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(回答先: 石井紘基衆院議員と2・26事件 投稿者 なるほど 日時 2004 年 1 月 10 日 10:40:48)
反軍拡・利権阻止の石井紘基議員はなぜ刺殺されたのか。
2002−10−25
1932(昭和7)年、昭和維新を掲げて元日銀総裁の井上準之助と三井合名会社理事長の團琢磨を殺害した血盟団事件に連座した四元は、服役中に「組繊には核心があり、会社には社長、国には首相がいる。どんな組織でも、その一人の決断と指導力の出来、不出来で栄えもし、滅びもする」と考え、出獄後、近衛文麿、鈴木貫太郎両首相の秘書をつとめた。戦後も吉田、池田、佐藤各氏ら歴代首相の知遇を得た。 戦後歴代内閣と深く関係し、安岡正篤らとともに元首相・中曽根康弘の陰の指南役とも言われた。中曽根氏は著書で、四元義隆氏(93)という人物を「政治相談役」としている。中曽根氏は首相になる10年余り前から四元氏のもとへ通い、首相在任中は官邸にも招いた。
日比谷で幣原内閣打倒を叫ぶ7万人集会が開かれ、鳩山一郎が右翼の児玉誉士夫と組んで反共演説をぶつという、全土騒乱の時代であった。この時代に、幣原内閣の秘書をつとめていたのが、数々の週刊誌で「東京二信用組合救済計画を仕組んだ男」と噂されてきた右翼の政商・四元義隆であった。
四元は、三幸建設工業を経営する社長として、政財界に隠然たる勢力をもつ大物右翼とされてきたが、鈴木進とは戦前からの知り合いで、鈴木進・紳介親子が経営する安全信用組合の理事にも就任していた。それは、安全信用組合が、創業時から三菱財閥によって経営されてきた金融機関だったからである。つまり、幣原喜重郎の妻は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の娘であった。
まず三菱財閥の岩崎家があり、その娘ムコ・幣原喜重郎の秘書が、のちの政商・四元義隆であった。そのため、四元が三菱財閥の安全信用組合の理事に就任した。また、幣原喜重郎の息子の姪が、鈴木紳介と結婚したため、鈴木が理事長となって、高橋治則と共に95年に逮捕されることになったのである。
「、、、電力会社は、平岩外四が電事連の会長をつとめた時代に、電気料金の甘い利益だけを吸いあげようとする無責任な企業方針を推進することになった。
平岩外四は、泉井事件では石油公団の顧問やアラビア石油の監査役として暗躍している。また東京二信組破綻事件では、右翼の政商・四元義隆と密談してイ・アイ・イ高橋治則の救済に暗躍したと噂された通り、表の顔とは別に、明らかにいま述べた三菱軍事財閥の小番頭役をつとめ、院政をとりながら日本の裏の世界で動いてきた。、、、」「日本最大の官僚組織・電力会社と軍需工場・三菱重工・広瀬隆著」
『暗殺』松本清張他
、、、平民宰相原敬内閣は、はじめこそ言論圧迫をひかえ、争議干渉を避けていたが、やがて官憲による争議介入が多くなった。
争議対策として打ち出されたのは、治安維持法に先駆する政令「政治に関する犯罪処罰の件」であり、その二は労資協調をはかった協調会の設立であり、その三は、反動的な暴力団の育成である。すなわち、内相床次竹二郎のキモ入りで全国の侠客を集めて結成された大日本国粋会がそれである。
床次の故知にならった政治家が戦後にもいる。元保安庁(防衛庁の前身)長官だった木村篤太郎で、彼は昭和十八、九年ごろ、左翼勢力に太刀打ちするために、全国のヤクザ、テキヤを国粋会の傘下におさめこれを右翼と称した。
安保闘争の時、このヤクザ右翼は大いに活動して、デモ隊の向こうを張った。戦前からの右翼には、動員カはほとんどない。ヤクザ右翼にはナニワブシはあっても理論はないが、全国にかけてのその組織的動員力は、無視できない。
ともかく、単なるヤクザを、右翼というもっともらしいものにつくりあげたのが有力政治家なのだから恐れいる。それほどの規模のものではないとしても、山本宣冶代議士を計画的に刺殺した七生義団がうまれたいきさつを見ると、同工異曲のものが感じられる。
2002・10・31
「Forbs」東京支局長
「日本の不良債権の半分はヤクザがらみ」
『敗因を衝く 軍閥専横の実相』 田中隆吉著(中公文庫) より引用。
、、満州事変発生以後特に三国同盟前後より観念右翼の跋扈ははなはだしかった。
彼らの多くは口に天下国家を論ずるも、概ね時の権勢に阿付迎合してその衣食の資を稼 ぐを常とする。故に一定の職を有せずして、自ら浪人と称する彼らの私生活は意外に豪奢 である。そのあるものは常に羽二重の五つ紋の羽織を纏って白昼堂々と大道を闊歩する。
