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「構造改革なくして景気回復なし」という小泉首相の方針は、二期目に入っても揺るぎを見せないが、「構造とは何なのかわからない」とか「構造を改革したら景気は本当によくなるのか」など批判は強い。自民党総裁選では「不況の時は積極財政をとるのがマクロ経済学の常識だ」と小泉首相を批判する候補もいたが、これは間違いである。財政政策は政治的に利用されやすく、その効果は国際資本移動で相殺されるので、景気政策としては使わないというのが現在の経済学の常識だ。
しかし金融政策については、専門家の間でも意見が一致していない。特に議論がわかれるのは、金融の超緩和によって長期にわたってゼロ金利が続いているのに、いっこうに景気が回復しない現状をどうするかということだ。名目金利はゼロでも、デフレで物価が下がっている(実質的な返済額が上がっている)分を加えた実質金利はかなり高いが、名目金利をマイナスにすることはできないので、通常の金融緩和はこれ以上できない。
このようにデフレが債務の負担を重くし、賃金コストを引き上げ、金融政策の自由度を奪っているので、日銀がたとえば「二パーセントのインフレにする」という目標を掲げ、それが実現するまで通貨供給を増やしてインフレにすればよい、というのがインフレ目標である。これに対して、いくら金融を緩和しても資金需要が増えないのは、金融市場に何らかの構造的な機能不全が生じているためで、その原因を是正しないで日銀が目標を宣言しても効果はない、というのが構造改革派である。この論争はもう五年近く続き、意見の違う論者を「経済学を知らない」(http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/noguchi.html)と罵倒するなど、ほとんど感情的な「党派闘争」の様相を呈している。
インフレ派の立場から比較的バランスのとれた議論をしているのが、竹森俊平『経済論戦は甦る』(東洋経済新報社)である。大恐慌後の一九三〇年代に、シュンペーターの主張した「創造的破壊」は、現在の構造改革派に近い政策だったが、デフレのとき緊縮財政や金融引き締めを行うと、古い企業はたしかに「破壊」されるが、需要が冷え込み、資金も調達できないので、新しい企業による「創造」も起こらない。他方、フィッシャーは「デット・デフレーション」論にもとづいて、インフレ目標に近い政策を提案したという。
しかし、シュンペーターが大恐慌の最中に「創造的破壊」を主張したわけではないし、フィッシャーの政策は採用されなかった。竹森氏がシュンペーターの理論としているのは当時の主流だった古典派理論であり、フィッシャーに帰しているのはケインズ理論である。つまり、竹森氏は「三〇年代には古典派よりもケインズのほうが正しかった」という周知の事実をのべているにすぎない。同じ政策が、現在の日本で正しいとは限らない。日本では、すでに三〇年代のルーズベルト米大統領の政策をはるかに超える規模で、バラマキ財政政策と超緩和の金融政策が続けられ、実質的に経営の破綻した銀行が公的資金によって延命されている。フーバー大統領の緊縮財政によって銀行が大量に倒産していた状況とは、まったく違うのである。
他方、池尾和人『銀行はなぜ変われないのか』(中央公論新社):http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/ikeo.html は、不良債権=過剰債務によって企業の新規投資が抑制されていることが長期不況の原因だから、金融システムを正常化しない限り、持続的な成長は望めないとする。不良債権とは、要するに国民の預金の価値が百兆円以上失われたということだから、元本を保証している以上、「穴」を埋める方法は国民負担(税金)しかない。それを完全に処理するには、今後さらにネットで十兆円規模の公的資金が必要になると予想され、現在の財政状態では不可能だろう。不良債権は、今や金融ではなく財政問題になっており、その処理が長期化することは避けられない。ただ池尾氏は、デフレの原因として中国などからの安価な輸入品の増加をあげるが、中国からの輸入はGDP(国内総生産)の〇・五パーセント程度なので、その影響がどれぐらい大きいかは、実証的な検証が必要である。
