直線によって構築された文字である。
漢字は古代中国において鉄鋳造の発展形態として誕生したのだ。
ゆえに漢字は抽象をめぐる哲学的思考をすでに半導体の記憶装置として
東アジアの歴史空間に生成してきた。
漢字を生活の動的中心とする民族・国家はつまり、数に規定されている。
つまり数がエイリアン生命体のごとく生成しているのである。
数とは抽象であるがゆえに他者存在なのだ。
しかし人間は徹底して、この数の生成の内部に生活している。
柄谷行人は「平成」は再び「昭和」が反復するだろうと予告した。
平成4年は昭和4年の大暴落の遺伝子を呼び出した。
平成11年つまり1999年だが、この年がいかなる事態になるかを
妄想するために、図書館で昭和11年の事態を調べるのも、おもしかろう。
*
数字は臨界点に達すると、一挙に転げ落ちる。だが牧歌的な日本語は、ある崩壊を日
本語によって隠し、見せ掛けのベールによって覆いつくす。ある幸福な市民生活と、あ
る自己閉塞的な仮想現実は両立している。政治的経済的システムは、ゆうまでもなく数
字こそが心臓部である。国民的な言語はこの心臓部を隠すためにある。それゆえに物語
は古代政治の語り部生成から今日まで、ある体系を持って人間の深層を呪縛する。
日本国家は6世紀から7世紀にかけて、東アジアの激動と流動そして政治的連動の迫
間で、「日本書紀」「古事記」といった強力な内部の物語を完成させながら律令制度を
完備させ政治統合思想の基礎工事を成し遂げた。当時、大王と呼ばれていた天皇一族の
出身地は北アジア・ユーラシア大陸の草原であり、その政治思想は騎馬民族のDNAで
ある。ユーラシア大陸の草原に誕生した騎馬民族は情報とスピードという実態を始めて
わがものとし、内部を外部から守る農耕民族特有のDNAとは全くその思考形態におい
て異層であるといってよい。
こうした騎馬民族征服論は第2時世界大戦において、大日本帝国が国連に敗北した敗
戦後、江上波夫によって提出され古代史学において論争を巻き起こした。その後70年
世代である私のDNAに刻印したのはなんといっても手塚治虫の「火の鳥」であった。
日本史の謎の3世紀から4世紀と現在も呼ばれ、「邪馬台国」の生成と滅亡はその場所
と時間をめぐって、今もおおくの古代歴史探求者の民衆的想像力を喚起している。鬼道
を神うらないとして扱う卑弥呼の存在は、中国の古代歴史書「魏誌倭人伝」によって言
説されているのだが、特権的に古代史を私的所有せんとする大学教授どもは、あらかじ
め外部がなかったかなように、外部たる「魏誌倭人伝」を己の内部へととりこんでしま
う。
古代東アジアの中国を中心とした戦争と内乱その政治思想から、この日本列島という
島が清潔な無菌室のようのかくりされ、女の子宮が外部たる精子を取り込み子を孕むよ
うに古代日本史が生成したとする日本天動説の歪曲の構造。現代人であるわれわれが過
去の歴史的時間・あるいは骨まで朽ちはて消滅した政治的人間と対話するとき、主体に
要求されるのは例えば「こんな日本国家、こんな世界秩序などはやくつぶれてしまえ」
といった時間意識である。そうでなければいつでも現代人はヘーゲル的思考にとりこま
れ、おのれを特権的傲慢な最後の人間として祭り上げ過去の歴史を私的所有してしまう
。重要なのはおのれの想像力がいかに妄想であれ、より歴史的に蓄積され体系化された
支配統合の政治思想としてある国家神学の物語から自由であり続けるということだ。お
のれの妄想をキープし続けること、それは他者の問題ではなく主体的な自己の問題とし
てある。この国家秩序とこの世界秩序に支配されながらも、ある物語の表出がいかに自
己と他者をだまかしながら生成するこの労働力商品私的所有構造のアトミズムのはかな
い夢としてあるこの市民社会の秩序幻想を喰い破り、協働的世界形成からの人間疎外を
回復させ民衆的想像力を主人公に上昇させることができるのかどうか。
協働的世界形成の物語を表出するものは、その追及の生成の過程に他者を発見しその
他者から教えられることを通し再度自己を発見する、ありのままの交通関係をおのれの
ベクトルとして機軸化しているかどうかが、今日の表出者をめぐる問題意識である。表
現者とは既に80年代の言葉であり、現実そのものがすでに数字言語としての半導体遺
伝子たるデジタル・ドームに飼いならされて、仮想現実がこの市民社会の秩序幻想を建
設し、人間の皮膚そのものの感覚を変貌させている現在、表現という言葉は「飼いなら
された死」でしかない。重要なのは「現」この構造を自己と他者の関係において逆転さ
せる「出」の存在なのである。
表現者とは「飼いならせられた死」の物語を巨大な仮想現実のシステムに護持されな
がら、今なを自己と他者をだまらかす物語の構造にあり、おのれの物語る表現の内容が
この90年代の他者としての世界史から見ればバブルであることに無感覚な人々のこと
である。かれらはいまだに政治的想像力のカテゴリーにある悪の論理が通用すると思い
