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(回答先: 罵詈雑言板設立趣意書 投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2003 年 12 月 25 日 20:39:54)
ここで「軽口を叩いて」と言われていたあなたについ同情してしまう。こういった場所では殆どがしばしば「軽口を叩いている」ではないか。
とにかく過ぎたこの件での皆の、「意見のぶつけ愛」を側で見ることは、普段私が感じている数点の事柄について、改めて自分に確認、再認識を促す事となった。その事は他人は気づかないかも知れないが、それは私には大変有益であった。
「鉄は熱いうちに打て」
この格言の響きにはまさに、若さ、情熱、柔軟性というものを象徴としてニュアンスに読み取りつつ、同時に真逆の意味を含んでいる事に気づかされる。
その言葉が胸に響く。
私はこういう所での"議論"と読んでいるものに口を挟む事は今後、やはり控えるのが良いのだと気づかされた。
色んな人がいる。
何処に行ってもそれを感じる。
議論の前に、まずその、「人」というものを知らないと、意見はすべて凶器として扱われてしまう。
このままでは、何にも答えを出せないし、誰も何にも成れないと感じた。
初心に帰るのにいい機会を得た。要らないもの統べて捨てて、やはり里レベルで何かに打ち込んだ方が、本やネットで世界を見るのも良いが、それよりずっと大切だと感じる。人の為に何かを掴もうとするならそれが自然だ。山に籠るのも良い。
とにかく日常の事に常に自然体でいられる事は大事だ。家庭、職場、街の中、田んぼのあぜ道だろうと、何処に居ても大乗。大乗を大道と聴き違いして、自分は常に大きな道のまん中を歩いている、としていたがそれでも間違いでは無かった。
それを思い出すとこういう場所で議論だ、意見だ、と言うレベルには私も、もううんざりしてしまった。これを書くのももう疲れて眠いのだが、後々見る為に、残す為に書いている。
そもそも本当にモノを知っている人はこういう場所で、ましてやネット上でなんか軽口叩いてぺらぺら話してはくれないものだ。それは十分感じている。
私は自分の知りたい事は大抵知っていて満足しているし、自分の身の程より以上の事を今すぐ知りたいとも思わない。本当に必要なものは自分が求めなくても自然と教えられるものだ。それはこれまでの経験体験から十分にそう断言出来る事。
考えても見れば、素性の知らぬものが集まる場所に、仮に皆の知りたいような事を知っている人間がここに訪れたとしても、大事ならば余計軽々しく、口が避けても言う筈が無いだろう。
自分を変える為に、正しい事を知りたいと本当に願うのであれば、まず自分がどうあるべきか考え、行動に表わす。そうしていればいずれ、誰かが、自然が、また自分が教えてくれるものだ。要は信じるか信じないか、それだけだ。
「鉄は熱いうちに打て」
これは二十代前半までの人に向けて捧げたい。
議論は「説教のかけ愛だ」、というのを見かけたが、ある線で納得した。中には議論といえど、人の読み様取り様で、「結局ただのじゃれ愛じゃないか」、「議論というからには皆が納得する答えが出るように働きかけているものだろうな」、という意見もでると思うが、説教とは少なくとも「相手を想って」するものである。どうなっても良い相手には声さえ掛けないだろう。
そういった受け取り方をしたのだが、どちらかと言うと説教より、「説法」と呼べるものであれば良いかと思う。
やはりこういった場所の議論というものには、まず議題を掲げて、それに対して、様々な「意見の掛け合い」をするだけ、が先ずは望ましいと思う。若い人は特に中立の位置で、他人の意見にすぐに靡かず、色んな意見をまず見るべきだ。
"相手にしたくない"人には少なくとも、意見と言って反論レスをしたり、逆に批難する事は、"みだぐね"行為だから、しない方が良いと思う。
「ただの時間潰しのくだらない遊びにつきあってる人」、にしか見えない。何の意味も無い。
人の一生に費やせる時間は有限である事を知るべきだ。
心から人に伝えたい事のみを、せいいっぱい意見として述べる方が良いとは思われるが如何か。
ここはあっしらさんの言うように、誰も彼もが参加出来る意見の述べられる場所であってほしいとは思う。そしてまたいろんな人が集まり、相容れない雰囲気を持っていても互いに邪魔はせず、色んな意見を幅広く述べる事の出来る貴重な場としてもっと発展していけると思う。ますます覗く人は増えてくるはずだから。
ここで何かが出来るなどとは思わないまでも、数年後振り返った時に度の様に自分が成長してきたかを知れる「柱の傷」を記録していく場所として、ここは最適の場所である。「傷」ならぬ「恥」になるかもだが。
数年たった後に振り返って読み返した時、意外な事が判るかも知れないし、自分を知ろうとする時に面白いものになると思う。実に有意義だ。とにかく纏まらなくても無駄にならない意見はどんどんするべき。
仕方ない事だが、中心的な立ち回りの出来る人気の有る人程、身に覚えのない中傷に遇うことも多い、それは当然の事。実に自然な事。
その時にどう立ち回れるかが、その人の魅力を見せ所となるだろう。
それをみて、だめだ、と思う人もいれば、増々魅力を見い出す人も要るだろう。
常に万人が賛同する事などない事も自然。それを周りの人間も知っておくべき。
やはり思うのは最終的に、文章であれ、絵であれ、作品は人を表わすものだから、見るのは結局「人」。作品がどのような素晴らしい内容であれ、人格、品性が見るに堪えないものなら私は何も認める事は出来ない。
ま(笑)ここでの私の人間性はたかが知れているが。
「理屈は並べるが、何を考えているか判らない」、という感じか(笑)。
世の中理屈じゃない。万物に対する感謝と愛だ(笑)、それと我武者らな行動こそ自分を助けるものだと常々痛感する。
では、よいお年をお迎え下さい(笑)。