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(回答先: Re: 理念や主義で現実を裁断してしまうことの恐さを思い知らされています 投稿者 エンセン 日時 2003 年 11 月 03 日 01:22:32)
> その「精神をずたずたにする」ほうがタチ悪いのですがね。
というエンセンさんのシメに書かれている言葉に釣られてしまいました。
例のフォーラムと、それにまつわる色んな方の意見を読みました。
基本的にはあっしらさんのおっしゃっている事にほぼ同意しています。
あっしらさんwrote
>彼らが作為や謀略ではなく心底からあのように考えていることが、より多くの人を惹きつけるはずです。(作為的な匂いを感じるとそこから疑いが発生しますが、一途なものには惹きつけられてしまうものです)
エンセンさんwrote
そうなんでしょうね。
不思議なのは、例えば、あっしらさんや、竹中半兵衛さん、クエスチョンさん、うぃるさん、退院迫るさん、そして私(エンセン)のように、このフォーラムに関しての投稿に反応された方たちは皆、冷静は判断をしています。
そしてあの行動を批判する立場での発言内容のようです。
であれば、どうしてあのフォーラムには、我々のように冷静に考えて、あの暴挙のような行動を抑制・止める人がいない(いないように見える)のでしょうか。とても不思議に見えました。
これは「同調圧力」じゃないですか。
フォーラム掲示板の書きこみの抜粋を見ていて思いましたけれど、やはりフォーラムの趣旨に合わない人間は排除されるか、居心地悪く感じるんじゃないですか?
だからそういう人が去る、止める人がいない、と単純になると思います。
で、よくわからなかったのは、司法の判断や検察、警察の調べに対しての訴えも別におこそうとしないで、被害者の父親に「真実追求」なるものの矛先が向ってしまっていることろです。少し変だという気がします(たとえその被害者の父親が、本当に犯人だったとしても、とるべき順序はあるはず)。
ですから、読んでいくと感じるのは「言葉が宙に浮いてしまっている」ような感じです。
本来的にAくんが冤罪ではないのかという推論から事実を検証するのならば、むしろ苦しんでいらっしゃる被害者のご両親の了解と理解を誠実に求めてから、これらの事を考えていく事が必要であるように感じました。それは決して簡単な事ではありませんが。
ここの「真実究明」が次第にカルトになっていくのは、彼らが何かを「信仰」しているというよりも「崇拝」しているのではないでしょうか。
「信仰」しているだけならそれは個人の問題ですから、別にそれを他の人がするもしないも自由だろと思います。ただ、私の中で、他人にまで自分たちの思考経路を強要するこれはもはや「信仰」とは言いがたい感じがします。
でももし「崇拝」しているなら疑問をさしはさむ余地はありません。それだけが絶対にただしいと崇め奉ってしまうと、「崇拝対象」に疑問を差し挟む事がそもそも考えられないからです。
そして「崇拝」することで事事実の検証を省いてしまうと、簡単に「真理を知っている」人に「隷属」するという構造を生むと思います(これはキライです)。これが垣間見える点にフォーラムの姿勢の異常さを感じます。
もし彼らが本気で「真実」というものに近づきたいと思っているのならば、他者から見ての検証を必要としていると思いますし、たとえ異論があったとしてもそれを積極的に排除する事はないと思うのです。
自分たちの予期する所からはずれていても、論を軌道修正して検証を再度行えばいいのですから別にどうという事はないと思います。
ところが、これらの推論などに疑問を差し挟む事を途中からフォーラムは拒絶しているように見えました。嫌悪感が先に立ってしまって、疑問を差し挟む事そのものが「悪」にされていきます。疑問を持つ人は「同調圧力」からはみ出てしまうので、当然ここには残りません。
実に不思議なように感じられるかもしれませんが、日常的に良くある事のような気もします。そしてこの種の気分の動きから醸成されるまっすぐで純粋な感じを装った物言いが他人に与えるダメージは、肉体を傷つけるよりもさらにひどいものだと思っていますので、
個人的には好みではありません。
「人道」という言葉を振りまわしている人があまり好きではないのはそのせいかな。