込んでいる。政治的想像力としての悪の論理が、ある国家の体系的物語が貫徹する市民
社会の秩序幻想を覆すためには有効な方法であったのは80年代であった。しかしなが
ら89年事態とその後の東欧・ソ連邦スターリン主義国家体制の自壊は、ある世界イメ
ージとある人間イメージを確実に崩壊させたのであった。そしてあの湾岸戦争はこの現
代世界の秩序というものがいかなるものであったかをみごとに証明した。
それはわれわれ人間の皮膚感覚が類的存在としての共通性としての根源的な悲しみを
奪われ「飼いならされた死」として、この世界秩序のデジタル・ドームに培養され変貌
されていくということである。この世界秩序は民衆の世界形成への参加を奪い、そのか
わり世界秩序を担う世界システム成員たちが民衆に与えるものはただ無力感のみである
。この無力感を突破するためには一度おのれの薄っぺらな感性を崩壊の過程に投げ込み
現代世界のかたすみに生きる絶望せる人間のみを信じることである。おのれを崩壊させ
解体させることによってのみ人間は類的存在としての皮膚を再度鍛えることができる。
そこで人間は「みすぼらしい希望」を発見する。その「みすぼらしい希望」こそ199
2年・春、李恢成が世界文学に押し上げた「流域」の物語によって発見した「人間の素
心のようなもの」であることはまちがいないと私は思う。
矛盾と矛盾に引き裂かれながらそして打倒されながらも人間は生きる。この日本とい
うシステム化された島の存在内において、89年春・中国北京天安門事態から東欧スタ
ーリン主義国家体制の崩壊から、91年湾岸戦争・ソ連邦共産党自壊を思想の問題とし
て真剣に受け止めた人々は同時に、7・8世紀に誕生した反革命の国家神学としてある
天皇制の物語と徹底的に対決した人々であったことを私は忘れない。
それがこの島の人口から見れば少数者であれ高度な政治共同体とキリスト教共同体そ
れに下層労働者共同体と知識人は弾圧を受けながらも、1930年代の天皇制ファシズ
ム侵略戦争国家総動員体制に抵抗する民衆運動が壊滅されていった事実を痛苦な内省と
して、あの体系的な国家神学の物語とその儀式に対し、体を張って異議を表出していっ
た。国家神学の儀式を再び世界史に承認させることは、われわれ日本の民衆が他者との
回路を自ら切断することの他ならない。それは89年事態におけるスターリン型共産主
義の崩壊とは異層にある歴史的歴史の主体的な日本民衆の克服すべき課題なのであった
。それはたんに政治的人間だけに問われたのではなく、言葉・映像・身体によって表現
するおのれを表現者として位置ずける人間にも問われたのであり、またその表現作品を
批評することに己を位置ずける批評者にも問われていたある結節環であった。なにから
問われていたのか?それは他者としての世界史からである。今日の演劇・美術・映画・
文学・政治・経済・哲学思想の批評の貧困は、もはや己の具体的体験を言語化あるいは
体系的に言説化できずただ「ぐちゃぐちゃ」という日本共同体だけに通用する流行語に
ある気分の共通感覚をいやらしくのせようとする。そんな気分語は他者にとって理解で
きないのは当たり前である。
総体的なこの島のボロボロとなりはてた批評の貧困は、評論の伝導体制としてあった
大学が崩壊していることを教えてくれる。それは大学に行っていない私にとって嬉しい
出来事に違いないのだが、やはり日本の大学制度にとって80年代は失われた10年間
であったのだろう。もちろん私は体系的な学問の伝導体制としてある大学をいささかも
なめるつもりはない。体系的な学問に触れなかったことにより、学習の方法もしらずに
ただ動物的直感だけを武器に社会関係を生き抜いてきたが、やはり体系性と常識性を欠
落していたがゆえに、幾度も幾度も打倒されし続けてきたのである。
すでに骨まで朽ち果てた過去の人間が格闘し生成させた、ある学問ある芸術を大学と
いう伝導体制は私的所有することによって体系的な思考を訓練する。その意識の形態を
いささかもなめることはできない。この日本の市民社会の成熟とコンピューター・ネッ
トワークを基礎とする高度情報化社会の高度な知識の「現の構造」を驚嘆すべきSF社
会として私は受け止めている。
だがSF社会は映画のように実に古代の遺伝子を立ち上がらせてしまう。
半導体遺伝子の数の頂点は現在の日本史において
日本語を誕生させた日本誕生に帰還しようとしている。
意識を電話回線と半導体回路に生成させている彼らは当然にも
おのれがどこから来たのかを知覚したいだけなのである。
自己存在を教えてくれる人間を彼らは待っていたのである。
ゆえに日本金融・銀行の土地本位制度は、みごとに倒産させられた
コンピューター・ソフト会社の人間の怨の構造を甘くみないほうがよい。
私は銀行コンピューター・システムをめぐる1993年事態に恐怖する。
半導体遺伝子はすでに通貨などにはうんざりしているからである。
ゆえに通貨の数は瓦解していくのだろう。
かれらは漢字の根源たる古代に帰還しようとしている。
