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(回答先: あえて重ねて質問します 投稿者 まさちゃん@何度やっても表示されない! 日時 2003 年 12 月 26 日 21:22:14)
まさちゃん、表現は気にしないでください。気にしない性質ですから...
>死体の焼却作業と轢死体の片付け作業のどちらが質が高いか・・・マーケットメカニ
>ズムで決めるんですかぁ?
「活動質:やりたくない人が多い仕事ほど質が高くなります。判断はまさかのマーケットメカニズムに近いものです。どうしてもやりたくない仕事は無償で行う輪番の強制的割り当てになるかもしれません」の補足になりますが、飛び交った肉片を集めて葬れるようにする仕事がイヤだと思う人が多ければ、轢死体の片付け作業のほうが質が高く(同じ時間であれば稼ぎが多い)なるという考えです。
輪番的な割り当てで、運悪くそのときに轢死体の片付け作業が発生するかもしれません(笑)
>歌手や漫画家になりたがる人は多いですが、これらの仕事は質が低いのでしょうか?
他者に見せる芸能活動やスポーツ活動は、無償の活動になったほうがいいと思っています。
その意味では算式に照らせば最低の仕事といえますが、人々に喜びと感動を与えるかもしれないすばらしい活動だと思っています。
プロの芸能活動家やスポーツマンを共同体が必要と判断するのなら、それはそれでいいと思っていますが、見る人たちの評価(集客力)でふるい落とされたり、稼ぎはたいしたものではなくなると予測しています。
>>活動量:まさかの労働時間です
>労働時間で量を計ることができるのは、ホワイトカラー的にしろブルーカラー的にしろ、労働が単純作業にまで分解されていて、誰がやっても同じ質、だから時間で量を計ることができる・・・というような場合しか厳密には成り立たないのでは(ですから現在でも成立していない)。
>たとえば芸術や学術研究活動など、その成果を時間では計れない仕事はどうするのですか?
>実現できる欲望量:財やサービスが購入できる活動証書の量です
つまり、他人が決めた“活動質”や“活動量”によって、自分の実現できる“欲望量”が決まるということですね?
心身障害者の人はどうしたらいいのでしょうか?
マーケットメカニズムや労働時間では、心身障害者の人は健常者に比べて低い質で短時間の労働しかこなせないでしょう。
しかし、彼らが生きていくには、健常者以上に財やサービスが必要です。
うまくサボる人もいれば、てきぱきこなす人もいるでしょう。
サボる人は叱責を買ったりできばきこなす人は称賛されるかもしれません。
さらに言えば、ある活動はサボるけど他の活動はてきぱきこなすという人もいるでしょう。
固定的な職業ではなく、いろんな活動をわたり歩くこともできるのですから、週4日×5時間という規定活動時間の就業があれば最低の稼ぎが一律でもかまわないのではないでしょうか?
もちろん、病気や身体的条件で就業できない人にもきちんと生活できる稼ぎが付与されるはずです。
芸術や学術研究は、余暇を楽しむ活動対象になればいいと思っています。
そのような活動を共同体的必要活動として認定するかどうかはその時点での判断でいいと思っています。
>“開かれた地域共同体”は心身健康で頑強朗らかな人間にはヤリガイのある世界かも
>しれませんが、弱者には地獄ですね。
>まさに動物の世界と同じく、自力で行きぬけない個体は死ぬしかないというわけで
>しょうか?そんな社会を人間社会と呼べるでしょうか?
「開かれた地域共同体」については、これまでも断片的ながら書いてきています。
そのなかではこの問題にも触れています。
>フェルマー予想を証明して見事解決した数学者は、どの程度報われるのでしょうか?
>彼の仕事の質をどうやって判定するのか(証明した当初、世界に何人理解できる人間
>がいるでしょう)?
>それに費やした時間をどう算出するのか(人生の大半をつぎ込んだはずです)?
>また、フェルマー予想を証明して見事解決するまでその数学者は無給ですか?
>多くの基礎的研究が無駄な活動として“調整”という名の淘汰を受ける気がします。
その数学者は、規定の共同体的活動に従事した余暇として「フェルマー予想を証明して見事解決した」かもしれません。
その意義がわかる人からは、「おっ、すごいじゃないか」、「お見事!」といった称賛を浴び名誉も得るでしょう。
どのような基礎的研究が共同体的活動にとって必要かはその時点で共同体が判断することだと思っています。
>その一方で、大衆受けする下品で低俗な芸能活動の類は多く報われそうです。
>何か品位にかける社会になりそうな気がします。
それでみんなが楽しい人生を送れるのなら、品位が欠けていても私はけっこうだと思っています。
でも、芸能活動は無償であるべきというのが私の考えです。
>他人の活動を、たとえそれがどんな変なことであっても“共同体にとって無駄”とい
>う理由で淘汰する勇気は私にはありません。
>何か共同体の美名を借りた「明るい全体主義」の匂いすらします。
誤解があるようですが、財の交換が十全に行われないことを“共同体にとって無駄”といっただけのことです。
ある人が稼ぎを購入に使わなければ、活動成果である財が回り回って残ることになるから無駄と言っています。
「開かれた共同体」は基本的に“全体主義”ですよ(笑)
>>しかし、自分は楽しい活動時間を過ごしたからそれでいいのだと思う人もいるはずです。
>確かにいるのはいるでしょう。
>自分の欲望量より多かろうが少なかろうが、活動した分はキッチリ活動証書をもらうぜ・・・
>大衆の原像とはそういう気がします。
「活動した分はキッチリ活動証書をもら」った人が、それを使わなかった場合の説明です。