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【特報】安倍幹事長に北朝鮮問題で「重大矛盾」の過去
〜菅直人、土井たか子を批判する「資質」を問う
NHKで2日夜、放映された各党幹事長の政治討論会で、自民幹事長の安倍晋三氏は北朝鮮拉致問題に関し、日本人拉致実行犯の元北朝鮮工作員・辛光洙(シンガンス)を含む政治犯釈放運動で、菅直人氏や土井たか子氏が韓国大統領に釈放を求める要望書を出したことを取り上げ、再び批判した。拉致問題で一躍ブレイクし、幹事長ポストまで手に入れた安倍氏の自負をのぞかせる言動だが、その安倍氏、自分の過去の「罪」は棚上げにしたままのようで‥‥。晋三氏は父親の晋太郎外相(当時)のもとで外務大臣秘書官を経験したが、その際、結果的に「北朝鮮スパイ」の釈放運動に「加担」した“過去の事実”についてはすっかり忘れてしまったらしい。(ベリタ通信=山内あきら)
朝日新聞の記事によると、安倍晋三氏がこの問題に最初に言及したのは、拉致被害者5人が帰国してまもない昨年10月19日。安倍氏は広島、岡山両市で講演し、北朝鮮による拉致事件をめぐる民主党の菅直人前幹事長、社民党の土井党首の過去の対応を取り上げ、「極めてマヌケな議員」と名指しで批判した。
安倍氏は北朝鮮が認めた原敕晁(ただあき)さん拉致事件の実行犯とされる辛光洙(シンガンス)容疑者に関し、「(85年に韓国入国を図り逮捕された辛容疑者を含む政治犯の)釈放運動を起こし、盧泰愚政権に要望書を出した人たちがいる。それが土井たか子、あるいは菅直人だ」と述べ、「この2人は、スパイで原さんを拉致した犯人(辛光洙)を無罪放免にしろといって要望書を出したという、極めてマヌケな議員なんです」と批判。さらに「彼らはまず、それを反省するべきではないか」と批判していた。
だが、いまをときめく安倍晋三・自民党幹事長――。かつて自分たちが「北朝鮮スパイ」の釈放運動に関わっていたことにはまったく触れていない。
1984年4月25日の衆院外務委員会審議録を見ると、日本社会党の土井たか子議員が、韓国の在日韓国人政治犯の釈放に向け日本政府の尽力を求めたことに対し、安倍晋太郎外務大臣(当時)は、「私も外務大臣となって2年近く、韓国の外務大臣や要人と会うたびに、この政治犯の取り扱いについて人道的な配慮を加えてほしいということをしばしば申し入れて、今日に至っている」と述べ、「内政干渉にわたらない範囲内で人道的配慮を韓国政府に絶えず求めていきたい」「この7月に行われる外相会談でも、(土井)委員の要請を十分踏まえて対応する」と答弁していた。
これらのやりとりを受け、ソウルで行われた同年7月6日の日韓外相会談では、日本側から韓国で拘束されている在日韓国人の政治犯について関心を示し、人道的見地からの配慮を要請。李外相は「韓国の司法、保安の問題だがご希望には留意する」と回答した。(7月7日付、朝日新聞夕刊)
問題は、このとき要望にあげられた在日韓国人政治犯の中に「北朝鮮のスパイ」と目される人物が含まれていたことだ。安倍外相は当時、そうした事実を知らなかったと思われるが、その後、この事実は複数の関係者によって証言されている。
関係者の一人、元朝鮮総連幹部の張明秀氏によると、その人物は現在、京都の私立大学で教授をつとめる徐勝氏という。在日韓国人の徐勝氏は弟の徐俊植氏とともに、北朝鮮の工作船で北朝鮮に上陸後、工作員としての教育を受け、韓国に留学し、71年4月、「学園スパイ事件」で逮捕された。19年後の1990年、徐勝さんはソウルで釈放された。
張明秀氏の著作『徐勝「英雄」にされた北朝鮮のスパイ』(宝島社)によると、徐勝氏は1967年8月、北朝鮮に初めて入国し、約3週間にわたって乱数表や暗号の実習などのスパイ養成教育を受け、同年9月10日、夜中12時に能登半島の海岸に上陸したという。北朝鮮の工作員との合図は、小石を鳴らす信号だったという。
この書物は1994年12月に発刊されているが、張明秀氏によると、その後、徐勝氏からの抗議は何もなかったという。
さらに、元朝鮮総連・財政局副局長、韓光熙氏の『わが朝鮮総連の罪と罰』(文藝春秋、2002年)でも「学園スパイ事件」のくだりが登場し、「(この)事件が(韓国CIAによる)デッチ上げなどではなく、我々とはまったく別の指令系統による留学生スパイ浸透事件であるとようやく私が気づいたのは、それから4年か5年経ってからのことであった」と、徐氏が北朝鮮のスパイであったことを認める記述をしている。
つまり、当時の安倍晋太郎外相は、最近になって息子の晋三氏が「マヌケ」と評している土井たか子議員(当時)の要請にこたえ、「北朝鮮のスパイ」を釈放するために尽力したことになる。このとき、晋三氏は、父晋太郎氏のもとで外務大臣秘書官の立場にいた。つまり、晋三氏が、直接あるいは間接にこの問題に触れていたことは明らかだ。
しかし、この問題で、晋三氏が父親の晋太郎氏に抗議したとの話を耳にしたことはない。晋三氏が父親の外交記録を編纂した『吾が心は世界の架け橋 安倍外交の全記録』(廣済堂、1992年)を手にしても、「日韓新時代を開く」との自慢めいた見出しは目についても、晋三氏が異議を唱えたとの記述は皆無である。
その安倍幹事長が、民主党の菅直人代表の署名を指して、「マヌケ」と評した。安倍氏はまずみずから、「私(あるいは父親)は、(菅氏や土井氏より)もっとマヌケだった」と反省すべきではなかろうか。
安倍氏は昨年10月21日の記者会見でも、「広辞苑を調べたら『マヌケ』は『ぬかりがある』ということ。(菅氏らに)確かにぬかりがあった」と批判を重ねたが、「ぬかりがあった」のは、むしろ、自らの行動を省みることのなかった当の安倍氏だったのかもしれない。