1992,12,13
テキスト存在と人間 4
おじゃまします。あーひ。書き込みでもしてあそびましょ。
【映像】1・・光線の屈折・反射または電気的変換によって再現した像。
2・・頭にえがき出された、ものの姿。
【表層】表面をなす層、表に現れた部分が形づくっている層。
(岩波国語辞典・第四版)
第二次世界大戦敗北以来の戦勝国による分割統治とその後の国家分断の四十五年に及
ぶ歴史に終止符を打って、ドイツは三日午前零時(日本時間八時)国家統一を回復する
。ドイツ統一によって「ヤルタ体制」の言葉に代表される欧州の戦後秩序は終わり、欧
州は対決から統合への新しい時代に歩み出す。中部欧州に誕生した人口約八千万人の経
済大国ドイツは、その成り立ちからもこの新たな欧州建設の中心的役割を担うことが期
待されている。
【ベルリン二日=雪山特派員】
朝日新聞 一九九〇・一〇・三 朝刊
一九八九年一月七日、昭和日本は「平成」へと変貌した。ある生命体の物語は反復す
ることによって生成をとげる。自己と他者をだましながら、なし崩し的に変貌をとげる
。それが日本システム成員たちの支配方法なのであろう。
インドシナ介入戦争に失敗し、ベトナムの地から叩き出されたアメリカの同盟国であ
った日本は、一九七五年以降、急速に強力な内部へと突き走る。それが反復としての日
本史なのだろう。世界史が転換をとげるとき、必ず日本システムとはアナクロニズムの
復古的な一元的価値観の内部へと表層が回収されていく。
一九二九年、ニューヨーク・ウオール街証券市場の崩壊で始まる一九三〇年代も日本
は、天皇制ファシズムとして自己完結し、対外的には東アジア、東南アジアへの侵略戦
争へと突入していくのである。世界を理解するとは他者の表層空間を認め、他者から教
えられることであるが、日本システムは凶暴な内部を他者に押しつけ同化し、他者の空
間を破壊する血液主義こそが世界観であった。
こうして小林多喜二は特高警察によって虐殺されていった。
抵抗運動は壊滅され、あたかもこれを悪意をもって望んでいたかのように、文芸復興
は感受性の私小説という内部の全面展開となり、哲学においては、近代の超克、西洋文
明に対する日本の優位性と大東亜共栄という欲望の日本のイデオロギーが京都学派を中
心に全面展開する。
恐るべき人間関係としてある表層空間と外部としてある他者との出合い、発見を、日
本イデオロギーはまず、表層空間に表出する人間社会矛盾の激突と複雑な関係を、己を
ごまかすことによって、内部の安定としての均衡を守る。次には他者を自己の血液の延
長であると思いこみ、ある内部の観念によってむきだしの表層を消却し、外部としての
ある他者を抹殺する。こうした日本イデオロギーを批判した戸坂潤は監房で殺された。
マルクスが強力な内部を持つドイツ・イデオロギーと対決し、哲学的戦闘をえて外部
へと向かっていったように、戸坂潤も強力な内部を持つ日本イデオロギーと対決し、根
を張った思想の建築の意志を恐るべき表層に表出したのである。
唯物論とはマルクス死後、エンゲルスからスターリンによって自己完結された弁証法
唯物論の絶対化ではない。人間から離れた物質そのものの内部に、すでに弁証法的運動
生成が存在すると規定するのは、物質の神学であり、ドイツ観念論の帝王ヘーゲルへの
舞い戻りである。
エンゲルスによる「フォイエルバッハ論」は、フォイエルバッハによるヘーゲル神学
批判を無用なものとして簡単になげすて、再度ヘーゲルへ回帰することによって、その
神体に物質を置き換えることによって弁証法的唯物論は誕生した。
神学校で基礎的思考方法を身につけたスターリンにとって、エンゲルスの「フォイエ
ルバッハ論」はうなづき、分かりやすかっただろう。スターリン哲学の有名な「弁証法
的唯物論と史的唯物論」を、いま読めば、そこに何が欠落しているかが分かる。
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物質世界は、人間の意識から独立して存在する客観的実存であって、意識は、この客
観的実存であって、意識は、この客観的実在の反映であるならば、ここから出てくる結
論は、社会の物質的生活、社会の存在も一次的なものであり、社会の精神生活は二次的
、派生的なものであるということ、社会の物質的生活は、人間の意志から独立して存在
する客観的実在であり、社会の精神生活は、この客観的実在であり、社会の精神生活は
、この客観的実在の反映であり、存在の反映である。
スターリン「弁証法的唯物論と史的唯物論」
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恐るべき人間の欠落である。物質世界が第一次的であり、みごとな物質の神学である
。社会に参加しこれを変革する主体としての人間の精神的諸力・自己変革能力は、スタ
ーリンの内部によって消却され、人間とは利用される対象となる。
