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Re:儒教について
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投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 07 日 06:21:26:Mo7ApAlflbQ6s

(回答先: あっしらさんへ質問 儒教について 投稿者 知らない人 日時 2003 年 12 月 07 日 01:17:58)


知らない人さん、こんばんわ。

「日本人は儒教的思考回路」というのが、責任論や名分論につながることはわかりますが、「過去の過ちに過度に自分を攻める(責める)傾向」に結びつくかどうかはなんとも言えません。

原爆問題については、「過去の過ちに過度に自分を責める傾向」というより、起きたことはあれこれ言っても始まらないという考えからことさら責任を問わなかったり、国民挙げて大戦争をやったんだから手厳しい反撃を受けても仕方がないという考えの現われではないかと思っています。

広島のおばあちゃんはおそらく原爆犠牲者と同時代を生きた人だと思いますが、そうであれば、心ある人であれば、原爆犠牲者にすまない気持ちになると思います。
(原爆が落とされてしまうような戦争を私も含めてみんなでやったんだからね、という気持ちの現れなのではないのでしょうか)
「敗戦責任」を自らとろうとせず戦後もえらそうにふるまった戦前・戦中からの為政者たちよりも、ずっと責任論をまっとうしているとも言えます。


儒教は、為政者(皇帝から木っ端役人まで)のための価値観や統治論であって、庶民には無関係の教えだと思っています。
統治を行うものはどのような心構えでなければならないのか、どのようにして秩序と安寧を維持するのかという教え(宗教)で、儒教に則った統治を為政者が行えば、自然と庶民(被支配者)は為政者を慕い敬い庶民の生活も安定すると考えるものです。

日本で儒教的な価値観が一般化したのは明治維新後で、それも学ぶことではなく、(否応なく)教えられるかたちで浸透していったものです。
(儒教全般ではなく、忠孝や礼などが部分的に取り出されたかたちで教えられました。儒教には易姓革命論という為政者にとっては恐い“劇薬”もあります)

一般の人たちは、儒教的というより日本的農村共同体で育まれた価値観や生き方が思考回路の基本で、それに儒教的要素もある教育勅語的価値観が継ぎ足されて、“大日本帝国臣民”になったと思っています。


儒教は、仏教と同時に日本(倭)に入ってきたと思っています。
それは、漢語の受容であり、中国皇帝を頂点とした東アジアの“冊封体制”入りの端緒を意味するものです。
(中国は漢から清を想定。皇帝は非中国に対しては天子であり、非中国の諸王はその臣下という国際関係を“冊封体制”と考えています)

律令制度の確立をもって、儒教が統治の基礎に置かれたと言えます。
(郡県制に基づく官僚統治と律令の施行を律令制度の確立と考えています。律令制度が確立した国は、夷狄から「中国」になったと考えることができます)

逆に律令制度が消滅すれば、儒教は、思想や教養であっても統治体制として実体化していないことになります。

個人的見解ですが、“冊封体制”で臣下として認められていた支配者(一般的には天皇)が広域に律令制度を確立できたことはなかったと思っています。

九州から東北まであまねく律令制を敷きたいと考え、敷いているという主張はあったとしても、実効的なものではなかったという見方です。
律令制の構造的基礎は郡県制であり、朝廷の官僚が直接郡県(地域)を統治するものです。
郡県制が名目だけでなく実質的にも敷かれたという地域は近畿圏を超えてそれほどはなかったことが実効性の欠如を意味します。
(朝廷の史書にどう書かれているかは実効性を証明するものではありません)

そう考えるのは、公的日本史でも、律令制そのものが奈良・平安の400年あまりで消滅したとされているからです。

律令制が確立していれば、権力者が瓦解したとき、中国のようにそれぞれが律令制を敷いて正当性を主張し合う分裂・対立の状況になるはずで、鎌倉以降の日本的な統治体制にはならなかったと思っています。
奈良・平安は、天皇勢力(日本の「中国」化をめざす勢力)が全土にあまねく律令制を敷こうし周辺地域(夷狄)とせめぎ合った歴史段階で、律令制の施行地域は広がっていったとしても、全土レベルでは確立されなかったからこそ、天皇勢力は権威主体となり、政治権力は鎌倉幕府に移行するという日本型統治構造になったという見方です。
任命された地域官僚や軍将官が決起して政治権力を奪取したわけではなく、土着の地域支配者連合が反律令制の戦いを起こして新たな“妥協的”統治構造をつくりあげたことから、近畿圏を除く日本のほとんどは、律令時代と言われる歴史時期でも、土着地域支配者によって実質的に支配されていたはずだと思っています。
(日本では中華が夷狄に敗北したとも言えます)

政治権力の担い手である武士階級も(庶民も)学問と言えば儒教でしたから、儒教的な価値観や統治論が為政者に引きつがれていきました。
しかし、律令制ではないので統治論や儀礼形式は現実政治から切り離されており、心構えの在り方や教養を身に付けるために儒教が学ばれたと思っています。


おかしな言い方になりますが、日本で律令制が初めて確立したのは明治維新であり、昭和20年まで律令制モドキが続いたとも言えます。

維新直後の新政府は律令制回帰と言える政策を打ち出しています。
奈良・平安時代は建前だけの律令制国家だったが、明治維新によって日本に初めて律令制国家が確立したという見方です。
(統治機構の名称や体系もそうですが、廃藩置県は郡県制であり、官選知事は皇帝の官僚による地域の直接統治に相当します)

その後、明治憲法の発布施行により律令制国家から律令制的国民国家に移行し、徐々に近代国民国家へと変わっていったと思っています。

この変化は、同時に、為政者の価値観から儒教的な要素を失わせていく過程だったはずです。
それが、「敗戦責任」さえ明確にしない為政者たちを輩出した一つの要因かもしれません。

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