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(西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで
(大久保、木戸らの外遊と西郷の留守内閣)
明治4(1871)年11月12日、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通が任命され、
以下同行の留学生を合わせて百名を超える大洋行団が、横浜を出港しました。
この岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、
アメリカなどの文明諸国視察を兼ねていました。
しかし、まだ廃藩置県が行われて4ヶ月しか経っておらず、いつ日本に騒動が起こるかもしれない状況での
この洋行団の出発は、時期尚早だったといっていいでしょう。
特に、大久保は、島津久光が廃藩置県に対し、大きな不満を持ち、西郷と大久保を憎んでいるということを
聞いていたので、ほとぼりがさめるまで、それから逃げ出したいという気持ちも恐らくあったと思います。
かなり無責任な話ですが、大久保という人物は、その生涯において自分に都合の悪いことが起きると、
それから責任逃れをするクセがあります。特に自分を見出してくれた久光に対しては、
その大久保の性格が顕著に表れています。
話が横道にそれましたが、こんな困難な状況を一手に任された西郷も西郷だとは思いますが、
西郷も大いに政府を運営する自信があったからこそ、留守を引き受けたのでしょう。
木戸や大久保らがいない内に、斬新な改革を進めようと考えていたかもしれません。
鬼のいぬまになんとか・・・という感じだったのでしょう。
岩倉らが出発すると、西郷を中心とした内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していきました.
特筆したものをあげていくと、@警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、A各県に司法省所属の府県裁判所の設置、
B田畑永代売買解禁、C東京女学校、東京師範学校の設立、D学制の発布、E人身売買禁止令の発布、F散髪廃刀の自由、
切り捨て・仇討ちの禁止、Gキリスト教解禁、H国立銀行条例の制定、I太陽暦の採用、J徴兵令の布告、
K華士族と平民の結婚許可、L地租改正の布告、などの斬新な改革を次々と打ち出していったのです。
これら全ての改革が西郷の発案によるものでは当然ありませんが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革で
あることは、まぎれもない事実です。
よく、西郷に政治能力はなく、明治政府においてただの飾り物に過ぎなかったと書く本が、残念ながらまだ多数出版されています。
しかし、ただの飾り物でしかない西郷を中心として、このような思い切った改革が次々と出来るでしょうか。
また、西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府が当初悩んだ農民一揆や反政府運動というものは、
ほとんど起こることがありませんでした。これは世の人々が、西郷の政治に満足していた結果であると言えましょう。
明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷内閣で行われたのです。これをもってしても、
西郷の政治手腕を高く評価するべきではないでしょうか。
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