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実践活動の基礎となるべきものは、「すぐれた個人」の善良な願望ではなく「理性」
、「普遍的な道徳」などという諸要求ではなく、社会発展の合法則性であり、これらの
合法則性の研究である。
さらにもし、世界は認識されることができ、自然の発展法則についてのわれわれの知
識は、客観的真理の意義をもつ確実な知識であるならば、ここから出てくる結論は、社
会生活も社会の発展も認識されることができ、社会の発展法則についての科学のデータ
は、客観的真理の意義をもつ確実なデータであるということである。
つまり、社会史にかんする科学は、社会生活の諸現象がはなはだ複雑であるにもかか
わらず、たとえば、生物学のように、実用のために社会発展の法則を利用することので
きる精密科学となりうるのである。
スターリン「弁証法的唯物論と史的唯物論」
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野村総研、三菱総研、あるいは通産省のマニュアル文章と全く変わりがない。恐るべ
きブルジョア・イデオロギーである。要するにスターリン哲学とは、国家生産力発展の
ために、人間を配置し利用する数理人間観にある。アングロサクソンのビジネス哲学の
焼き直しにすぎない。
科学とは数学のデータであり、それを生物学、物理学の研究成果を実用に利用し、商
品世界のイノベーションに転化するブルジョア独裁の科学に追随するスターリン哲学。
こうして強制収容所の哲学は誕生した。科学とは独裁的特権的英雄の私的所有たる強力
な内部となった。
「すぐれた個人」「理性」「普遍的な道徳」を民衆は求める。なぜならわれわれは恐る
べき人間関係が激化するすさまじいむきだしの表層空間に生活し、みすぼらしく汚い現
実を受苦し、協働の営みが存在しなければ、救われないからである。
東欧・ソ連邦の崩壊と、ロシア・東欧マルクス主義スターリン哲学による国家システ
ムの自壊により、勝利を全世界に宣言したアメリカ帝国のブッシュ。その新世界秩序と
は「万人の万人による万人の闘争世界」にほかならない。
最後の私的所有である労働力商品を売ることができぬ労働者は、街頭生活へと追放さ
れ、全世界の都市にホームレスは表出し、民族主義を掲げた内戦と現代宗教戦争は巨大
な難民を全地球に表出する。
黒人差別裁判と恐るべき映像の切断によって意味を収奪し、だましの戦術サブリミナ
ル・テクノロジーによって洗脳された白人陪審員たちの評決。四・二九怒りのロス暴動
。この大暴動の衝撃的表出こそ、二〇世紀最後の一〇年間が、いかなる時代であるかを
教えてくれる。
それはスランシス・フクヤマが「歴史の終わり」で思弁するような内部ではない。マ
ルクス主義が死んだことにより、イデオロギー闘争の歴史は終わり、「自由と民主主義
」の勝利による最後の人間の世界となる。その最後の人間とはF・フクヤマの立場から
言えば、巨大な核戦力と軍事力をもって、最貧国群とアメリカUSAを中心にした西洋同
盟にたてつく弱小国をどうかつし、全世界の弱者たる民衆を無力感の絶望に叩き落とす
。世界システム成員たちのことである。
ヘーゲル哲学とその神学に身を置くことによって、F・フクヤマは、東欧・ソ連邦崩
壊後における多国籍世界企業システム成員たちと世界政治システム成員たちの見解を表
出した。だが独裁的特権的な強力の私的所有者たる内部をもつ世界システム成員たちが
最後の人間ではない。
論理はある表層を隠すことによって生成するが、隠ぺいした事実によって逆に、その
全体の論理内部がはからずも規定されてしまう。隠されるのはつねに身体的知覚である
。F・フクヤマはすさまじいむきだしの表層空間に身を投ずることなく、世界を己の内
部へと回収し、取り込んだ。こうして解釈は誕生する。
その解釈とは一元的な思考意識知覚だ。全面的多元的な身体的知覚にくらべて思考意
識は一部分にすぎない。かくして哲学的歴史とは人間の歴史からいえば、一部分である
。それゆえに知識という特権的私的所有の内部をもつ知識人はいつでもイデオロギーの
終焉あるいはマルクス主義は死んだと宣告できる。それによって己のブルジョア・アト
ミズムとしての唯我、自己内部の優位性を確認する。
老ヘーゲルは、処女作「精神現象学序論」によって表出した変化する現象へのダイナ
ミックな運動のエネルギーへの思考を、プロイセン国家の哲学的デザイナーと生成する
やいなや、変化するものへの情熱は、変化する現象への恐怖へと変成した。こうして哲
学的歴史は終焉したとしてヘーゲルの内部たる円環に閉じられたのである。ヘーゲルは
最後の人間であろうとした。
「わが亡き後に洪水は来たれ」と私的所有たる内部を持つ人間は、悪意をもって己の死
が全人類の死であることを望む。
宗教改革戦争の指導者ルターの使命を継承したヘーゲルは、哲学改革としてドイツ民
族の国家形成に己を位置づけ、ギリシャ哲学とヨーロッパ哲学を総括し、ナポレオンの
