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ラ米通信=CORREOLA=CORREO LATINOAMERICANO
【東京通信003−031209】伊高浩昭(IDAKA Hiroaki)
◎自衛隊イラク派遣は将来の大量出兵のための突破口
護憲はアジアと世界のためでもあり、改憲は国際社会に打撃
―日高六郎氏が発言―
小泉政権の自衛隊イラク派遣基本計画決定(2003年12月9日)前日で、日米開戦62周年の8日、東京・神田神保町の日本教育会館で、「市民文化フォーラム」主催の「あくまで〈非戦〉を目指す128集会」が開かれ、パリ在住で一時帰国中の日高六郎氏(86歳)が「15年戦争と日本の知性」と題して講演した。以下は、その概要。[後段の質疑応答では、土井たか子衆院議員も発言した。]
▼常にリアルな15年戦争
3年ぶりに帰国した。冬の東京はパリに比べ暖かいが、日本は陰気だ。先刻講演した小林正弥さん(千葉大助教授)とは初対面だが、若い世代の話を聞き、大変うれしかった。このような大学教員が少なくなっている。
「第2次世界大戦は、日本の若者にはリアルでない」とのことだが、私にはリアルだ。私は1941年の日米開戦時24歳で、東京帝国大学文学部社会学科の最終年度だったが、開戦の12月、繰り上げ卒業となった。「128」を知る者の話を聞いてほしい。当時の状況は、現在につながっている。
15年戦争は満州事変(1931・9・18柳条溝事件)−支那事変(日華事変=1937・7・7盧溝橋事件)−太平洋戦争と3段階に分かれる。1935年の「国体明徴」後、(美濃部達吉教授らの)追放があった。反共に加えて、自由主義者をも叩いたのだ。
満州事変のころ、日本の若者や知識人は批判的立場を維持していた。例えば、教室の机の下に「日帝満州侵略反対」と書かれたビラが置かれていた。授業が終わって教室を出る際、ビラはさっと片付けられた。こうしたエスプリと勇気があった。だが学生たちの知性は、15年戦争で低下した。
▼低過ぎた教員の知的水準
12・8の9時ごろ、号外で開戦を知った。その3日前、杉並区役所で徴兵検査を受けたばかりだった。褌もつけない素っ裸で約20分いろいろと検査されるが、これは「軍隊では何事も隠すことができない」ということを知らしめるためだ。
号外を見て、翌年2月の出兵が決まっていた私は「嗚呼、俺はこの戦争で死ぬのだな」と思った。米国相手に勝てるわけがないと思っていたからだ。バスで東大に行ったが、沿道は軍艦マーチ一色だった。
校舎に入り、ある研究室の前を通ると、中から教員たちの声が聞こえた。「これですっきりした。支那事変はもやもやして分かりにくかったが、欧米植民地主義をひっくり返すのだ。世界史の転換期だ」と教授が言う。すると、若手が「日本は新型兵器を開発したから、絶対に勝つ」と言った。これが東大の知的水準か!
