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ヒトラーの少年時代と
ウィーンでの謎の修行時代
■■極めて裕福な家庭で育てられていたヒトラー少年
●ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアのブラウナウで誕生した。このドイツとオーストリアの国境にある町は、数多くの霊能力者を生みだす“霊媒地方”として古くから知られていた。たとえば1930年代に、その心霊実験で、物体の空中浮揚などを演じて心霊研究家を驚かせたシュナイダー兄弟が、この土地の出身だった。しかも、ヒトラーはこの兄弟の兄、ウィリーと同じ乳母の手で育てられている。
赤ん坊時代のヒトラー
●ヒトラーの父アロイスは、通説によれば、下級官吏としてのみじめで不遇な生活におしひしがれて、怒りっぽい、不平不満のかたまりとなり、飲んだくれで、妻や子供をなぐる暴君となっていた。彼の妻クララは貧乏と夫の暴力のためにヒステリーとなり、「白髪頭のおしゃべり女」となってしまった、とよく言われるが、実際はそうではなかったようである。
父アロイスは税関の上級事務官として当時の小学校校長よりも高い俸給をもらっており、退職後も勤務時代の本俸をそのまま恩給としてもらうことができたという。飲んだくれではなく、蓄財にたけ、家計は豊かで、リンツ市近郊の町に広大な庭園のついた立派な高級住宅を購入している。
ヒトラーの家が貧しく暗い家庭生活を送ったとの通説は、この家屋と土地を見ただけで覆される。何しろ当時3850グルデンの価値があったのである。明治30年頃の日本円にスライドすると、3500円程度に相当するといわれる。米価が1石あたり8円88銭、もりそば1杯が1銭2厘という時代だ。こうした数字から推定しても、ヒトラー家は地方名士として上流階級に属していたことが判る。
ヒトラーの父アロイスと母クララ
●また、父アロイスは、オーストリア・ハンガリー帝国のドイツ民族系官吏として、ドイツ民族主義者ではあったが、自由な思想の持ち主で、幼いヒトラーに極右思想をつぎ込んだ形跡などなかったそうだ。 ヒトラーの母クララは47歳で死ぬまで白髪などなく、もとよりヒステリーではなく、穏やかな愛情に満ちた主婦だったようだ。
このように、 ヒトラーは極めて裕福な家庭で育てられたのであった。ヒトラーは幼い頃から両親に非常に可愛がられ、6歳で読み書きを学んだ。村の学校ではオール5の優等生であり、ベネディクト派修道院の少年合唱隊のメンバーであった。
小学校時代のヒトラー
●ヒトラーは16歳の時(1900年)にドナウ河畔の町リンツの国立実科学校に進んだが、彼の伝記作家の多くは、これ以後のヒトラーを“落ちこぼれ”として描く傾向にある。落第を繰り返し、受験にも2度も失敗するからだ。
いずれにせよ、彼はリンツの町で、美術館やオペラやロウ人形館に通い、親しい友人と深夜の町や野原をさまよい歩くという、勝手気ままな暮らしを送った。
国立実科学校時代のヒトラー
●当時、彼とよく行動を共にしたヒトラーの唯一の親友アウグスト・クビツェクによると、その深夜の彷徨のさなか、ヒトラーはよく、突然の陶酔状態におちいったという。
たとえば1月の塞さにさらされた丘の上で、ヒトラーは急に“ほとんど不吉といってもよいほどの表情”を浮かべ、“熱にうなされたような目”をし、耳ざわりなしわがれ声で話しはじめた。彼はまるで見知らぬ人間になってしまい、“いつの日か、彼にゆだねられる特殊な運命”について、火山が噴火するような勢いで演説したという。こうした幻視体験は、家にいるときも起きたようだ。
ヒトラーの妹パウラは、「彼はしょっちゅう母と私に向かって、とうとうと歴史と政治の講義をしました」と回想している。
■■ウィーンで神秘修行に熱中していたヒトラー青年
●1908年、ヒトラーは造形美術学校に入学するべくウィーンに出る。が、2回の受験に失敗し、やがて用意した資金も底をつき、浮浪者として路上をうろつくようになる。それは孤独と荒廃と虚無への道だった──と、これは公認の伝記の見解だ。
ところが最近の研究で、当時のヒトラーはきわめて裕福な18歳の若者だったことが判明した。父の遺産からの年金だけでも月に83クローネ(新任の教師の月給が5年間66クローネの時代である)。そのうえ彼は、亡くなったばかりの母の遺産5000クローネを受け取っていたのである。
●そんな大金を懐に、ヒトラーは5年半ウィーンの街に姿をひそめる。彼はそこで自分で描いた絵を売る仕事を始めた。絵は風景画を中心としたが、注文に応じては商業ポスターも描いたようである。1908年から1914年の間だけで、およそ2000枚もの絵を描いた。
彼の画風は古典的な写実調だった。当時の美術界は抽象画の隆盛期にさしかかっており、ウィーンもそれに傾いていた。彼がウィーン造形美術学校の入学試験に不合格だった理由は、技術が拙劣だったことではなく、流行から外れていたのが大きな要因だったとみるむきもある。
こうした影響からか、権力を得てからのヒトラーはひたすら古典主義芸術を擁護し、他の画風を認めようとしなかった。ドイツの芸術は新古典主義一色になり、わけのわからない抽象的なものは退廃美術として排されたのだった。
ヒトラーが描いた水彩画。ヒトラーは1908年から1914年の間だけで、
およそ2000枚もの絵を描いた。
●なお、“浮浪者伝説”に彩られたこの時代について、彼自身は後年も多くを語ろうとしない。果たしてこの時期、単に絵を描いて売るだけの生活を送っていたのであろうか。それとも、絵を描く以外に何か特殊な作業に着手していたのではないか? ヒトラーの人生にとって、この時期は芸術家から政治家へと大きく方向転換していく重要な時期である。
●イギリスの歴史家トレバー・レブンズクロフトは、この5年半に関して、ヒトラーは“呪師”としての修行を積んでいたと述べている。
ヒトラーはこの時期、ウィーンの街で神秘領域の書物を専門に扱う古書店の主人、エルンスト・プレッシュと知り合っているが、そのプレッシュ自身、神秘主義者であり、メキシコで古代アステカ人やマヤ人の祭儀魔術の研究も積んでいたとみられている。
彼はヒトラーの資質を見抜き、彼に精神統御や内面的鍛錬の修行をさせたという。目的をひたすら目指す集中力、思考を事物のように操る想像力、感情の激しい抑制、根源的欲望の制御などの修行を経たのち、秘蔵していたマヤの麻薬ペヨーテを使って、彼を神秘の領域に導いたという。(古代アステカ人やマヤ人は、ぺヨーテを使用して、宇宙の深淵と彼らの心を交流させていたといわれている。自分の無意識を宇宙の普遍的無意識へと導くことによって、その語りかける声を聞き取れる能力を目覚めさせていたそうだ)。
●またこの時期のヒトラーの公立図書館での読書傾向を研究者はリストアップしている。古代ローマ、東方の宗教、ヨガ、神秘主義、催眠術、占星術……聖書はとうにすみずみまで読みこなしていた。そこに、リグ・ヴェーダ、ウパニシャッドなど古代アーリア人の聖典が、ゾロアスター教の教典ゼンド・アヴェスタ、エジプトの死者の書が加わるという。
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ヘブライの館(THE HEXAGON)
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