フランス国民国家の表出に衝撃を受けながら、世界市場に対抗する強力な内部たるドイ
ツ観念哲学の体系によって、人類の思考を支配し、歴史的歴史の出来事その表層空間を
、ドイツ・イデオロギーの哲学的歴史の言語によって封じ込めようとした。このヘーゲ
ルの執念は恐るべき悪意と言わざるをえない。
その強力な内部にマルクス死後、あのエンゲルスさえも取り込まれてしまった。「弁
証法的唯物論と史的唯物論」をもって、マルクスの言説を己の内部へととりこんだスタ
ーリンは、ソ連邦国家形成にマルクス主義を利用したと言わざるをえない。天上の支配
者はまず言語を支配する。「すぐれた個人」「理性」「普遍的な道徳」は独裁的英雄の
内部たる不均衡衝動をあばき、己の内部の言説を批判する十月革命の指導者たちと、創
設以来の古参党員たちは全て抹殺される。革命後の反革命は、権力機構という強力な私
的所有たる「万人の闘争」の表出である。反革命は民衆が知らぬ間に表層空間が変貌し
ていく。スターリンの悪意は、ロシア皇帝の政治警察ツアー体制の内部を継承したと言
ってよい。
人はレーニンを批判する前に、まずスターリン哲学を検証してみることが必要である
。われわれは自己の深層と内部が自己のものであること錯覚している。しかし、それは
近代以降の国民国家システムと民族言語のシステムによって支配された物語の鉄格子に
よって閉じ込められている。実は民族言語、国民国家の公用語にはすでにDNAたる遺
伝子が存在しているのだ。かくして言語の遺伝子は、ある政治支配者が国家権力機構を
独裁化した場合、その独裁者によって千年王国の欲望が表出するのである。
国家言語の公用語とは政治権力機構によって、つねに形成されてきた。われわれは国
家権力の象徴は建築群であると錯覚する。だが違うのだ。国家権力の象徴とは言語建設
である。千年王国の欲望はただ言語支配によってなしとげられる。
スターリンの内部はロシア帝国とツアー支配体制が建設したロシア語の遺伝子、隠さ
れたウイルスによって犯されてしまった。抑圧されたグルジア出身者であったからこそ
逆に、その執念がソ連邦の皇帝として複雑な民族問題を、アングロサクソンのビジネス
哲学の合理主義によって線引きし、強権的にかたずけた。民族の牢獄は解放されたかに
みえたが、近代的工場制度に収容されたにすぎなかった。ブルジョア・イデオロギーの
極限は社会主義建設の名をかりて、前面展開した。何という悪意であろう。
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諸君、我々はかってのロシアの国旗を復活させる(大歓声)。権力を奪取しようとし
た冒険主義者のグループは逮捕された。ロシアとわが国の発展の方向を急激に変え、ロ
シアを圧政にゆだねようとした連中の試みは失敗に終わった。=略=
わが国は内戦の瀬戸際に追いやられ、全体主義の復活が試みられた。数時間の間にう
そ、欺まんが蔓延し、国民は非常事態国家委員会を支持し、歓喜している、という悪質
なデマが国中に流された。グラスノスチ(公開性)も踏みにじられた。スターリン主義
時代でされこのような厳格な検閲はなかった。
エリツイン大統領演説【モスクワ支局】
一九九一年八月二十二日 朝日新聞
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こうしてソ連邦と巨大な組織であったソ連共産党は崩壊していったが、その残骸から
よみがえったのはロシア帝国のDNAである遺伝子だった。強力な内部をもつロシア・
イデオロギーは七十二年間の社会主義体制でさえも克服されなかった。そして今ではあ
の十月革命さえも無意味化されクズのように投げ捨てられる。
もし、一九一七年の共産主義革命が起こらずに帝政が続いていればロシアは現在より
も高度に発展していたとする言説は皇帝政治時代へのノスタルジアである。ドストエフ
スキーによって表出されたロシア・イデオロギーの悪霊は世界史そのものをクズと化す
のか?ゴルバチョフもエリツインも己がスターリン主義者として生成したにもかかわら
ず、省察はない。それはアメリカUSAや日本の政治支配者たちが、全く己の表層そみる
力を失っている空洞に類似する。
ロスアンゼルス大暴動の衝撃によっても、権力機構を私的所有し、一度その快楽を味
わった者は、現実という表層空間をみることはできない。ブルジョア・イデオロギーと
は常に自己を肯定し、自己の都合によって現実世界を解釈し、己の内部へと回収しとり
こんでいくから。
矛盾を全面的に受ける、受苦的存在としてのわれわれ民衆の現実はあまりにもみすぼ
らしい。権力機構からみれば、きたならしい存在であろう。悲しいかな労働力商品を売
りその私的所有の内部をもち、経済民族主義に組織化される。現代において団結してい
るのは労働者階級ではない。多国籍世界企業を中心とした世界システム成員たちのネッ
トワークこそ、より強力に団結している。
