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(回答先: Re:Q太郎さん、ありがとう![本文は感動で蒸発] 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 10 日 12:52:59)
マルハナバチさんの 戦争は嫌いだ さんへの文章を読んで
だいたい予想していた感じのすれ違い方でした。
これでマルハナバチさんご本人の口から確認が出来てたので、
戦争は嫌いだ さんの勘違いと言う事で、笑って済ませたい(笑)。
それに、アニマの強い文だよと本人もおっしゃっている事だし。
マルハナバチさんが以前からいろんな人を巻き込んでお話したい事は
たぶん私の中ではもう既に自然を観察していればすっと入ってくることで、
私の体の中にすでにあるもののような気がするので応答をあえてしていません。
今あえて応答しない理由は、
何か別の流れに収奪されないようにするためです。
ここはうまくまだ言語化できないのですが、
生命論を求め始めるという流れも、「折込済みのアジェンダ」という感覚が
わずかに残っているためです。
その引っかかりが何かがわかるまでは「協働作業」ができないのです。
議論板のツリーの中での
マルハナバチさんが愚民党さんへの応答に
暗黒舞踏の形骸化について言及されていましたが、
おそらく「暗黒舞踏」というジャンルが成立している時点で、
美学的な形骸化がはじまるのと同じように、
それを私たちの捉えている世界の概念で捕らえきれるようになった時には
もう世界が変質している可能性があります。
事実、私もトランスパーソナルの本を読んだ口ですし、
ニューエイジもいろいろとあさっていました。
最初に「宗教」を捨てたんです。「宗教」は気休めにはなりますが、
いかんせん私個人の中にあるとある焼けつくような痛みは解消できませんでしたので。
で、スタニラフ・グロフ、ケン・ウィルバーを始め、
ティモシー・リアリーからJ・C・リリー、テレンス・マッケンナ、
コリン・ウィルソンやグルジェフなど様々な本を片っ端から読みました。
こうした物言いが大きく取り上げられ20年ぐらいたっていますが、
大元で言われている事はほとんど大きな変化はありません。
私が、マルハナバチさんの気になさっている「生命観」や地球の事や宇宙の事を
ニューエイジ寄りの科学や実際の科学分野の世界の言葉、
あるいは哲学や宗教的な権威づけに概念上も言葉も頼る形で語る事を控えているのは、
そうしたものに簡単に絡めとられる事を拒むと同時に、
それは人間が世界を説明するため、世界を断片的なものとして捉えるために
発明してきた「道具」であるという位置付けをしているからです。
西欧世界はそういう前提「観念=道具」で、
科学の権威、アカデミックな権威、
学際的ヒエラルキーそのものがもつ「権威」が発表する新しい発見によって
誰かが恣意的に「新しいパラダイム」を打ち出したりする一方で、
自分たちの経済活動にとってプラスにならない情報を握りつぶしたりする
恣意的な権力の動きがあるようだということがはっきりしてきました。
そこに働く意志決定の基準は「便利」「役に立つ」などの「経済的理由」が
ある程度優先されていると思いますが、
逆にそうした「さらなる発展」とやらを望んだ曖昧な意志決定である事で
生命倫理の視点が抜け落ちて後々まで禍根を残す事も多いような気がします。
決議延期が決まっていた国連ヒト・クローン禁止条約、採決の可能性も
http://www.hotwired.co.jp/news/news/Culture/story/20031208204.html
このようなニュースも含めて考えたとき、
私たちが目指すべき「進化」の定義がわかりませんし、
そもそも本当に「進化」するという事は一体どういうものなのかという
疑問がわいてきます。
これは科学的世界で言われている事だけでなく、
おそらく「世界観の最新モデル」を装っているニューエイジでも同じ傾向があります。
その源流にある「世界観モデル」を、世界的な主流の考え方にするために
誰かが恣意的に作り出して世に送り出した実験的観念モデルがあるかもしれません。
言葉が先にして現象を後から確認する作業が行きすぎると、
それは自分の中にある観念を補完する事になり、
一定の世界観の外側へは出られなくなります。
つまり「近代」から見た「前近代」「古代」のイメージや宇宙論の捉え方が
その当時を生きた人間の感覚とは違っている可能性も捨てられませんので、
何が一概に正しい、とは言えませんし、ややもすれば、人間を一方向に向かせて
コントロールする為に情報操作したものを垂れ流している可能性も決して否定できません。
おいそれと新しいパラダイムが出てきても、それをまたうまく使って
マネーゲームや政治的な動きを産み出そうとする輩は必ず現れると思います。
「新しい価値観」商売人も出てくるでしょう。布教活動です。
パワーエリートはあこぎです。ややもすると何でも自分たちのためだけに使います。
「利己的遺伝子」のリチャード・ドーキンスとかは利用価値が有りそうではないですか。
こういうときは一見受け入れやすいよさそうなものが実は誰かに利用されて
「一番まずい」ものである事が往々にしてあります。
また自分が好みの価値観であれば進んで身をささげる人もいて、
新しい宗教的な支配を望む人間が現れるような気すらします
(しかも本人はその自覚なしに価値観に身を託してしまいます)。
それではまた「カルト」になってしまい、そこには「教義」が産まれます。
(「教義」は一般信者にとって改変可能な「ルール」ではなく、
それを決定する一部の権力機構だけが改変可能なルールであったりするという事が
世界史を見ていても「良くある事」のようです)
そういう人達をうまく使って、寄生者は相変わらず何かに寄生し続けたり、
あっちの寄生者がいなくなったらこっちに寄生といった様相が繰り広げられるのでは?
と思うと、いまいち今のところは「生命論」について
お話する事を避けてしまうという結果になってしまいます。
新しい生命論を求める事そのものが、またしても「奴ら」に益する可能性も
ないとは思えないのです。
今は少し踏み出せない何かが、私の感覚の中にあって、踏み出さないようにしています。
なぜかはわかりません。でももうしばらくはこの感覚を大切にしたいと思います。
そんな感じです。