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(回答先: 世界観生成の構造から 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 10 日 12:54:23)
マルハナバチさま、
はい、あたくしは気付いておりましたよ、あなたが雄蜂でいらっしゃることには。
女性の投稿文のご感想として、よく『たおやかな・・・』という形容をお使いでしたが、
あまり女性どうしではそういう形容はしあわないものですからね。
こちらのご投稿のような文を衒いなしに書けるという意味で、
マルハナバチさまは阿修羅でもほぼ随一と言える、
『女性性』的な強さ(を持ち、それ)を表現できる男性なのではないでしょうか。
(これは、別に下のスレッドのフォローとして
おだてたりなんかしている訳じゃありませんからね。)
いや、もしかして如往さまあたりも・・・。
こちらの文章の素朴ではあるが光るような詩情と美に触れ、
自分が少し前にまた(リーマンさまへのレスかなんかだったような気がします)
不倫がどうの、バンジージャンプがどうの、失禁がどうの、オダブツがどうの、と書いた
それらの文中の美の不在を嘆くべきかも知れぬと思ったり・・・。
いや、実はあの頃は開票直後で気が滅入っていたのだ(と言い訳)。
こちらの諸掲示板でも、こういった方向で殿方がほぐれていかれると、
ある意味で、良いにしろ悪いにしろ阿修羅の突出したところを
また全く別の意味で補えるようになるかも知れません。
淑女にとっても一層読むのが愉しい板になったりして。
やはり、精神をほぐす、ということは大切なんですよね。
愚民党さまも、舞踏のお稽古に入ると、まず何とか式(何ていう名前だっけ)の体操で
身体(のみならず、精神の衒いもだと思うのですが)を
徹底的にほぐされると書いておられましたね。
いつか阿修羅でどなたかの投稿して下さったチベット密教の
ゾクチェンについてのお話にもあったけど、ゾクチェンも山にこもって
動物のまねをしたり、心の中にあることすべてを叫んだり
という修業をする、というので、なんだか舞踏だとか、
その衒いや思考のクセ、思考のタコ、ウオノメ(そんなものがあるのか?)、
そんなものをほぐさねばならない、という意味では、
あらゆる芸術や思索、創造のとりかかりに似ているなあ、と思いました。
(ね、マルさま、柔軟さというものは大切でしょ)
マルさまの文に戻りまして:
『もし、男に関わる女たちが媒(なかだち)として、深い感受性や美質を備えていれば、かたどられ、感受性を成長させる男はどうなると想われますか。これは媒として無意識に働きかける女のほうは理解できないでしょう。男は深く感謝するのみ。そういう経験を経た男が書いた。それだけです。』
この箇所を読ませていただいて、そういった深い感受性や美質を備えた女性は
やはり本来は、それを感知する資質を持った男性にのみ抱かれるべきなのだと再び納得いたしました。
また、そういう資質を具えた男性に抱かれることは、前述のような女性にとっても至福であろうし、
『冥利につきる』とはそういうことを言うのではないのでしょうかねえ。
お目出度いロマンチスト(不肖あたくしのことですが)としては、
世間ではこういった男女の結合がこうも稀なのは、一体どういう訳なのだろうと・・・
これについては永遠に問い続けていくことになるのかしら。
以前『匿名の匿名』氏という方と言葉を交わしたことがありましたよね。
マルさまはよく憶えておいでだと思うのですが。
あたくしがかのお方をいじめた、と見られた方々もあったようですが、
そうではなかったんですよ。
実は、あたくしはあの方の中に、ある種の感受性を押し殺し、自己を無におとしめて
仮面を被ってしまった男を見ておりましたのですね(その辺りを
指摘した方もあとで出ていらしたようですが)。
ただただ、勿体ないことです。
堅い殻の中に籠ってあきらめてしまってはならない種類の、これは、
探究ではないのか、とあたくしは思っております。
また:
魂というものが、肉体的な処女性・童貞性などといったものが消失すれば
それと同時にスレていってしまうものであるかというと、
全然そんなことはないはずですね。
そして、ちょっと飛躍しますが、人生というものの中においては
自分にとって価値あるものが見つかるかどうかが運によって決まるものか、というと
そうではないように、オバハンになってから今考えてみて思います。
自分にとっての『価値』という観念に姿と息吹を与え、
それを日々見出し、付与していくという姿勢の有無が、
幸福感を持って生きられるかどうかの分かれ道になるかも、という気がするんですが。
みなさま、如何?
しなきゃいけないレスがまだあるのに、こんなとこに顔出しちゃいました。
ではまた、ごきげんよう。