「万国の労働者・被抑圧民族よ団結せよ」のスローガンは今日「万国の資本よ万人の闘
争を表出せしめよ」にとって変わり、民衆の世界イメージはズタズタに切断され、世界
はクズとなり破滅するかのようである。第三世界に希望がみえた時期があったが、各個
撃破され、世界システムに封じ込められている。
最貧国群の経済破綻と十億人が餓死寸前に追い詰められている表層空間。東欧旧ソ連
邦各共和国の計画経済から市場経済への変成は、己の自壊を促進するにすぎない。ユー
ラシア大陸のアフリカ現象。こうしたむきだしの地球から、なおかつ収奪をはかるG7
富者の国家。そこに住むわれわれこそスターリン主義者なのだと言わざるをえない。わ
れわれの内部は表層の犠牲のうえに悪意をもって生成する経済民族主義者なのだ。人間
を利用するスターリン哲学の強力な内部に閉じこめられている。
スターリン哲学とは産業革命後の近代合理主義を表出し、人間とは機械の戦略的部品
であり、科学とは数学のデータのことである。物質の神学はこうして人間の脳天に数を
埋め込む。
国際資本主義の極限を突き走ってきた日本システムこそスターリン国家体制の千年王
国であろう。そのむきだしの生産力第一主義。監獄と化している学校教育制度。過労死
、自殺者を次々と表出させる強制労働収容所の企業群。住民を追い出しあるいは光景を
たちまちのうちに変貌させるスターリン建築群の誕生。その巨大高層ビルの内部こそス
ターリン哲学の悪霊がうごめいている。
弁証法的唯物論は弁証法的唯数論にとって変わり、史的唯物論は史的唯数論となり、
全ての価値は数の生成にある。人間は数の獣となり、物質・商品・通貨の獲得こそが己
の強力な内部、深層となる。一分、遅れてきたというだけで学校の武装鉄扉は収容所監
視官によって、凶暴に閉められ、門に閉じ込められた少女は無情にも圧殺されていく。
事件が表出するとマスメディアのゴキブリどもが群れをなして押しかける事大まつり
。己の前で殺人が行使されているにもかかわらず、これはニュースになるぞと、テレビ
小型カメラを回す。シャッターを切る。これはスターリン収容所の時間だ。強制収容所
ではとなりの人間が死のうと無視した。、まず己が生き延びることが絶対的条件だった
のである。収容所監視官はそのように収容者を分断しバラバラにして管理していた。そ
して映像と言語は自己と他者をだましだまされながら生成をとげる。何故なら映像と言
語はあらかじめ編集され操作するサブミナリ・テクノロジーの生成をとげる。強制収容
所の悪意と不信の充満こそ、九〇年代の日本システムに生活するわれわれの表層空間だ
。マスメディアがたれ流す情報とは、あらかじめスターリン体制による強力な内部で編
集された仮想現実のことである。
人間が介入する以上、映像・言語の客観的実在などではない。例えばロスアンゼルス
大暴動の発火点になた黒人差別裁判をみればよい。警察官による、ロドニー・キング氏
に対する集団殴打事件の裁判では唯一その映像が証拠物となり、陪審員たちに一コマ一
コマ動きが止められ見せられた。そして解釈が加えられる。ロドニー・キング氏は暴れ
たから警察官が殴打したのだ。こうしてだましの言語は、アメリカの白人社会のDNA
たる遺伝子言語に訴え、深層内部からある意識を呼び起こす。「やはり黒人は恐ろしい
存在だ。警察官が集団で殴打したのは当然の行為。これは暴行事件ではない。悪いのは
従順ではないロドニー・キングだ」。こうして奴隷制度によって富をえた白人DAN言
語はおそるべき表層に表出する。その強力な内部深層に他者は存在しない。
スターリン哲学の言語論は、広告産業が開発した技術、メディア・レイプとしてのサ
ブミリナル・テクノが自己完結したと言ってよい。スターリン哲学とアメリカ・日本の
ハイ・システム哲学は同じ親から生まれた兄弟なのである。
スターリン哲学とその体制から自分は自由であり、そんなものは別世界であるとする
人間ほど、おめでたい存在だ。近代文明とは数学文明のことであり、コンピュータデジ
タル数字言語の生成はこれを自己完結する。科学の担い手は多国籍世界企業と国際資本
主義であり、プロレタリアはその労働力商品と消費者であり、科学の受動者である。科
学の能動者は資本主義システム成員たちであった。ありのままの労働者階級が科学の担
い手であると思い込んではならない。科学とはつねに独裁者たちによって私物化され所
有されてきた。
科学の手段をもたない、みすぼらしいわれわれ貧乏人はマルクスがその道を歩んだご
とく、神学批判から己が使用する言語を支配する日本イデオロギーの強力な内部から思
考を脱出させ、経済学と格闘することによって、はじめて科学に接近できる。この社会
で前衛とは、科学の担い手資本主義システムが表出する言語・数貨幣である。前衛を走
る資本システム成員たちが、表層に表出する経済の数を手がかりに、マルクス主義者た
ちは現代世界を分析する。だがこれは科学ではない科学に接近する行為なのだ。
