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(回答先: ヒトラーの少年時代とウィーンでの謎の修行時代 投稿者 乃依 日時 2004 年 2 月 28 日 23:41:18)
20世紀で最も異常な人物について、数多くの伝記が書かれた。これはそのなかの一部である。
伝記を書くときに、創作すなわち著者の想像で補うことは必須である。それを記述のなかで断るか否かも自由だろう。ただし史実と異なるものは伝記とはいえない。もちろん自己のうちに史実だと自信をもつものが通説と異なることはよくある。ただ矛盾が明白にもかかわらず、本人の無謬性とか賛美する目的で書かれたものは最早伝記ではない。
おそらく近代以前も同様と思われるが、無謬の君主、神聖なる預言者は存在しない。現在でも外務官僚・軍人の生涯記録程度で無謬性にもとづく本が出版されている。残念なことだ。
ヒトラーはムッソリーニやスターリンと異なり生前追従的な半生記を書くことを許さなかった。従ってこのなかにヒトラーからの好意を期待して書かれたものはない。
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著者
書名と年代
特記すべき内容とコメント
コンラート ハイデン
Konrad Heiden
Adolf Hitler: Das Zeitalter der Verantwortlosigkeit, Zurich,
1936
ハイデンは雑誌記者でドイツ系ユダヤ人。おそらく相当の執念をもって数年間ヒトラーと行動をともにしたに違いない。記述は1934年7月をもって終了しているが、本人はその後ドイツを脱出している。事実関係は極めて正確でかつ記述も冗長ではない。
ヒュー トレーバー・ロパー
Hugh Trevor-Roper
Lord Dacre
The Last Days of Hitler, London, 1947
(邦訳)ヒトラー最後の日 橋本 福夫 筑摩書房
トレーバー・ローパーは大戦末期イギリスの諜報部員。ベルリンの占領にたちあった。その後大学教授。これは伝記とは言えず死の直前の日々を描写したもの。克明さと同時代性で迫力がある。しかしこの時ヒトラーは正常さを失っていたと著者は主張する。果たしてそうだろうか。
アラン バロック
Alan Bullock
Lord Bullock
Hitler: A Study in Tyranny, London, 1952
(邦訳)アドルフ・ヒトラー 大西 尹明 みすず書房
歴史学者によるものだが文体は平明である。この時ニュールンベルグ裁判の資料が利用できたためそれを駆使している。主題はヒトラーが機会主義者で権力志向のみに従い統一した政治的信念に基づいていないという点にある。これはヒトラーの生涯をみるとやはり疑問だろう。ただ著者はその後スタンスを変えている。
ゲルリッツとクィント(共著)
Walter Goerlitz & Herbert A. Quint
Otto Julius Frauendorf
Richard Freiherr von Frankenberg
Adolf Hitler: Eine Biographie, Sttutgart, 1952
ゲルリッツとクィント(筆名:実名は下記)はポメラニアン出身のユンカー。双方とも軍事史家。だが本では1930年から1934年までの権力獲得期に焦点をあてている。そのプロイセン的文体にもかかわらず少なからずそれまで知られていない真実を発見している。ヒトラーへの見方はバロックに近くまた激しい批判を随所に行っている。戦後ドイツで初めて現れたまとまった伝記。
AJPテーラー
A.J.P. Taylor
The Origins of the Second World War,London,1960
(邦訳)第2次大戦の起源 中央公論社
AJPテーラーはむしろ第1次大戦に関連した著作で有名だが、第2次大戦の起源についての著作がある。この本はヒトラーの伝記を目的としたものではない。しかし初めてヒトラーを弁護したものとして注目された。ただしこれは一般的な見方で、著者は弁護目的で書いたとは思われない。第2次大戦はヒトラーが長期的目的のなかで開始したものではないという。だが筆者の言うようにポーランド戦が外交目的(回廊とダンチッヒ)だけで開始されたとは思えない。
AJPテーラーはランンカシャーで木綿商の息子として生まれた。両親は独立労働党に属しイギリスでは早い時期のマルクス主義者。クゥエーカー教徒の学校で学び、良心的兵役拒否者の影響を受けた。その後BBCの解説者として有名。
アンドレア ヒルグルバー
Andreas Hillgruber
Hitlers Strategie:Politik und Kriegsfuhrung 1940-1941,
Frankfurt/M, 1965
ヒルグルバーは東プロイセン生まれ。戦後ドイツで最も有名な戦史家。第2次大戦をドイツの置かれた位置から、必然的なものだったと捉える。この観点だとヒトラーの実行したことが、ドイツの国家意志だと判断されてしまう。もちろん国家がどのように置かれていても戦争を必然化はできず、ヒトラーの悪行もドイツの必然とは関係がない。この点でシュラムとは180度違う。