口を開けば国家の安危を語り、意に充たざるものあるときは脅喝と殺人をもあえて辞せぬ」
「日中戦争特に三国同盟の成立以後においては、彼らの多くはわが国の政治経済の実権を 掌握せる軍部に近づき、これに阿付迎合した。彼らの衣食と運動の資金は概ね軍あるいは これと連絡ある実業家の手によりて供給せられた」
「大東亜戦争の勃発に際し、軍部の内意を受けて、無知にして善良なる国民を煽動せるも のは主として彼らであった。中にはドイツ大使館より莫大なる黄金を運動資金として提供 せられたるものもあると伝えられる」
「内地における観念右翼に比し、さらに悪質なるものは大陸に進出せる右翼である。彼ら が一部の政治軍人と結託して中国民衆を搾取し、その私服を肥やせることは天下周知の事 実である。中には巨万の富みを蓄えたるものすらあるとの噂もある。口を開けば天下国家 を論じ、定まれる職なくして巨万を蓄え得るとすれば、かって何人かが「乞食と右翼商売 は三日すれば止められぬ」と皮肉った言葉は、けだし適評と言わねばならぬ」
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八紘一宇の正体
”最近公開されたアメリカ国務省の機密文書によると、CIAが自民党に対して政治資金を提供し、岸内閣の佐藤幹事長が受け取っていた。日本の政治はアメリカの資金で動かされていたのだ。日本政府が米国の諜報機関に操られた事実は、1995年3月20日のLA・タイムス紙上で、マン記者が1ページを使って解説している。
自民党の前身である自由党は右翼・児玉誉士夫が戦時中の「児玉機関」(陸軍特務機関)で得たばく大な秘密資金をもとに創立された。
児玉誉士夫は一九四五年一二月四日、京橋区木挽町五ノ二、上海ビルの事務所で記者会見して次のように語った。
「自分は紛れもない戦時利得者だ、大東亜戦争開始の昭和十六年十二月から終戦時までの問に児玉機関が海軍に納入した物資は三五億円に達した、終戦当時の財産は中国に工場、倉庫、蒐集資材、見返物資等で約三二億円、朝鮮銀行に五百八十万円等がそれぞれあったが中国の三二億円は海軍を通じて中国軍に接収された、大蔵省を通じて中国から移入した一億余円の資金のうち七千五百万円は溝久、鐘打、水鉛、乙女、鮎川各鉱山の開発に投資した。残額二千五百万円は鉱山の跡始末と復員軍人救済育英事業その他に投出し現在手許にあるのは五百九十万円であるが、これを悉く労務者住宅、公衆食堂その他社会事業に投す」 (『毎日新聞』一九四五二二・六)。また『読売報知』は次のようにいう。「″戦争は儲かるものである″侵略主義者はさう思ってきた、なかでも僅か三五才の無一文の一青年年がたった三年間に三三億円といふ天文学的数字に近い巨大な富を築きあげた実例は世界戦争史上にも稀有のことだろう、、、、四五・十二・六」
有事法制が右翼にとってどれほど美味しいかを児玉はみごとに体現している。
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暗殺論 (1901年6月)(万朝報 一九〇一年六月) 幸徳秋水
、、、社会が判断と制裁の力を喪失せるは、其腐敗堕落の膏こうに入れば也、彼等は公義を知らざる也、公益を見ざる也、有る所は唯だ自己一身の利慾のみ、権勢のみ、彼星なる者の為す所、自己に利なれば則ち之を誉めんのみ、自己に不利なれば即ち之を罵らんのみ、如此にして何の判断、何の制裁あることを得んや、絶望者の出づる実に已むべからざる也、吾人は恐る、社会の腐敗堕落が今日の勢にして滔々底止する所なくんば、独り一の暗殺者を出すに止まらずして、将来多くの虚無党を出し、多くの無政府党を出すに至るやも、未だ知る可らず、是れ猶お腐敗せる食物を食うて、急劇の下痢を催すが如きのみ、寒心す可らずや。
夫れ然り、単に軍人を罵るは戦争を防止する所以に非ざる也、単に労働者を責むるは同盟罷工を防止する所以に非ざる也、単に暗殺者を攻撃するも、今日の社会の腐敗堕落を救治し、其判断と制裁との力を恢復するに非ざるよりは、豈に能く暗殺の迹を絶つことを得んや。
然らば則ち腐敗堕落を救治する如何、他なし今の経済組織を根本的に改造して、衣食に於ける自由競争を廃滅するに在り、而して生活の困苦を除去して金銭崇拝の気風を掃蕩するに在り、而して万民平等に教育を受くるの自由を有して、社会的智徳を増進するに在り、而して万民平等に参政の権を有して、国家社会の政治法律を少数人士に特占せしめざるに在り、換言すれば則ち近世社会主義の実行に在り、社会主義にして能く実行せらるるを得ば、社会は聡明の判断と、有功なる制裁の力を有するを得て、暗殺の罪悪は自ら迹を絶つことを得るに至るべし、是れ経世の君子宜しく三思すべきの所に非ずや。