人間の情熱から離れた客観的真理たる科学など実存しない。そこには必ず人間の主観
、人間の行為が介入する。対象に投機する人間の情熱と対象の応答関係のうえに始めて
われわれは真理に接近できる。人間関係、対象関係そのすさまじい表層に表出するおそ
るべき真理を、人間は私的所有たる内部深層へととりこもうとする。こうして解釈は誕
生する。だがその人間の解釈とは彼の内部の願望を表出しているにすぎない。
九一年、世界に表出した出来事を、解釈、講釈をのたまわった大学教授どもや評論家
どもはテレビ出演し、そのまつりごとを解釈しただけで、己の銀行口座に多額の金がテ
レビ局から振り込まれる。
その仮想の「自由主義」的映像と言説、戸坂潤が日本イデオロギー論で批判したよう
に彼らはあらかじめ己の内部に解釈方法を私的所有としてもち、「文化的にもっともら
しく、また進歩的に円滑にさえ見せるために工夫し出されたメカニズム」によって講釈
をたれる。
彼らは映像という仮想現実のイメージを利用して、己の内部にとりこみファンタステ
イックにつくりあげたSFとSM物語を使い分けながら己の感受性によってつくりあげ
たシナリオ・イメージをそのまま哲学的論理的概念まで見せたとして仕立てテレビ映像
の事大まつりにコメントする。
つまり日本の国会における証人喚問その静止映像こそ、現在の映像の全てを物語りテ
キスト存在を隠す、豊臣秀吉の刀狩りなのである。人間の表情とは感情世界のテキスト
である。日本庶民が権力者システムの表情を読み解く、能力が鋭いからこそ静止
映像でテキスト存在は隠さなければならない。こうして映像技術はいくら高度になろう
が、制御され編集されてテレビ電波に変貌する。それは日本マス・メディアも都合
がいいからである。
少年ジャンプの巨大発行量と国会静止画像中継は、平面知覚において、連結・連動
している。まんがを見てさえいれば、テレビを見てさえいれば、思考という苦痛から
逃亡することができる。テキスト存在とは固有の場所と磁場・存在にあるのだが、自分
にとって、最大のテキスト存在はおのれ自身である。自己自身との対話・対決ほどに厳
しいことはない。こころの空間とはもう一人の自己であり、自己身体の起動装置
なのである。こうして私は狂人として生成してゆく。おじゃましました。
1992,12,16
テキスト存在と人間 5
いやあ、一方通行のマスターベーションも
疲れちゃたよお。もうネタぎれだあ。
それにしても、このあいだ、駅のトイレで
あるサラリーマンの鍛えられた、きんたま
のぞきみたんだけんど、家庭の大黒柱の
きんたまは力強いよねえ。それに比較すれば
おらの少年のような、包経じゃ、テキスト
存在になれないと、悟ったよ。つらいね。
それで、この連載投稿も中止することに
したよ。どうもいろいろご迷惑をおかけ
しました。カオス館の流れを切断しちまって
ごめんなんしょ。おらも、おちょこちょい
だもんで、場所をまちがえてしまったよ。
それではよい新年を。
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羅針盤 「ニセの証人喚問」
静止画像となったことで、真実を欺きやすくなり、証人たちは堂々とパフォーマ
ンス(演技)することができるようになった。まさに「喚問」は、シナリオ通り演
出された国会:劇:における:劇中劇:と化した感がある。
マスコミはこれまで、この報道規制に徹底して抵抗してきたと主張してきたが、
果たしてそうだろうか。
これまで「喚問」の静止画像は中継している現時点の映像をストップ・モーショ
ンさせているものだと思っていたが、真相は、「喚問」の二日前に質問者は全員呼
び出され、カメラの前で質問するカットをいろいろな角度から撮っておくというこ
であった。私たちが見せられたものは、二日前の「やらせ」以外の何ものでもなか
ったのである。放送局に問い合わせたところ、「慣れていない議員さんを考慮しての
ことで・・・」とのこと。まさにマスコミはニセライブ(生中継)を提供していた
のだ。これでは:劇中劇:になるのも当然といえよう。
私たちはニュース全盛の時代にあって、映像となったものを真実と信じてしまう
傾向から、いまだ脱し得ていない。 (憂駿)
1992,12,17 聖教新聞 文化ページ
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いやあ、思いがけない宗教新聞から、おらの妄想が立証されてしまったよ。
いつもおら、駅のゴミ箱から新聞とか雑誌を収拾する情報人間だもんで、この新聞
を拾い、この文章を読んだときは嬉しかったねえ。やっぱり日本マス・メディアと
世界最大の暴力団「劇団・自由民主」はつるみ・からみの劇中劇をやらせライブし
ていたんだねえ。高給ボーナスおめでとうございます。これからも、精いっぱい、
われわれ貧乏人・庶民を「やらせ」で、だまくらかしてくださいね。マスコミの皆
さま、騙しの地平はさぞかし快楽でしょう。電波・巨大新聞はたいしたもんだよ!