エーベルハルト イェーケル
Eberhard Jaeckel
Hitlers Weltanschauung: Entwurf einer Herrschaft, Tubingen,
1969
これまでの伝記とは異なる。ヒトラーのユダヤ人迫害とロシア植民地計画は早い段階で確定したイデオロギーに基づいており、戦争とその敗北はその帰結であるとした。イェーケルは社会民主党員で、初めて国家主義的分析を客体化できたのかもしれない。
エルンスト ドイヤーライン
Ernst Deuerlein
Hitler:Einpolitische Biographie, Munchen, 1969
比較的短編だが、非常にまとまっていると評される。日本では専門誌に抄訳されたが全訳本はない。ヒトラーの闘争時代の記述が多い
エルンスト シュラムPercy Ernst Schramm
Hitler: The Man and Military Leader, Chicago, 1971
シュラムはハンブルグ出身の歴史家。第2次大戦では国防軍司令部の記録編集員を務めた。その関係でヒトラーと面会したことがあるという。この本の焦点は珍しくも1939年から死までの期間が集中して取り扱われている。内容は極めて正確である。
ウェルナー マーザー
Werner Maser
Adolf Hitler:Legende, Mythos,Wirklichkeit,Munchen,1971
(邦訳)人間ヒトラー(上)政治家ヒトラー(下) 黒川 剛 サイマル出版会
マーザーは東プロイセンで生まれ第2次大戦に一兵卒として従軍した。その後アメリカの捕虜そしてソ連の捕虜となり東ドイツで釈放された。その後西ドイツに脱出、ジャーナリストとなった。この本はすべて既公刊の書物を利用して書かれた。しかし内容は極めて優れている。ただ、初期の人生に多くが割かれ、とくに女性問題に集中している。ところがそこが必ずしも妥当していると思われない。ただウィーン期におけるヒトラーが必ずしも貧窮の状態になかったことを始めて明らかにした。
ヨアキム フェスト
Joachim Fest
Adolf Hitler: Eine politische Biographie, Munchen, 1973
(邦訳)ヒトラー 赤羽 龍夫 河出書房新社
フェストはテレビ局勤務のジャーナリストだがその浩瀚な読書量には圧倒される。この本はややシュペアーの回顧録に頼っているところはあるが、すくなくとも量の点では圧倒的である。フェストの設問、もしヒトラーが1939年暗殺されたらドイツの偉人として賞賛されただろうか?はその後の伝記作家を悩ませた。
ジョン トーランド
John Toland
Adolf Hitler, NewYork, 1977
(邦訳)アドルフ・ヒトラー1−3 永井 淳 集英社
トーランドはアメリカのジャーナリスト。この本のために250人以上の第三帝国の生存者と面会したという。ただし結論の点でこれまでに登場した伝記と違った観点はない。また、結論でないところではヒトラーを賛美したい気持ちが覗える。他にも第2次大戦に関連して日本関係の本もあるが書評を行うに足りない。
デイビッド アービング
David Irving
Hitler's War, NewYork, 1977
The War Path; Hitler's Germany
1933-1939, London,1978
(邦訳)ヒトラーの戦争(全3巻)赤羽龍夫 ハヤカワ文庫
アービングはイギリス人でドイツの自動車工場で一年間働いた経験をもつ。2冊の本ともにヒトラーを歴史上の偉大な人物ともちあげている。ただし歴史学の教育はないとはいえ、文書の収集や発見の点で優れる。トーランドと異なりヒトラー賛美を前面に打ち出しており、本の売上と名誉毀損訴訟の双方の量を増やした。アービングはネオナチの集会にも現れるなど政治的野心も隠さない。ただし文書の断片から重大すぎる結論を出しており、結論については留保せざるを得ない。
セバスチャン ハフナー
Sebastian Haffner
The Meaning of Hitler, NewYork, 1979
(邦訳)ヒトラーとは何か 赤羽 龍夫 草思社
ハフナーはリベラルの系譜に属し、1938年イギリスに亡命したドイツ人。ハフナーは、1930年代のヒトラーが決して脅迫で政権をとったのではなくて本当に大衆を引きつけていたことを明らかにした。そしてもう一つは疑わしい結論を出した。日本人にとっては耐えられないが、ソ連に1941年12月勝利の公算を喪失しヤケになってアメリカに宣戦布告したというのである。そしてヒトラーはバンゼー会議を開催させユダヤ人に矛先を向けた。この結論はテーブルトークや真珠湾攻撃を聞いた際の副官の証言に反しており筆者のおそらく誤断にもとづく想像の域を出ていない。ドイツ人はこの種の結論を喜ぶが国家主義的偏見だろう。
イアン カーショウ
Ian Kershaw
Hitler: Profile in Power, NewYork, 1991
1980年代までに現れた新発見を全て網羅した著作。伝記ではない第三帝国の歴史書はヒトラー神話−第三帝国の虚像と実像 刀水書房として訳されている。