インフレ派と構造改革派の主張の隔たりは、実際にはそれほど大きくない。竹森氏も不良債権処理の必要は認めているし、池尾氏もインフレ目標を(条件つきで)認めている。岩田規久男・宮川努編『失われた10年の真因は何か』(東洋経済新報社)を読むと、論争が収束してきたような印象を受ける。この中で林文夫氏は、成長モデルを使って、不況の最大の原因は、九〇年代にTFP(全要素生産性:成長率から資本と労働の成長を差し引いた構造的な要因)が低下して、潜在成長率が落ちたためだという結論を出し、小泉内閣の構造改革路線を支持する。宮川努氏も、九〇年代に生産性が低下して部門ごとの格差が開く一方、労働人口の移動がほとんど起こっていないため、人的・物的資源の配分の歪みが大きくなったことを示している。これに対して野口旭氏と岡田靖氏は、潜在成長率の低下はごくわずかであり、主要な原因はデフレ・ギャップ(需要不足)だと主張している。
ただ構造問題をTFPとか潜在成長率とかいいかえても、その中身は依然としてよくわからない。技術革新や司法・教育などの「制度の効率性」が経済成長率を決める最大の要因であることはよく知られているが、こういう社会的インフラの効率は、通常は急に変化するものではない。それが九〇年代に急速に低下したとすれば、何か大きなシステム変化あるいは外的なショックが原因だと考えられる。それはバブルの崩壊や不良債権といった貨幣的な問題ではなく、実体経済そのものの劣化、あるいはグローバルな経済環境の変化への不適応だろう。不良債権というのは、要するに企業が利益を上げて借金を返済できないということだから、その本質は、利益を上げられない非効率な企業が生き延び、(人的・物的)資本がそこに閉じ込められているという実体経済の問題である。「貸し渋り」を防ぐために銀行に投入された公的資金は、こうした「ゾンビ企業」を延命し、日本経済の生産性をますます低下させる結果になった。
これまでの議論をまとめると、デフレの原因として
●不良債権
●輸入デフレ
●潜在成長率
●デフレ・ギャップ
の四つが考えられる。現在のような長期にわたる深刻な不況が、ひとつの原因だけで生じるとは考えられないので、「あれかこれか」という党派的な論争ではなく、これらの要因のうち、何がどれだけ重要かという実証的な議論が望まれる。「構造問題なんて経済学ではわからないから、考える必要はない」といった議論は本末転倒だ。経済学は複雑な人間社会のひとつの側面を数量的に分析する道具にすぎないので、現実がその予測を超えるときは、組織内の意思決定や個人の心理などの「人間的」な要因を分析することも必要だろう。
西野智彦『検証 経済暗雲』(岩波書店)は、一九九二年の住専(住宅金融専門会社)に始まる不良債権問題の内幕を、関係者の証言で明らかにしている。驚くのは、住専の破綻処理を先送りして不良債権処理の混乱のきっかけを作った寺村信行氏(元大蔵省銀行局長)が、「再び九二年にタイムスリップしたとしても、やはり同じことをしたと思う」(同書一二六ページ)とのべていることだ。たしかに銀行団の合意が形成されていないとすれば、大蔵省が会社を清算させるわけには行かない。少なくとも主観的には、大蔵省は民間の利害調整をしただけなのだろう。
こうした「調整の失敗」が起こるのは、官民のさまざまなシステムが複雑にからみあっていて、個々の官僚や経営者の自由度が極端に低いためだ。したがって問題は、こうした相互依存的な経済システムを解きほぐし、もっと柔軟な意思決定を可能にすることだろう。寺西重郎『日本の経済システム』(岩波書店)は、日本経済の長期にわたる低迷の原因は、政府と銀行に情報を集中して経済を管理する高度成長期の経済システムの行き詰まった結果だとし、地方分権で市場メカニズム中心だった「明治大正経済システム」を改革のモデルとして再評価する。
不良債権の処理は構造改革ではなく、その前提にすぎない。日本は、まだ改革のスタートラインにも立っていないのである。いま日本経済の直面しているのは、単なる不況というよりも、社会主義国の市場経済化のような「移行経済」の問題であり、既存の経済学で簡単に答が出ないのは、むしろ当然だ。必要なのは、問題をマクロ経済学にあわせて単純化することでもなければ、大蔵省や日銀などの「犯人」に責任を押しつけることでもなく、その全体像を明らかにして、どういう構造が問題なのかを具体的に検証し、それを是正する政策を考えることだろう。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/foresight.html
★ 池田氏の論説を紹介するというより、書籍の紹介のつもりで転載しました。