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(回答先: ハゲタカの売り逃げ(前編) 投稿者 てんさい(い) 日時 2004 年 1 月 10 日 12:50:53)
◎住友信託銀行、公的資金完済です。
http://www.mckinsey.co.jp/articles/2002/12/20021214.html
銀行への公的資金注入を視野にいれた特別支援、産業再生機構などの政策議論の活発化は、日本経済が必要とする経済構造改革が「理念」の段階から「実行」の段階に入ってきていることを意味している。スピードの問題こそあれ、評価できる話である。
ただそれだけに、昨今とても気になることがある。銀行に対する公的資金の投入にせよ、産業再生機構にせよ、国が前に出て(場合によっては相当の国民負担も覚悟して)現下の経済危機を管理するという発想である。それだけに、国家の経済管理に伴う大きなリスクをよほど意識して取り組まなければ、日本経済が社会主義化してしまう危険もあるのに、当局者はその危険を意識的に無視してしまっていないかということである今の議論を聞いていると、銀行の資産の健全化を言いながら、一方では中小企業への貸し渋り問題を起こさせてはならないと言っている。また、企業価値というのは即断できないとか、産業再生機構による不採算企業の塩漬けを是認するような議論もある。
中小企業向け保証の貸倒れは日々膨らんでいるし、中小企業向け信託機能の活用の議論も始まっている。すでに国は大手銀行の実質的な大株主であるため、政府保有の優先株の普通株転換ルールの整備が整えられようとしているが、それを超えてさらなる公的資金注入の話ばかり話題になるのは、相変わらず銀行の経営責任や経営改革の議論があいまいなままであることの裏返しではないか。
本来は金融構造改革の「手段」であるこうした政策の議論が「同床異夢」のままで進み、結局、国家が銀行や企業を抱え込んだまま、問題の先送りに自らも加担する結果となってしまうことを恐れるのは筆者一人であろうか。最近では公的部門による雇用拡大の話も出てきた。緊急対策としてやむをえない面もあると思うが、戦後の欧州がたどり、必死になってそれを逆転させようとしているのが、福祉国家観に基づく「大きな政府」路線である。それを日本は今からやろうとしているのだろうか。
ベルリンの壁が崩壊して社会主義経済システムの破綻が歴史上確定したのは今から10年以上も前のこと。社会主義を標榜する中国が資本主義システムを導入して経済躍進を遂げたのを目の当たりにしている現在の日本で、社会主義化の危険を感じるのは何と矛盾に満ちた光景であることか。
ここで基本的なことを確認しておきたい。
非効率・不採算部門を残したままでは新しいものは生まれない。不良債権の塩漬けは日本経済の潜在力を押さえつける元凶である。おカネの返せない企業は整理する。もちろん、整理される企業の事業の中でも、やってみる価値があるという人がいるかぎりは売却して再生する。これは「市場原理主義」というほどの話でも何でもなく、日本経済が自由主義経済システムとして存在するかりりまったく普通のことにすぎない。雇用問題は、もちろん最大の関心事である。しかし、将来に向けて「よい仕事」をできるだけ増やしていくことが雇用問題解決の本質のはずである。
マクロ的に見た場合、よく話題になる「中高年のリストラ」よりも、若年層の失業率の方がよっぽど大問題だ。不良債権を確実に処理して事業再編を進めることこそ、若年層に希望を与える道である。若年層ができるだけ早く、できるだけ多く「よい仕事」に就くことこそが、将来の日本経済にとっていちばん大事な人的資本の形成につながる。不良債権処理の遅れは、事業再編を妨げ、ひいては人的資本形成の遅れとなる。人的資本形成の遅れは、深刻さを何度強調しても足りない。依然としてこの国のプライオリティである社会資本形成の遅れよりも深刻なのではないか。
もちろん、筆者も国の役割の重要性は否定しない。現在の銀行の財務状況などを考えれば、銀行の国家管理も早晩、不可避かもしれない。ただし、そのときには国は自らの役割を明確に定義し、限定することが大前提である。国家管理が「国会管理」に惰することほど悲惨なことはなかろう。
たとえば銀行の国家管理にしても、「市場に返す」ことを初めから明確にしないと、限りないモラルハザード(自己規律や倫理の欠如)の危険が生じる。1998年と99年に国が大手銀行に対して行ったように、あらかじめどのような条件で国が「撤退」するのかを明示しないまま公的資金を注入することはモラルハザードの典型である。結果として銀行の経営はほとんど革新されず、不良債権処理の見通しも改善しなかった。誰が銀行の企業統治をしているのか、極めてあいまいとなっているのが現状である。投入した貴重な公的資本は見事に「塩漬け」になってしまった。
米国のパウエル国務長官が対イラク戦争などで確立した戦略(いわゆるパウエル・ドクトリン)の重要な柱の一つに「出口戦略(exit strategy)」の前提がある。すなわち、米国がいつ、いかなる形で撤退(=出口)するのかという見通しなしには、米国戦力の投入を行ってはならないということである。
このことは今の日本の経済状況にも十分適用できる。公的資金は貴重な「国家の戦力」であり、企業や銀行を市場に返すという出口戦略なしには投入してはならないのである。こうした戦略がなければ、日本経済は「社会主義化」という泥沼に引きずり込まれ、まさに官民共倒れとなる。
例えを変えて言えば、国家管理はあくまで病気を治癒する「病院」である。入院した人は健康になれば普通の市民生活に戻さなければならない。
病院の収容能力も一定の限界がある。日本政府が不振企業再生のために設立しようとしている産業再生機構も、病人を治したら退院させる制度設計にしなければならず、入院患者を寝かしたままで増え続けるようなことになってはならない。国家管理を病院という役割に明確に限定する基本原理がここでも必要である。産業再生機構の解散時期の明記はことのほか大切だろうし、再生機構が機能しなかった場合のシナリオを十分に考えて、その場面への対応を発足時の法的担保に含めるべきである。
不良債権問題解決のための国家管理は、これまで日本経済が直面した中でも政策的には最大の難問といっても過言ではないと思う。すでに信用がぐらついている既存の政治・行政構造の管理能力でこの問題を解決できるのか、それが今もっとも厳しく問われている。小泉政権の第三者機関任せが「無責任」という意見もあるが、もともと既存の構造の管理能力・問題解決手法ではどうにもならなくなっているために、新しい方法が模索されているのである。「批判のための批判」は生産的でないと思う。
これを解決することができなければ、日本に残された道は「緩慢な衰退」しかないのかということになるだろう。わが国が21世紀に生き延びるための「規律」を自ら生み出すことができるのかが問われている。社会主義化でなく、21世紀の方向に歩んでいかなくてはならないことは明白だと思う。