ジョン ルカーチ
John Lukacs
The Dual, 10May-31July1940:The Eighty-Day Struggle Between
Churchill and Hitler, NewYork, 1991
(邦訳)ヒトラー対チャーチル 秋津 信 共同通信社
ルカーチは1946年にアメリカに亡命したハンガリー人。その後プリンストン大学教授。ヒトラーの伝記で後半の第2次大戦中のもの、とくに軍事作戦との係りを書いたものは少ない。ここではドイツの第2次大戦初期の作戦がほとんどヒトラー自身で案出され実施されたとしている。黄色い作戦についてもマンシュタインの関与は限定的でヒトラーその人の立案だとし、この点ではAJPテーラーと同一である。ただしその他についてはテーラー説を厳しく批判している。邦訳はほとんど意味が通じないぐらい誤訳だらけで原典にあたることをお勧めする。
ドイツ人以外でヒトラーに好意的なものも目立つ。ただしドイツ人のものでも,客観的になれない分だけ独善的な結論に落ち着く場合が多い。とくにヒトラーは悪いが国防軍は正しかった、という論調が共通してあるが、どうだろうか。
また最近の本のほうがより後の時期のヒトラーに焦点が当たっている。日本人からみると1940年5月の意外性がそれまで見過ごされすぎていた。というのは黄色の作戦=セダン突破作戦にヒトラーが成功するまで、防共協定など同盟とみなさずむしろポーランド侵攻とモロトフ=リッペントロップ協定で不可解な指導者だという印象が主流だった。
そしてノルウェー作戦の前のチェンバレンの言葉「ヒトラーはバスに乗り遅れた」も正しく聞こえた。ところがこの作戦と黄色の作戦の鮮やかな成功がバスに乗り遅れたのは日本人と思わせてしまった。
この成功のあとはヒトラーは同盟強化に動いた松岡・大島らをむしろ焦らしたりしている。
1970年代以降の伝記は、以前のに比べより客観性が増したようにみえる。伝記の場合でも作者はどうしても国家主義的偏見がはいりこむことが多い。つまり自国を弁護する立場だ。そして弁護しきれないときはドイツの場合すべてヒトラーが悪くあとは従っただけだという論調になりやすい。
日本人の書いた伝記の場合、マルクス主義歴史学者の場合はスターリン史学の影響をうけ、ソ連攻撃のみに焦点があたるなど史料比較の欠落、反乱史観からの演繹などで問題が多い。これと別に、ジャーナリストが書いたものがあるが、大概のジャーナリスト伝記の特色、新しいインタビューや史料の発見という面が欠落しており価値が低い。ヒトラーと親しくした日本人がかなり存在するにも拘らず残念である。
新しい視点がなく日本人のものは全て割愛した。
最近のドイツの論調とくにセバスチャンハフナーのものは日本人にとり荒唐無稽なものになっている。
セバスチャンハフナーの結論は、ヒトラーが日本の真珠湾攻撃をみてアメリカに宣戦布告したのを(ヒトラーらしからぬ)非理性的な行動だとする。そして戦争に敗北することを予感してバンゼー会議を開催したと言う。これはアメリカの軍事力が強力なことを前提にしている。今からみれば読者は納得しやすいが当時はそのように考えられていなかった。第1次大戦で米軍は決定的な役割を果たしたが武器、訓練とも二流の軍隊だった。ヒトラーはテーブルトークで米兵を過小評価している。そしてこれは第1次大戦に従軍したドイツ兵士の一般的見解だった。要するにヒトラーは真珠湾を聞いて驚愕したのだ。この驚愕について副官を始め印象深く記録している。というのはヒトラーは、めったに感情を外に出さない人間だからだ。
そして軍事的見地からは米軍がヨーロッパまたは太平洋で有力な戦力となるのは1年以上かかると見込み事実その通りとなった。問題は1年ですでに骨格を打ち破ったソ連軍を季節もよい1942年に撃滅できず逆にドイツ軍の進撃が止められたことだ。もちろん日本は1942年にソ連は地上から消滅すると予想した。日本もドイツも世界戦争を積極的に望んだとはいえない。ヒトラーもソ連の短期戦での勝利は不可能と悟ったが、まる1年が与えられたとすれば確実な勝利を予想したのだろう。マルヌ会戦の前とは異なり既にフランス兵200万人、ソ連兵350万人を捕虜にしていた。これは第1次大戦全期間のドイツが獲得した捕虜に匹敵した。
バンゼー会議は東方ユダヤ人の移送を決めたものだが謎は多い。SSだけの手で進められたが、ヒトラーがその指示を口頭で出したのは疑いない。この時、ヒトラーはモスクワ前面での撤退ではなく死守の方針を出している。そして攻勢の方向を南部にとった。レニングラードに至っては消耗を恐れ包囲に止めている。この状態のまま戦線の維持に成功しているから、春からは攻勢に出られることを期待していたはずだ。もともとソ連への侵攻はウラル山脈までしか予定していなかった。
ヒトラーはズデーテン・スロバキアを失ったチェコが自力存続を断念したようにヨーロッパロシアを失ったソ連は存続できないと見たのだろう。また背後が日本だというのもその重要な論拠だろう。セバスチャンハフナーはまたソ連には人口で負けたという。それは重要だろう、しかしそれだけだろうか。
http://ww1.m78.com/weimal/biography%20of%20hitler.html