私の一家は皆、批判的で、戦争は憎むべきものと捉えていた。当時、東大文学部には教員は約80人いたが、反戦派はラテン文学の渡辺一夫と、言語学のカンダだけだった。医学部の反戦派は皆無。法学部は7、8人だった。
▼中国戦線行き詰まり対米開戦
当時、満州事変から10年たっていた。「もやもやして分かりにくい」とは何事だ。調べればいいではないか。私にとっては、無謀の戦争12・8よりも、天に代わって不義を為した不義の戦争9・18の方が重要だった。これで日本の命運が決まったからだ。
日本軍は、中国戦線が行き詰まったから、対米開戦をした。「植民地解放」などは、偽りの看板にすぎない。当時、中国には政府が6つあったが、共産党政権と蒋介石政権以外は、満州国のような日本の傀儡政権だった。日本軍は2、3年で撤退すべきだった。15年戦争は、米国だけでなく、中国にも敗れたのだ。
中国戦線で行き詰まった日本軍は、東南アジアを占領し、そこの資源を使って戦争を続けることを考えた。そうなれば米国が動くと踏んで、(真珠湾に)先制攻撃をかけた。わずか半年で勝ち目がないと分かった。ここで、やめるべきだった。
▼あきれ果てたGHQ
概して国が戦争を始めると、やめることができない。1945年7月26日のポツダム宣言から8月15日の敗戦までの間、国会は全く発言しなかった。大政翼賛国会で、国会がないに等しかった。尾崎行雄は満州事変批判はやったが、遂行中の戦争に反対できなかった。
幣原喜重郎内閣は驚くべき事に、戦前と同じ思想の持ち主の集まりで、国体護持を主張した。東大の教員たちよりもさらに知能水準が低い連中が、首相や閣僚になっていた。
マッカサーは見るに見かねて、11・4の覚え書きで、天皇についての自由討議や、政治犯全員釈放を求めた。11月10日に政治犯は釈放されたが、そこに至る前に三木清は9月24日獄中死している。GHQは、どうしようもないと思って覚書を出した。
幣原は、旧憲法と何ら代わらない「自主憲法」案を作った! そこでGHQは、新憲法を起草した。日本側案が負けたのだ。
▼戦争止められない国会
私は1937年のソ連での粛清で、ソ連とは一線を画すことにした。だが一貫して反戦で、社共とも付き合ってきた。反戦を貫くことで統一行動ができた。市民運動が盛り上がると、政党が入ってきた。市民が先で、政党はついてくるのだ。
先の自衛隊イラク派遣を審議する国会は、たった1日だけだった。信じ難い。日本はここまで来たか! 60年安保は2カ月論議された。国会は機能していない。その自覚が有権者にない。国会は戦争を止められない。
フランスではかつて、ヴェトナム支配に最初から反対していたマンデスフランスが、たった30人の議員しかいない政党の指導者だったにもかかわらず、多数派によって首相に選ばれ、ヴェトナム撤退を決めるジュネーブ協定(1954年)にこぎ着けた。日本の国会には、こうした動きが全くない。
▼戦争だけは反対しよう
日本の憲法は、どん詰まりに来ている。1928年に日本は政友会と民政党の2大政党が勝ったが、先月の総選挙と似ている。「万歳」と言っている間に、満州事変に突入した。
10年後か20年後か、将来アジアで大戦争が起こらないという保証はない。その時、日本はどうなるか。私は死んでいるが、気になる。
特に中国とは、戦争をしてほしくない。日本が公式に中国に謝罪したのは、1995年になってからだった。中国は日中友好を守ろうと努めており、日本は応えていくべきだ。戦争が起こらないようにするには、どうしたらよいか。
私はトルストイやクロポトキンから入った反戦主義者で、ややアナーキーなところがあるが、一貫して反戦だ。私の家には、弟が94号まで発行した「家庭新聞」が残っており、そこに私が反戦だったことがちゃんと書いてある。
いま、あらゆる傾向の日本人が戦争だけには反対する、という状況をつくり出す。これをやらないといけない。
【質疑応答】での日高氏らの発言
▼パリを拠点にした理由―日高
私は東大を1969年に辞めた。当時、ヴェトナム戦争を拒否した脱走米兵2人を順に自宅にあずかっていた。脱走兵をかくまうことは、日本の法には触れない。2人はパリに去った。 そこで、2人のパリ生活を見に行った。
