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(回答先: 戦後日本の「原罪」と止まらない売国奴たちの勝利 投稿者 書記長 日時 2003 年 11 月 11 日 22:31:23)
死は終わりで、あとは無で、生きているうちが花である、死は暗く、敗北である、とこの様な極めて否定的、独断的な価値観が何時頃からか刷り込まれ、なんとしてもこの世と、この世のものに執着して、その為に今や一部では人様の内臓まで当てにしている状態で、信じられないことである。
本来の日本人にはこの様な死生観はないはずで、戦後あたりから極端に強くなったのではなかろうか。
日本人の死生観はよく花見に例えられるように、満開のサクラの下で宴を繰り広げて、満開のサクラは散る予感を湛えさせ、爛漫と咲き誇るサクラと、散りいくサクラを、この世の人々の生死に重ね合わせ、酒を楽しみ、ウタを歌うと、むしろ死を楽しむ程の余裕であった。
古代の日本人は徹頭徹尾、自然の観察者であり、すべての生きる規範をそこから得た、世界的に見ても稀な高貴な文明を営んでいたのである。
そこには生と死の差別もなく、ただひと時も留まることの無い、変化である、季節が変わるがごとく、人も生まれ、営み、やがて土に帰る、実に淡々とした営みが永く永く行われてきた。
そこには会者定離の別れの悲哀はあるけど、蘇り(再生)を信じむしろ死を生き生きとしたものと捉えていた。
生も死もイノチの躍動の両側面であること認識してたのではないでしょうか。
この世と、この世のモノに病的なほど執着する欲深い生き方は本来の日本人の生き方では在りません。 死を無と錯覚しその幻影に怯え不様に生にしがみ付いている内は、日本人の真の覚醒はないのものでしょう。 死を恐れるな、不様な生き方を恐れよ!!イノチは不浄不滅。
散るさくら 残るさくらも 散るさくら