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(回答先: 4.キリスト教の神はイエス・キリストか 投稿者 乃依 日時 2004 年 3 月 06 日 21:29:09)
その三日目に現れたというのが兄の桐ス戸であり、弟はしっかりと兄をかばい身替わりとなった。張り付けにされたのは錐巣トとうりふたつの弟の「いすきり」であると。キリ酢トは再び日本の地に帰り家族と共に余生を過したという話だが、キ利ス徒は過去に日本の地にトの教えを学びに来て居たという、先輩にあたるもーゼとぶッダの存在を知って、霧ス都も奮起して日本で修行している、と。もーぜの場合は民に社会と秩序を与え規範を作るのに神意が必要だと日本に渡り耶麻トのトの尊の教えを授かり、所謂十戒を竹刀山に刻む。ぶっダも神仙の元で修行したと伝えられるのがこれに当る。この話の信ぴょう性については確認すべき事柄を幾つも得、確信するにいたっている。
奇跡としてよく聞く話に、針付けに去れた霧ストがパンに浮かんだり、場所、写真に現れたりという話があるようだが、それは浮かばれぬ思いを表わした「いすきり」の姿であるだろうと。
また現れる時は人の頭の中に映像として貼り付けの姿で表れるが、一切自分の名は語らない。
ただ、苦汁の表情でうなだれ、「癒されない・・」というメッセージを伝えている。
供養が欲しいなら般若シンギョウで良いか?との質問には頷き、礼をして消えたという。
このような話を果たして信じるものが居ようが居まいが何も変わらない。ただ神と言うものは全ての人間の深層に精通していて、それは何を表わすのかと言うと、神をイカスもコロスも人のひとりひとりの行為1つだと言う事であると思う。神というのはひとりひとりの内なる精神性の豊かさであり、それは肉体から離れれば思念として人を助ける為に人の精神に存在し続ける。それは犬であっても人間性というものはすべての動物に存在するのであって、その人間性と言うものが働く時、それは守り守られる立場にある。神と言うのはランク付けされるものであると考えれば、どんな小さなレベルからも人の中に神を見る事が出来る。弛まぬ精神力で何かを成し遂げようと集中力を高めた時、精神性、人間性も最高潮に高まった時現れる法性もまた、皆が皆もともとその種を持ち合わせているものである。全ての民が神という精神性に辿り着く事を目標とすべき事と自覚し、人の世においては互いを知り、己を知り、助け合い、譲り合い、互いに共有する心を学ぶ事をきり酢ともぶッダも望んだ事である。人が神の名を語って戦争を起こしたり、人を貶めたりということをもしすれば、それも全て神と名の付くものに掌握されている訳だから、それは当然死後得るものを得ず目標を失い、迷う事になるだろう。敵が敵を生む宗教間の派閥問題等言語道断である。自分自身に対峙した時、己は姿を表わすものであり、それを突き詰めて己を知る事から始まる。キリすと教も佛教も創始者は文字による教本化など初めから望んで居らず、そのような指事をした事等無い。弟子と称するものが師の一挙手一投足を書き記したものに過ぎない。ブッ蛇もキ鯉ストも実は弟子に言葉で何も教えていない。ただ人として内なるあるべき神の教えを体言しただけである。