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(回答先: 「ガス室があった」ことを示す客観的証拠について 投稿者 たけ(tk) 日時 2003 年 12 月 23 日 17:31:57)
> >おそらく、サルでもわかる さんとのちがいは、証拠提出義務がどちらにあるか、という前提の
> 違いだと 思います。わたしは、事実があったと主張する側が証拠を提出するのが常識的だと
> 思っています。しかし、 逆に「事実がなかったと主張する側が、事実がなかったことの証明をする
> べきである」という前提に立って 判断すれば、高橋さん側の勝ち、という印象を持つのかも
> しれません。
当然、どちら側にも証明の必要があります。
ないことの証明は難しいとはよく言われますが、実際にないことを証明する(あるいは、ある可能性
について制限をつける)ことの意味を理解している人は少ないでしょう。
> 見落としはあると思うので、サルでもわかる さんが「ガス室があった」ことを示す客観的証拠と
> 思われる 点を指摘してくれるとありがたいです。
単独で、決定的とされる証拠など必要ありません。
断片的にでも存在する物的証拠・証言のすべてか大部分を、整合的に、かつなるべく未検証な仮定を
導入せずに単純に説明するモデルとして、ガス室によるユダヤ人大量虐殺というのがあり、それ以外
のもっともらしい説明が存在しないからです。
これらの現存する証拠のいくつかどころか、ずべてまたは大部分を、信憑性に問題があるということ
で不採用にしたとしても、それらが真偽不明なままでは、当該事実の可能性に関して何の制限もつけ
られない上に、これらの証拠とされることが存在する理由も説明できず、実質的には無意味です。
当該事実がなかったことを証明する(あるいは、あったという可能性について意味のある制限を
つける)ためには、証拠とされることのすべてまたは大部分が虚偽であることまでを示さなければ
なりません。
つまり、物的証拠はことごとくでっち上げか他の説明が可能で、証言者はみな嘘つきか、脅迫・
拷問されてそう言ったのだというようなことです。
ガス室はなかったとか、南京大虐殺はなかった、慰安婦の強制はなかったなどと主張する人々は、
概ね、都合の悪いことは無視して、証拠とされることの一部についてだけ(多くの場合根拠なく)
まさしくそう言っているのですが、当人たちが自覚しているかどうかにかかわらず、ほとんど
「なかった」ことの論証になっていません。
ところで、「客観的証拠」というのは、例えばどのようなものを想定しているのですか?