パリには、NATO諸国の脱走兵が1000人2000人と居た! 堂々と市内を歩いていた。フランス政府は彼らに身分証明書を与え、とがめることはなかった。就職など生活面は、各自に任せていたが。日本では「(脱走兵を)かばっている」という感じだった。フランスの魅力を感じた。
私の連れ合いは当時、パリで日本、中国、韓国などの書籍を売る書店を開こうと計画していた。私はこの2、3年体調が思わしくなかったが、原稿を800枚か900枚書いた。来年、本として出版される。[縦横にパースペクティブを利かせた自伝のような内容で、04年5月ごろ、筑摩書房から出る予定。]
▼地道に「第3極」を拡大する―土井たか子
私は、聴衆の一人でこの集会に参加しており、一人の市民という原点にかえっている。一言すれば、国会を大政翼賛会にしてはならないということ。しかし戦前とは違う点がたくさんある。
戦前に女性参政権はなかった。男性は有権者だったが、主権者ではなかった。戦後、「自分たちが主権者なのだ」という認識があったか。特に女性に。これが問題だ。
1936年(の2・26事件直後に)、斎藤隆夫議員が粛軍演説をした。こういう議員もいた。いま小泉政権下では政治腐敗、堕落、対米一辺倒などひどい状況だが、小泉人気なるものは落ちない。どうしようもない。
だが「小泉に辞めてもらいたい」との意見はあって、「2大政党論」と並んで「政権交代論」が出た。すべてマスメディアが言ったのだ。メディア、特にテレビの影響力は、悪い方向で強い。有権者の判断基準は、テレビに左右される。
先ほど、(小林講演で〈2大政党〉以外の)「第3極」という話があったが、少数者の存在を尊重するかどうかという認識を持つことが重要だ。
国会では「党首討論」の名の下に、時間配分が不公平な討論が行われ、多数政党の内容の乏しい発言が長時間続く。社民党は4分間しかもらえず、これでは討論にならない。
しかしテレビに頼らねばアピールできないということではいけない。着実に地道にやるしかない。有権者、投票者と対話するため、全国を回る。党首でなくなったのは幸いであり、一議員に戻って活動する。勉強する。憲法問題について討論していく。時間はあまりないが。
自衛隊がイラクに派遣されれば、なし崩しに進む。現実問題として取り組む。〈2大政党〉にも食い込んで「第3極」を広げていく。
▼「徴兵制」を若者に伝えよう―日高
護憲には、今日も意味がある。護憲は単に日本人のためだけでなく、世界の人々のためでもある。改憲となれば、政界中の人々が衝撃を受ける。国際的な問題となる。特に中国や朝鮮半島での反応が強いだろう。このような護憲の国際性を強く訴えていくべきだ。
米国は新憲法制定で、国際的なメッセージを発した。従来のような憲法では日本はもたないよと。第9条は、日本への贈り物という側面と、軍国主義は許さないという懲罰の側面があった。だから、その後の米政府の政策転換は、日本人への裏切りだった。
護憲は、アジアと世界のために重要なのだ。護憲が日本人のためだけという誤解を招かないようにすべきだ。改憲が国際関係を悪化させる点も認識しよう。
新憲法の「国民の権利・義務」は旧憲法そのままだ。これが国籍法、在日差別につながっている。改憲派は第9条とともに、基本的人権と権利・義務の手直しを狙っている。
日本の自民党のように、与党が自国の憲法に違和感を募らせる国はほとんどない。
先に加藤周一と話した際、加藤は「徴兵制があり得ることを若者に伝えれば、若者に衝撃を与えることになる」と言ったが、そう伝えることには賛成だ。
[(小林発言)いまは不況で自衛隊員のなり手があるが、好況となればなり手が少なくなる。そこで政府が徴兵制を敷くことになる、という見方がある。]
日本は全体主義的になっている。日の丸・君が代の強制が、いかに憲法に反していることか!
イラク派兵は象徴的な行動にすぎない。将来、何万人も派兵するための実績づくりだ。日本の若者を動員するための突破口を開くためだ。
かつて兵庫県で選挙応援をしたことがあるが、私は「在日の人々のことを慮る土井さんは、国際的な政治家だ」と訴えた。土井さんは、社民の土井さんでなく、日本の、アジアの土井さんなのだ。一人の人間、人格として行動すれば、影響は大きい。現在の社民への励ましにもなる。
http://www3.kitanet.ne.jp/~vagabond/hidaka.htm