次から次へと大量消費するが残骸には死語しか残らない。日本マスメディアの事
大まつり情報洪水合戦では、イメージとイメージをつなぐ解釈用の論理こそ何より
も都合がいいからである。
テレビ事大まつりの役者として出演する大学教授や評論家どもは、テレビ局から
己の銀行口座に振り込んできたギャラの商品値段を見て、私的所有としての内部の
特権的優位性を確認する。テレビ映像のフレームに閉じ込められた奴らの顔はとて
つもなく明るいのだ。
大学教授どもや評論家どもがマスメディアから,どうでもいいような解釈を多額
で雇われるのは、地球の表層に表出する人間関係の出来事を日本イデオロギーの内
部にとりこむためである。他者は日本イデオロギーにとって芸者だ。外国人芸者が
日本舞踊でもすれば飛び上がって喜ぶ。
リクルート事件からマフィアもからんだ証券・金融スキャンダルから共和・佐川
急便スキャンダルは、こうした日本イデオロギーの内部と構造をあますことなく証
明している。機構としての日本スターリン哲学と体制は、大蔵省・通産省の高級官
僚や自民党一党独裁政権にマフィア経済がつるみ、統制政治、統制経済の日本シス
テムを形成しているのだ。
「日本は社会主義システムだ」とロシアの政治家は言ったが、他者からこう見えて
も不思議はない。ジョージ・オーウエルの「一九八四年」世界は日本システムの表
層に表出している。だからこそ欧米のSF作家は日本に注目する。協働社会として
の人間らしさを失い、システムのみが生コンクリートのポンプのごとく巨大な音を
たて、ズッコンズッコンと型枠に送り出される。こうしてスターリン形式の建築は
日本列島を支配し、上空をデジタル言語のドームでかこいこむ。世界の出来事が日
本上空に情報として入る。だがその表層は内部へととりこまれ、映像と言語が、わ
れわれみすぼらしい民衆にとどくときにはすでに、仮想現実として誕生したスター
リン情報なのだ。
映像と言語が客観的真理を反映しているなどというのは嘘である。映像と言語は
人間の内部・主観と、あるイデオロギーによって編集され情報化される。高度情報
化社会が民主主義体制であると錯覚するのは人の自由であるが、あるシナリオによ
って編集され操作され、民衆の意識を画一化するためのスターリン体制であると九
〇年代の映像は表出する。
テレビ・ゲームのごときに編集された湾岸戦争ポイント爆弾の映像。これはアメ
リカ統合軍参謀機構の内部、悪意にみちたあるイデオロギーによって、全世界のマ
スメディアに提供されたのである。戦争そのものはすさまじい表層空間は彼らの内
部によって隠ぺいされる。
ウイルソン・ブライアン・キイが笑顔の洗脳としてのサブリミナル・テクノロジ
ーをバクロした「メディア・レイプ」リブロポート出版 鈴木晶 訳 を読めば、
ロスアンゼルス大暴動の発火点となったある映像の解釈が表層の事実を殺し、全世
界の人々が信じられぬ仮想現実の判決言語は、ここに九〇年代高度情報化社会とは
スターリンの悪意によって構造化されていることを教えてくれる。
「もはや正義・倫理などは崩壊している」こうして民衆は無力感のどん底に突き落
とされるスターリン体制の悪意のもとでは世界イメージ・人間イメージは解体し崩
壊する。この無力の時間は強制収容所での絶望の時間に連鎖している。マルクスが
いう野蛮な時代に生きているわれわれは本物の土壇場にいる。
それは人間の皮膚をめぐる表層が根底的に転覆されているにかかわらず、意識は
いまもなを、古代部族神話物語に呪縛されている深層との同一性にある。人間の深
層・内部とはやはり、限りなく制度・秩序に規定されている。自己の内部を人間は
自己のものであると、錯覚をしているに過ぎない。
自己内部を自壊させることによって、人間は始めて、表層を発見することができる。
表面とは空間であり、政治・経済とは生活の日常の延長である。その表面には固有
の人間のさまざまなこころの空間が、いくつもの層になって重なり、複合している。
人間の想像力は非日常に立ち上がりながら、この表層を記録するのである。こうし
てテキスト存在は現在のゆらぎと格闘その建築の意志によって、表出する。なぜな
ら創造作品とは、もうひとつの人間の建築であるからだろう。柄谷行人「マルクス
その可能性の中心」講談社学術文庫 によって私は表面への思考こそが、空間をめ
ぐる数の生成としての動的中心であることを、教えられた。
1992,12,21
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/8479/kaosu1.html