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(回答先: アインシュタインの科学と生涯 目次I 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:22:42)
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity12.html
●突然有名になったアインシュタイン(1919年5月29日:日食の観測)
1919年の初秋、母パウリーネ・アインシュタインが、サナトリウムにいたとき、彼女は息子から、はがきを受け取ったが、それは次のような書き出しであった。「愛する母上、今日はうれしいニュースです。ローレンツが、英国の観測隊が太陽による光の偏向を実際に立証したと電報で知らせてきました。」数日前に、アインシュタインに、そのニュースを知らせた電報は、「エディントンが太陽の縁で星の変異を発見した。予備的な値は、0.9秒と、その2倍との間である。敬具。ローレンツ。」となっていた。それは、非公式の通信であった。何事も確定していなかった。それでも、アインシュタインは、興奮していた。
光の湾曲に対するアインシュタインの理解の進歩を、手短かに要約しよう。1907年、ベルンの特許局の事務官が「等価原理」を発見し、その原理は、それだけで光が何程か曲がることを意味すると知る。しかし、その効果は、あまりに小さくて、とても観測できないと思う。1911年、プラハの教授時代、彼は、その効果は皆既日食の際に、太陽をかすめて通る星の光について検出可能なこと、そしてこの場合、湾曲の大きさは、0.87秒であることを見出す。しかし、「空間」が曲がっていること、そして、それゆえに、彼の答えが間違っていることを彼はまだ知らない。彼はまだ、ニュートンに近い。空間が平坦であると信じていたニュートンは、自らの重力の法則と光の粒子説から、0.87秒 --- 現在ニュートンの値と呼ばれている --- を自分で計算できたはずである。1912年、チューリッヒ時代、「空間」は曲がっていることを発見する。数年経って、彼は空間の曲率が光の湾曲の値を変えることを理解する。1915年、彼は、一般相対性理論によれば、太陽による光の湾曲は、1.74秒 --- アインシュタインの値で、ニュートンの値の2倍 --- に等しくなることを発見する。この2倍という因子は、ニュートンとアインシュタインの対決のお膳立てをする。
アインシュタインが正しい答えを得る以前の1914年に、彼はベッソー宛に彼らしい自信をもって書いていた。「日食の観測が成功しようとしまいと、私は私の理論体系をもはや、まったく疑わない。」
歴史のいくつかの気まぐれのおかげで、彼は誤った結果の上に理論を積み上げるという当惑から救われた。つまり、1912年、ブラジルに出かけたアルゼンチンの日食観測隊は、光の偏向を実験計画に加えていたにもかかわらず、雨のため観測を中止した。また、1914年の夏に、エルヴィン・フロイントリッヒが率いたドイツの観測隊が、8月21日の日食を観測するためにクリミア半島にむかったが、第一次大戦が勃発したために、早く戻るように隊は警告を受け、何人かはそうした。躊躇した者は逮捕されたが、最後には安全に、しかし、もちろんのことだが、何の結果も持たずに帰国した。1916年のベネズエラにおける日食を観測する機会は戦争のために見逃さなければならなかった。過去の日食の際に撮った写真で偏向を探すという初期の試みからは、何も得られなかった。1918年6月の日食の期間に、この効果を計ろうとするアメリカの努力も、決定的な結果をもたらさなかった。
1919年5月29日の日食を観測するために、エディントン率いる観測隊は、南大西洋、スペイン領赤道ギニアの海岸沖、プリンシペ島へ出発した。出発に先立って、エディントンは書いた。「この日食観測隊は、初めて光の重さ(すなわち、ニュートンの値)を立証するかも知れない。あるいは、非ユークリッド空間というアインシュタインの、突飛な理論の確証を得るかも知れない。あるいは、なおいっそう遠大な帰結---偏向なしという結果に到達するかも知れない。」
5月29日、大西洋上は、朝から曇っていた。しかし、やがて空は晴れ、日食の影の中で、光の湾曲は観測された。11月になって、その結果が正式に発表された。
1919年春、一般相対性理論を説明する無声映画が、公開されていた。上の写真はその映画の一コマである。
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