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(回答先: なんでだろう〜♪ 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 11 日 23:50:06)
マルハナバチさん真剣な問いかけありがとうね。「運の強い人より」というHNの認識番号のメモをなくしてしまったので「運の強い人」というHNに換えて書きます。
で京都の和雑貨工芸品メーカーが製作したミニ置物「金のうんこ」(金色で、1.2センチ左巻き)が女子高生、OLに大人気で、200万個売れているというという情報を枕としよう。
さて、武士道というのは、管理者(権力者)つまり一握りの人間に服従する心得を体系化したものであって、これは、管理者側と管理者への奉仕者の間のガイドラインみたいなものだね。で、武士道は典型的に人治主義原理に属する。ここが最大のポイントじゃないかな。
僕はね、人治主義に原理的に反対だ。これはエリート主義で専制体制の論理だ。自分としては天の権威、自然の権威、自然法則に対して服従する考え方に賛成するんだよ。自然法則の根源には「自由」という価値があると考えている。自然の側の表現には無制限の自由がある。人治主義=エリーティズム=専制体制は、自由というものを認めないんだね。で、今我々が向かおうとしている社会、『彼ら』が作り上げようとしているのは、プライバシーもなく、自由を奪われて奴隷化する体制。
で、少しこれとはずれるんだが、「ウンコ」は自然界が持つメカニズム、自然法則を知る、あるいは思い起こす上で非常に優れたものではないかな。人間と大地とをつなぐ存在という面がある。「つながり」「循環」というのは自然法則に属するね。カイチュウ博士の異名を取る,藤田紘一郎教授は最近著『うっふフン』のなかで、『アレルギー疾患や新たな感染症の背景には清潔志向がありこのため、寄生虫、常在菌が殺されるだけでなく、ウンコそのものが不健康になっている(例:腐らない、犬のウンコ)。ウンコの社会的地位を上げるべし、ウンコの存在意義を確立すべし』と吼えている。文明批判の視点がある。西洋近代というのは、いわばウンコを敵視し厄介払いすることで、ウンコの地位を下げた文明であるということだ。ウンコを見つめないことにより、自然界と人間界の相互の関係性、つながりが見えなくなったといえる。しかし、近代ではない武家社会でも、ウンコの地位より、大名や天皇の地位のほうが高かったはずだ。つまり権力が発生するところ、人間関係に上下感が発生するところ、「ウンコ」の地位は下げられたのではないか。権力性とウンコは対抗関係にあるのではないか。
で、別次元に飛ぶが、にグローバリズムの政治原理の本質は絶対的専制だが思う。この原理は「つながり」とか「循環」とかいった法則とも本質的に矛盾するものだと思う。「つながりを」切る、排他・排斥する、という原理なんだと思う。閉鎖系に押し込むということ。「金のうんこ」が女性に売れているというのは、「女性」という性が、いびつな男性原理であるグローバリズムのもつ排他性・閉鎖性への抵抗、自然界循環系への回帰の切り込み作業をしていることを示唆しているのではないか。女性がブッシュや日本の官僚や小泉、またやんごとなきおかたに、ウンコを投げつけるというのが、権力切り崩しの象徴的図となるのではないか。
一方、日本で減反政策で主食の米の生産が国内的にできなくなりつつある。これは世界管理者側の人口削減策の一環と思う。米をもっと植えればといっても、米というのは、政治性の濃厚な食べ物。日本の統治権力者の価値の機軸になってきたし、一般庶民にとっては米を主食にする習慣は明治になるまでなかった。いつもアワやヒエを主食としていた。米を食べるのは統治者(天皇ー大名ー武士)側だったと理解している。
今後日本食料を自給するには、このさい米でなく、アワ・ヒエを植えたらいい。これらは非常に野性的な食べ物で、栄養的にも良い。さすがにアメリカ農民はアワ・ヒエを生産して輸出してくることはないだろう。
実際食料恐慌が起こされる可能性を感じるな。そのとき生き延びるためにもアワ・ヒエでいける。食べた後、脱糞して、自然のメカニズムの尊さを思い出し、自然法則にかなった社会原理に移行するための感受性をつけていく必要がある。その際自然法則認識のための感謝祭とい儀式が助けになってくれるんじゃないか。脱糞という用語の選択は、『彼ら』にこれでも食らえ!顔にでもぶつけてやれ!という意味合いをも込めた。
あっしらさんの共同体論については、詳説されていないので、よくわからないな。でも、コミューンのイメージに近く、本質的には専制政治を目指した共産主義理論にとおくないような政治性の響きがするから、ちょっと抵抗あるね。新自由主義の対抗枠組みとして、「国民経済」というのはわからないじゃないけど(ビル=トッテンさんなんかもね)、戦後から80年代半ばまでの日本の枠組みがこれだったから、この時代の政経様式に戻れというのかな。それだと、自然界を権威の軸にすえた政経様式とは本質的にちがうね。「国民経済」とは資本主義経済制度という文脈での概念だから。資本主義経済の超脱するビジョンは「自然法則」を価値軸としたものじゃないかな。かといって、じゃあそれ「エコロジー」?って来ると思うんだけど、それでは包摂できない、より大きな枠組みのビジョンなんだ。だけど今のところよく説明できないな。